「やらなきゃ」では何も続かない。ただ消耗するだけだ




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2020年04月25日~:
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「しなきゃ」「やらなきゃ」

自分の意思に反するかのように、自分に鞭をうつことで自分を動かそうとする思考

これは飴と鞭という、義務を果たせば報酬を得られる、という思考、および教育によって身に着けたものである。

古くから始まった日本の義務教育によって培われる思想の一つである。

しかしこの思想も既に時代遅れかもしれない。この思想で現代社会を生きていくには、あまりにも障害が多すぎるからだ。

飴と鞭のメカニズム

飴と鞭はそれをふるう他人、「主人」の存在が必要不可欠である。

“自分を従わてせてくれる”

“自分をたきつけてくれる”

“自分を脅迫してその気にさせてくれる”

“自分を褒めてその気にさせてくれる”

こういった、他人のトリガーが必要な思考であり、

鞭をありがたがっている思考である。

主人からの指令であれば、そこには必ず飴が用意されているという風に思い込んでいるからである。

そしてその他人がその先に用意したなんらかの報酬を求めて走り出すのだ

それは金銭的なものだったり、誰かと承認だったりと様々だが、

その飴も鞭も全て他人が作り出したものであり、

つまり他人に自分のコントロールを完全支配させているということになる

現代にあふれかえる鞭

現代社会は、昔に比べてずっと鞭でたたかれる機会が多い。

それはもう比較にならないほど膨大で、あふれかえるほどに。

ネット上で多くの鞭にこたえようとしてしまう

昔のインターネットがなかったころの時代は、関わる他人自体が少なかった。

親、学校の教師たち、クラスメイト、バイト先、会社、習い事、サークル

こういった直接会わないとやり取りができない時代であった。

海の向こうどころか、他の県、他の市の人間すらほとんど知らない。そんな時代だった

皆狭いコミュニティの中で生きていて、それで充分な世界だった。

つまり、「鞭を振るう他人」が少なかったのである。

付き従う人が限られていた。だからかつては、それほど無理のある思想じゃなかった。

ネットがそれを変えた

しかしインターネットができてから顔も知らない人と情報交換ができるようになった。

一見「便利になった」という見方ができるかもしれないが、

その反面で大量の情報のシャワーを受け続ける環境を得てしまったということでもある

そしてそれは鞭を求める人にとて自分への鞭のシャワー、ということでもあるのだ。

SNSで鞭にうたれる機会が爆発的に増える

2ch(現5ch)を筆頭に、不特定多数、顔も知らない人との交流ができるようにもなった。

さらにTwiterやFacebookなど、さらに不特定多数の人間と、誰が何を言ったのかが特定できる形で情報のやり取りをするSNSが浸透し、

匿名掲示板よりもより特定的で、リアルの付き合い方に近いネット社会が実現。

あったこともない他人たちと、それも1対1で、時には名指しで付き合う形もできるようになった

そして何千万と他人がそこにいて、それを手軽に見に行ったり関わることのできる環境をSNSは作ってしまった。

そういう情報たち、環境と飴と鞭のロジックの人が関わった場合どうなるかというと、

それはもう膨大の鞭を振るう他人たちと、それもよりリアルに近い形で付き合う、ということになってしまうことを意味する。

だれかのメンションに、だれかのいいねに、誰かのリツイートに、ハッシュタグに、ニュースに、その反応達に。

そんな様々で、大量の他人たちからの滝のような鞭の応酬に打たれ続けてしまうのだ。

肯定も否定も、その時に合わせて受け入れて従おうとする

現代社会では本当にいろんな人の意見や価値観を見ることができる。

そして飴と鞭の思想は、そういったいろんな他人のそれに従おうとしてしまう心の癖をもっている。

自分の今の考えと違っていても、それが”もっともらしく”見えると、
それに説き伏せられてしまうかのように、自分を否定してしまうのだ。

“もっともらしさ”に引きずられる

引きずられようとする、のほうが正確かもしれない。

例えばある意見に対して、“もっともらしい否定意見”をみると、「そうだよなぁ」なんて思いながら、それにならなきゃいけないという意識が働き、無意識に自分を否定する

しかし後で、それに対する“もっともらしい肯定意見”をみると、「やっぱりそうだよね」と、さっきまで受け入れていた否定意見に対して手のひらを反すかのように無意識に肯定してしまう

こうなってしまうのは、それだけ他人の言うことに正しさがあると思っているから。

自分の外に正しさがあると考えているから。

そういう自分の在り方や人生を保証してくれる何かが外にあると考えているから。

つまり、他人に自分を肯定してもらうというアメを欲しがっているからである。

「正しい何か」「正解の何か」というアメを求めて、”もっともらしい”ものの間をいったりきたりする。

繰り返し「やっぱりこっち」と、一旦その時点の自分を否定し、もっともらしい何かに身を寄せ、自分を作りかえようとしてしてしまうのである。

そして無意識に積まれる自己否定の山

しかしその水面下では、自分への否定の積み重ねはどんどんつまれていく。

「やっぱりこっち」を繰り返している時、同時にその時の自分を否定し続けているからである。

SNSでそれをいくらでも繰り返す

それはもうSNSがなかった時代とは比較にならないスピードで、情報量で。

それを行うことになる。情報のシャワー、他人の鞭のシャワーを浴び続けることによって。

それによってかつてない量の自己否定の積み重ねがつまれていってしまうのである。

飴と鞭の思想には「自分」がない

何度もこれを繰り返すうち、自分の寄りかかる”外にある何かの形”が、どんどん“ちぐはぐ”になっていく。

「あの人はこれを正しいという」

「この人はこれを間違いという」

「こういう方法もあるという」

「それはだめなやり方だという人もいる」

「こうあるべきだという人もいる」

「そうあるべきではないという人もいる」

いろんな他人の語る正しさや間違いが、ひしめき合うこととなる。

そんな”ちぐはぐな情報”に付き従い、なおかつ繰り返し続けると矛盾が発生し始める。

そしてその矛盾を解消しないまま共存させようと、自分の中に抱えていってしまう。

特に、「相手を否定してはいけない」という義務の意識があると、これは顕著になっていく。

やがてそんな矛盾達を抱えきれなくなると、自分が何をしたい人間なのか、自分は正しいことをしているのか、普通なのかといった風に思い始めるようになる。

自分の軸がない

他人に合わせている自分を信じられなくなってくる。

では自分で決めるかと思っても、ここで積み重ねた自己否定の山が顔を出す。

自分をこれまでずっと否定し続けてきたから、自分が思う正しさもなく、せっかく自分で何かを決めても、

その決めた何かが正しいかどうかを他人に確認してしまおうとしてしまう。

例えばネット上で自分と同じ考えの人を探したりなど。

そうやってネットサーフィンを利用したりしたことはないだろうか。

そして同じ考えの人を見つけたとき「ホッとした」ことはないだろうか。

「自分だけじゃない」と。

自分だけで決めたり解決することを避けてきたから、怖くてできない。

自分で決めることができない。何が正しいのかわからない。何が間違いなのかわからない。

もうなにもわからない。どうすればいいのか。この先どう生きていけばいいのか

そんな混乱状態になってしまうのである。

抱えた巨大な矛盾の塊は、自分に何の正しさもくれない。何の癒しもくれない

それどころか、ただただ不安と焦燥感ばかりを与えるようになっていく。

ぐるぐると同じ場所を周るだけとなり、前に進めなくなってしまうのだ。

そうやって飴と鞭は、ただただ自分を路頭に迷わる。鞭でたたき続ける恐怖の「悪魔」へと変貌していく。

絶望とは「飴と鞭」と、自分への信用の枯渇

このように、現代社会に生きる人にとって、特にSNSなどの情報ツールを使う人にとって

「飴と鞭」の思想は自分を殺し続け、無駄にしてしまう思想になってしまった。

いろんな他人の言い分に従おうとし、そのたびにその時の自分を殺し続ける、そんなことを無意識のうちに繰り返してしまう。

やがて、他人の都合、義務(鞭)に対する報酬(アメ)への信用の枯渇してしまう

その過程で自分自身に対する信用さえボロボロになってしまう。

自分自身がボロボロになっていく

まるで一種の覚せい剤のように。

良かれと思ってやっていたのに気づいたら自分はボロボロ。

他人の言う正解に従って、正しい生き方をしようとしていたのに、確かな保証を求めていたはずなのに、

そうすることで幸せを求めて付き従ってきたはずなのに、

いつの間にか不幸の袋小路に追い込まれている

積み重ねてきた自己否定の積み重ねが、どこかで爆発する。

抱えてきた矛盾達の洪水とともに。

それが精神疾患の引き金にもなるかもしれない。

もう何も、誰も信じられないと、深く絶望を抱えることになるのかもしれない。

そもそも「飴と鞭」は必要ないのだ

しかし、そんな絶望的な状況にあっても、活路はある。

飴と鞭をすてればいい。

他人に決めてもらわなくていいことに気づいて、自分だけで完結する楽な人生を生きていけば、すべて解決してしまうことだからだ。

別に人はこんなものなくても自分の意思で行動することができる

誰かに課題を与えてもらう必要などないのだ

むしろこんなものない方が人生は驚くほどに単純になっていく

他人の都合全てを捨ててしまえば、残った自分の都合だけで生きていくことができる。

他人軸の人生から自分軸への人生へとかわっていくことができれば、もう他人でストレスをためることもなくなるし、あらゆる義務感、脅迫観から解放される。

他人とのかかわり方も日々のすごしかたも、そのすべてが変わっていく。

リアルだけなく、SNSの使い方もまるで変ってくる。

まず自分の目的が最初に来て、それを達するための情報ツールにしかならなくなる。それはリアルですら同じだ。

飴と鞭がないほうが、ずっと行動的になれるし、快活にもなれる。

野望も希望ももてる。そのために自分を使って夢中になることができる。

自己否定をする必要もない。自分に無理をする必要もない。他人の言うことにいちいち従うこともない。

ただ今の自分でいられる。ただ自由でいることができるようになるのだ。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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