それは勉強が「強制されている」から。
やらされていることだから。大抵の場合、勉強は「しなきゃいけないもの」とされている。
だからみんなやりたがらない。勉強は苦痛で、宿題なんてもってのほか。
だから、いざ自分で何かを勉強しようと思っても続かない。
ことさら大人になって自分で何かを学ぼうと思っても続かない
そんな学びを面白く、長く続けられるようになるには、
その根本にある学びに対する認知の歪みを治すことで、達成することができる
「やらなきゃ」とは、飴と鞭の思考回路
「やらなきゃ」という思考は仕方なくやるという、義務の思考回路。
自分の意思に反して、外から与えられた課題を達成するためにやりたくないけど仕方がなくしなきゃいけないことを、人は「やらなきゃ」と感じて無理やり遂行しようとするのである。
その思考回路は、飴と鞭という、我々が幼少期の頃から受けてきた義務教育によってつ使われた思考形態である。
他人(上の立場)の言うことが正しいという思い込み
飴と鞭とは、自分の意思に反して義務付けられた外から与えられた課題に自分を従わせようとする思考回路。
外から与えられた課題とは、つまり他人から与えられるもののこと。
他人の言ったこと。他人から指示されたこと。
他人から提示された学び。学び方。
他人から指示された仕事、タスク。
そういうものたちのこと。それを実直に沿って遂行”しなければならない”という義務の意識。
義務教育など、学校側から一方的にカリキュラムを”渡されて”いつ何を学ぶのか、その学び方、そして学んだ結果に対する評価まで全て渡される。
そうやって上から降りてくる課題をこなすことがいいことであると思い込まされ続けてきたために、
他人に、「上の立場にいる人間に言われたことを実直にこなすように」教育されることで生まれる思考回路、思い込みなのである
他人が与えるものが正しいものである、という風に思い込む。
この教育を幼少期より叩き込まれることによって、
内発的動機ではなく、全て動機が外からくる自分の意思に反するもので自分のやることを作ろうとするようになる
全て他人が用意したやり方、レールにそって思考、行動、生きることだけを考えるから
自らの意思で何かを、自分の好きなように学ぶということをしなくなるのである。
「やらなきゃ」では消耗するだけだ
そこに自分はない。
自分が自分の意思でいいと持ったこと、楽しいと感じたことを得ることができなくなる。
インターネット上で「こんな自分はおかしいのではないか」みたいなことを検索したことはないか。
「こんな風に考えることが、感じることは、人間として間違っているのか」
「自分だけなのか」
そうやって答えを外に用意された答えに頼ろうとしたことはないか。
そうやってに他人と自分の考え方や価値観の答え合わせをしてしまう。
そんな他人の作り出した都合にすべて自分自身が上書きされていく。
自分の純粋な意思が消え去ってしまうのだ。
他人が評することが正しく、自分を信じられない
そしてその反面で、自分がやることを純粋に信じて行動することができない思考回路でもあるのだ。
なぜなら、自分の意思で解決したい問題を解決しようとしたり、学ぼうと「しようと思う機会」を得にくい上に、
「他人にとって正しくあればならない」という義務を常に感じるように教育されているからである。
自分がやろうと何かを決めてやってみたとしても、その次の瞬間には「自分がやっていることは正しいのか」と不安を感じ、迷いを生じさせてしまう。
その担保である他人の評価を求めてしまう。まるで義務教育のテストのように。
それによって「したい」が「しなきゃ」に変わってしまうのである。
自分でやると決めたことにすら、他人の評価を求めることが普通のことだと思い込んでいるために、他人の正しさのためにやろうとしてしまうのである。
飴と鞭は自分を殺す。
このように飴と鞭は、自分の内発的動機、能動的欲求を縛り、殺してしまうのである。
全てが他人の承認がないと落ち着かない。それを求めてしまうように教育されているから。
この思考回路を持つ限り、自分が純粋に求めるものをもつことができない。
自分がやりたいことを、見つけることができない。
つまり、自分の人生を生きることができないのだ。
現代社会において飴と鞭では、自分を”救う”ことは難しくなってきた
そもそも、「他人が言うことが正しい」という思考がベースにあるこの思考回路を現代社会で用いること自体、難しくなってきているように感じる。
特にSNSなどの利用がデファクトスタンダードになりつつあるこの世の中、
ネットを通じて不特定多数の他人と関わる世の中になった現代社会においては、「何が正しいのか」を誰かの言っていることの中から見つけることはほとんど不可能になってしまった。
昔のように、小さなコミュニティの中で特定の年長者ないしは上に立つ人がいう正しさだけしか知らなかった時代とは違い、
現代のような不特定多数の人が異なる価値観のもとに出力する正しさが跋扈する時代だからである。
“誰が言っていることが正しいのか。”
何千万もいる他人から探し続けている限り、それは永遠にみつかることはないだろう。
いろんな人たちの語る正しさ、間違いに振り回されてしまう。
他人の都合を自分の人生としている限りは、ずっと振り回されてしまうのである。
飴と鞭で動く限り、いろんな相手の都合に行ったり来たりしないといけなくなってしまう。
それでは安定した人生すら送ることも難しい。
飴と鞭を捨てる方法
どうすれば飴と鞭をすてられるか?
義務教育によって調教ともいうべきレベルでこべりついた自分の思考をかえるにはどうすればいいか。
これまでこれでずっと生きてきたのに、今更捨てることができるのか?
それは、私が捨てることができた経験者だからわかる。
できることだ。
それは、あらゆる「義務の意識」を捨てていくことで解決することができるのである。
「なきゃいけない」「べき」を”今”捨てる
「しなきゃいけない」
「ならなきゃいけない」
「こうあるべきだ」
「こうあるべきではない」
この意識を捨てる。捨て続ける。
この意識をすべての瞬間から捨てることで、そこに繋がっている様々な「やらなきゃいけない」が消えていく。
その時に気づいたらすてる。それを繰り返す。
しなきゃいけないという意識は、自分が想像している以上にいろんなところで持ってしまっている思考だ。
そうやって自分を突き動かしてきたのならなおさら。あらゆる瞬間において自分をせかすたびに、自分を脅して無理やり動かそうとする脅迫的な意識、義務の意識が顔出すだろう。
だからそういうものに気づくたびに、その意識を消していくのである。
何かをしてる最中の、しなきゃを捨てていく
目の前の作業にコンプレックスを作る必要はない
例えば「うまくやらなきゃ」とか「ためになることじゃなきゃ」とか「評価される形じゃなきゃ」とか
そういった目の前を否定的にとらえて、かつ義務的にそれを向上しなければならないと感じること。
これは一切やめてしまっていい。
もっと気軽にとりくめる、自分軸の形に変換していくのである。
「知的探究心」、「挑戦」、「解決しがいのある問題」などその捉え方を変えていくのである。
「”今”の取り組み方」をどんどんアップデートしていく。
そうやって”今”目の前のやっていることから、やらなきゃいけないという気持ちで取り組んでいるなにかをやめていけばいい。
そうやって自分を、日々更新し続けていくのである。
具体的な例
少し具体的な取り組み方の例を説明してみよう
たとえば絵を描いている時。何か模写をしているとする。
元の写真を元に絵を描いている。そしてある瞬間ふと、描いている最中に意識が「元の写真のようにそっくりかがなきゃいけない」という意識になっていた。
「そう描かなきゃいけない」という風に感じていた。
それに気づいた。そしたらその意識をその時に捨てるのである。
そして、それを捨てた状態で引き続き取り組んでみるのである。
「下手でもいい。そっくりでなくてもいい」と肩の荷を下ろしていく。
どんどん義務から派生するあらゆる意識に気づいて捨てていく。繰り返す。
繰り返し続けていくと、どんどん楽にそれに取り組めるようになっていく
そしてやがてその模写をする時に「自分がしたいこと」だけが手元に残り、今度はそれを求めるようになっていくのだ。
例えば「このポーズの骨格はこうなってるのか」とか「この光はどこからきてるんだ?」とかそういった知的探求心
もっとリアルに描いてみたい、もっと肌の質感をつけてきれいにしたい、もっと人の表情に迫るようなものが書きたいという探索的な欲求など
自分の純粋な欲求をベースに自分が動くようになっていく。
取り組み方の心理的な形が自分軸へと転じていくのだ。
そして、結果、いつのまにかそっくり描けている
目の前に対する取り組みを能動的に義務なしで楽しむことができると、自然といつの間にか自分の純粋な欲求がそこに現れてしまうのだ
さらに実際にそっくり描けようと描けまいと、それ自体はどうでもよくなっていく。
「そっくりかけなきゃいけない」という意識がないからである。
重要なのは知的探求、探求の欲求で、何かを探ったり試したりして没頭している”今”が最も幸福であるということに気づいていく。
結果はただ後からついてくるだけなのだ。
http://dessindezyoutatsu.xyz/post-7776
「したいこと」の本質
自分のしたいことというのは、「絵を描くこと」とか「〇〇の仕事」とか特定的な業務や訓練ないようというよりは、
「何かをしている時に自分が意識していること」という、”今持っている自分の意識、目的”によるところが大きい。
だからもし自分を見つめなおすなら、特定の何かしかやらない、という“予定”よりも、
自分がしたくないと思った瞬間はどこで、どういう認知でそれに挑んでいたのか、という“その瞬間の話”になってくる。
そこで気づいた義務の意識たち、思い込みをすべてそぎ落とすと、案外、自分がしたくないと思っていた事の中に、よくよくみれば面白いところもあるじゃないか、という風に気づくこともある。
義務をすてて、自分の好きなようにそれを取り組んでみたとき、みえてくるものがある、ということだ。
決められた通りに学ぶ必要も、感じる必要も、取り組む必要もなく、自分の自由にそれに携わっていくことができるようになることで、いろんなものが見えてくる
そしてそれがさらに派生していき、いくらでもそれを探究し、続けることができるようになっていくのだ。
人が生きているのは今この瞬間だけ。
だから見るのは今なのだ。
直すところも、変えるところも、すべては今に詰まっている
今自分がどういう意識で目の前のことを取り組んでいるか。
自分の今見ていることが人のすべてなのだから。
「何かしなきゃいけない」を捨てる
意外と気づきにくいところなのでこれだけ別枠で。
そして私にとっては自分の漠然とした不安の、まさに根本的だったと言わざるを得ないものでもあった。
なにもしなくていい
自分が何もしていないことに対して罪悪感を抱いているなら、それもすべて捨ててしまっていい。
なにもしたいことがないなら、なにもしなくていいのである。
それを受け入れて、見えてくるものがある。自分の感覚、自分の都合。そういったものが見えてくる。
別に見えてこなければそれはそれで構わない。単に見えてきて、なんとなくやりたいことがあるなと思ったら、
それがどんな些細なことであっても、やってみればいい。
今を否定して行動する癖をすてよう
「自分がだめだからこれをやる」
「これをやらないとダメだからやる」
このような自分に鞭をうって行動する癖をすてる。
ただ気楽にやってみる。自分を否定せず、ただ目の前のことに着手していく。
自分の素直な感覚に従ってやるだけ。
必死になる必要もない。気軽にやってみよう
全ての義務を捨てて楽になろう
「しなきゃいけない」という義務の意識は、飴と鞭のロジックからくるもの。つまり他人の都合であり、自分の都合ではないからだ
だから捨てていい。
そこからくる漠然とした不安もすべて。
「何かしなきゃいけない」という意識からくる焦燥感は、感じる必要がないのである。
その意識の先にあるのは全部他人、社会の都合だ。
他人に急かされて生きてきた人の根本にある思い込みといってもいいかもしれない
だから何もしたくないならしなくていい。
単に何かしたいと思った時に何かする。
それを通して、自分の「する」という人生を作っていくのである
自然に動いたり、休憩したりする
目の前の「したい」「しようと思えること」を自然に取り組んでいく
それだけでいいことに気づいていこう。
勉強も趣味も仕事も、全部そんな自分軸で取り組んでいいのである。
自分軸を通すための人生をこれから考えていけばいい。
何にもとらわれなくていい。誰かのやり方に従わなくていい。誰かの言い分に従わなくていい。
そして自由になっていけばいいのだ。
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