他人が怖いのは、他人に期待しているから






2020年04月25日~:
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「他人は怖くない。」

そういう事実に気づいていてもいまだに心がそれに納得できない。

「嫌われるのが怖い」の正体とは。

他人に対して煩わしさや義務を感じてしまう。ついつい他人の頭の中を想像してしまう。

もしそうなのなら、そこには確実に他人への期待がまだ残っている。

そしてそこからも恐怖は生まれているんだ。

期待と義務に対する恐怖

「他人の言う通りに尽くしたのに、振り向いてくれなかった」

「愛されるために自分を磨いたのに、気づいてくれない。」

「これだけがんばったのに評価されない。」

「自分を評価してくれる他人を失いたくない。」

「自分を愛しくれる人が誰もいないなんて無理だ。」

「怒られるかもしれない」

「嫌われるかもしれない」

「絶望を味わいたくない。」

他人を期待するあまり、義務を果たすことに対して脅迫的になってしまったり、義務を果たせなかったときの喪失や絶望が怖い。

そこからきている恐怖なんだ。

だからこの期待と義務を捨てることによって、他人への恐怖を克服、承認欲求を捨てることができるのである。

期待と義務はセットで必ず存在している。

他人に期待すれば何らかの義務を果たそうと行動するし、他人に義務を感じればそこには義務に対する期待する何かがある。

人はリスクだけで行動するようにはできてない。

この二つは切っても切れない。どちらか片方だけ、というわけにはいかない。

少し奇妙かもしれないがただ期待するだけするということもできない。

期待するということは、相手の出方を待つということだから、その時点で「まつ」という義務が発生している。

そうやって自分を犠牲にして何かを得ようとする思考回路、欲求なのだ。

義務を果たせば他人が自分を救ってくれると”感じている”

「好かれさえすれば、きっと自分は価値ある何かになれる」

「相手の好きな自分になれば、相手は自分を見捨てない」

「自分が義務を果たせば、相手は相応の期待を返してくれる」

もしまだこれを望む自分がいるなら、その思いを捨てきれずに抱いている証拠。

「相手のために生きなきゃ嫌われてしまう」

「嫌われれば自分は無価値になってしまう」

「誰からも孤独な人生は何の価値もない」

という他人から裏切られることを恐れての義務感、期待も同じ。

だからそれに気づいて、完全に捨ててしまうこと。

捨てるのは大変かもしれない

他人への期待は長年の人生の中で積み重ねて染みついてしまったもの。

だからそれを捨てるのは、とても苦労するし、時間もかかるかもしれない。

なぜならそれは、“自分で気づかないとわからない”から。

他人の都合が、如何に自分に対してなんの得にもなっていないこと

むしろ得するどころか、損しかしていないこと

それを自ら“思い知らないと”、ただ誰かが言っていたことというだけでは、捨てる理由としてはあまりにも弱くて受け入れることができないかもしれないから。

だから、つらいかもしれないけど、何度も他人に裏切られる経験をしなければ納得できないかもしれない。

偉人の名言を聞いても、それで自分が変わることはないのと同じで、

人にとって、自らの経験ほど説得力のあるものはない。

でも本当は何度も「裏切られてきた」はず

でもそんな「裏切り」は、自分が他人に期待している限り自分の日常の中で常に発生しているはずなんだ。

義務に応えたのに、相手の期待に応えたのに、その見返りを得られなかったという裏切り

それを経験しているはずなんだ。

ただ気づいていなかっただけなんだ。

“普段通りですれ違う他人たち”

通学中、出勤中の移動時。見知らぬ人とすれ違う時。

彼らの横を通り過ぎるとき、彼の目を気にして気を使って、自分は果たして何を得たのか?

ストレスだけだったはずだ。

緊張、不安。体がこわばり、どこか居心地の悪い感覚。

胸とおなかの間が締め付けられるかのような嫌な感覚。

それ以外に得ているものなどなかったはずだ。

では本当は何が欲しかったのか?そうしてまでほしかったものは?

「変じゃないよ」「どこもおかしくないよ」「おしゃれだね」「きれい」「かっこいい」

そんな他人の承認だったのではないか。

そしてなぜ、その承認をほしかったのか?

それは、安心感

これがほしかっただけのはずだ。

ただホっとしたかった。

安心したかったから他人に認めてほしかっただけのはずだ。

でもそんな道行く人が、一人だって自分にそんなことをしてくれただろうか?

自分を気遣ってくれたか?褒めてくれたか?

してくれなかったはずだ。

ほとんどの道行く人が、自分をただ無視したはずだ。

笑った人すらいたかもしれない。ただじっと見つめるだけだったり、何か思ってそうな顔をしても、結局何もしてこなかったり。

それは当然で、彼らは彼らの都合でそうしただけにすぎないから。

自分のためなんかではなく、単に彼らがそうしたかったからという、彼らの都合を満たすための行動でしかない。

人は当人の都合でしか動かない。それは自分のことを思い返してみれば明白のはずだ。

他人の承認を求めたのは自分のため。自分が安心したいから。

他人のためなんかじゃない。

他人のために”してあげてたこと”は自分がそれを得るために作った義務という都合でしかなかったはずだ。

数えきれないほどすれ違ってきた人間たちが皆そうだったのだ。

皆当人の都合のために行動していた。

誰かのためにただ献身的な人間など、この世に存在しない。

そんな常に他人自身の都合を考えているだけの他者たちに、自分に従順でひたむきな加護者であってほしいという期待をかけて、
それを得るためだと勝手に義務を感じて、ただ身を削り続けただけ

「ただ自分で自分を減らし続けただけ」

そんな無駄なことを一体何日、何年続けた?

通りすがりの他人たちだけじゃない。毎日顔を合わせるような、身近な知り合いたちにかけていた様々な期待と義務。

クラスメイト、友人、同僚、上司

親戚、家族、親、恋人、子供…

様々な場所で、様々な形で

何百回も、何千回も、何万回も。

何億回だって言ったって過言じゃない

裏切られ続けたんだ。

そしてそれは今も、まだ他人に期待しているのなら続いている。

“裏切られ”が日常だったはずだ

今も更新しているんだ。”裏切られ”の経歴を。

他人に期待した数だけ、その数は更新されていく。

そういう事実達なんだ。「期待に裏切られた」「義務に裏切られた」事実達。

精いっぱい自分を投じて、自分を犠牲にして、それでも得られなかった様々な事実達。

他人自身にではない。

ほかでもない、自らが作り出した思い込み達に裏切られ続けた事実達のことなんだ。

そういう事実にきづくことなんだ。

そしてそれをすべて捨ててみればわかる。

それを本当に捨ててしまうことができれば、その瞬間直ちに、自分があれほどほしがっていた「安心感」が手に入ってしまう。

それも常に得られてしまうのだ。

だから本当に自分を変えたいなら、自分を救いたいなら。

他人への思い込みを捨てること。捨て続けること。

他人への期待、甘え。そこからつながる義務感、責任感

そういった他人の都合という思い込みのもろもろのすべてを捨てる。

そして素直になった自分の都合だけで生きていくんだ。

この生き方ができるだけで、かつてない安心感と自信が得られる。

以前の人生とは比較にならないほど価値があることだ。

体験してみればわかる。

そうして変わった自分には後悔は微塵もないだろう。

なぜなら、他人への期待も義務も、すべて必要がないことがわかってしまったのだから。

そんな苦しみから自分を救えたことがうれしくてたまらないはずだ。

自らの思い込みをすてて自らを救う

そして、人生とはこんなにも軽やかで、自由なものであったことがわかるはずだ。

人が欲しがっている自由の本質は、物的なものには宿らない。

人は最低空腹さえ満たすことができてしまえば、あとはどうでもいいくらいの生物だということがわかる。

それくらい人は、自分の感覚が大事で、自分の感覚を愛しているのだ。

自分の感覚こそがこの世で最も価値があるもの。

人の真に価値があるものとは、最初から自分が持っている自分の感覚なのだ。

もっと自分の「すること」に素直に

他人が望んでいることでもない

他人が見ていることでもない

今自分が「している」こと。それにもっと素直になっていい。

その他のことは全て「無視」していいのだ。

他人が期待する義務はいらないのだ。

外の何かを気にする義務はないのだ。

ただ素直に、今していること。今自分が取り組んでいること

今自分が目の前に、取り組んでいること

それだけでいい。

そのあとのことなど気にしなくていい。

自分がしたことは、すべて自分の手を離れているのだから。

それが外にどう影響を与えるのか、外からどう見えるかは、すべて他人の都合が絡んでいる、自分には関係のないことだからだ

だから何も気にせず、心配せず、今目の前にあることに注力していいのだ。

自分に関係があることは、常に「目の前」にしかない。

今目の前の何かに何かができる。

それだけしか人はできない

それを超えたものには何もすることはできない。

手元にあるスマホも、目の前にあるパソコンにも、着手している仕事も、趣味も、勉強も、

そんなすべてが、「今目の前にあるから」着手できる

手元にない心配事、妄想しないとイメージができないもの。

明日おきること、未来のこと。

遠くの国で起きている出来事、世界情勢、経済の様態。

自分が今いない全ての場所。

他人の頭の中。他人の目的。他人の人格。他人の都合。

他人の内面のすべて。

そんな自身の肉体の機能と五感を超えた先にある全て、人が手を出すことのできない全て。

一切知ることも、関知することも、何かすることもできない。

それは、外から自分に来るものに対しても同じこと。

他人も一切こちらに影響など与えていないということ。

他人も自身の肉体の限界をこえて物事を見ていないし、理解もしていないし、干渉もできていないのだから。

だから最初から決まっているのだ

自分ができることは、最初から最後まで常に目の前のことだけなんだと。

それに素直になっていい。その現実に素直になっていい。

それだけを考えていい。

目の前のこと以外、他のことは、ただの妄想だ。

自分の事だけで一日が溶けていく

自分のすることだけになってしまえば、一日は本当にあっという間に過ぎていく。

そうなってしまえば、もう迷いも不安もなくなる

一日ずっと目の前のやることだけにただ取り組めるようになる。

だから自分のすることに素直になれることは、人生を最も効率よく生きることを意味している。

随分静かで、小さな取り組みのように感じられることもあるかもしれないが、

自分一人が、人個人ができることはこんな些細なこと、非常に微々たるものなのだ。

だから人は誰かと協力することでより大きな何かを作り出そうとすることがあるわけだが、

それに携わったからといって自分が大きなことができるようになったという事実など、少しも意味しない。

そこにはいろんな他人の労力が積み重なってできているからこそできた、というだけのことにすぎない。

「目の前のする」という、たった一つの単純で地味で小さな事実は、自分がこの先どんなことをしても変わることはない

それを忘れなければ、そんな些細な積み重ねの現実に素直になることが、いったい自分にとってどういうものなのか。

それを感じられるようになる。

それを受け入れることができれば、きっともう何も怖いものはなくなっているはずだ。



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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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