SNSで日々行われる誹謗中傷。
炎上した芸能人から一般人、時事ネタ関連の情報をSNSから探ってみれば
必ずと言っていいほど目に入るこの行為。
「こんなやつ消えちまえ」
「世間知らず」
「社会のゴミ」
「存在が気持ち悪い」
これにいろんな「〇〇だから」「〇〇なことをするなんて」「〇〇なやつは」という様々な“おまけ”をつけながら、中傷の言葉が主にSNS上で目に入る。
ニュース、個人アカウント、誰かのメンションなどなど。
昨今のSNSを利用する上で、これらと出くわすことを避けることは難しい世の中になってしまった。
他人のそれならまだしも、いつ自分がその的になるともわからない
何気なく投稿した何かが誰かの逆鱗にふれ、誹謗中傷の種になってしまうかもしれない
それに他人のこと、対岸の火事ですら、自分のことのように感じてしまって苦しむ人もいるかもしれない。
そういうものを気にするあまり、現実だけでなくSNS上ですら気を使い、リアルでもネットでも同じく「生きづらさ」のような物を感じながら生きている人も少なくないのではないだろうか。
しかしそれでも、利用したいと思う人も多いはず。
であれば利用するための障害は、苦痛は少ない方がいいにきまってる。
楽しく利用したい。心地よく利用したい。
でも悲しいことに、誹謗中傷はどこかでおこっていて、それがなくなることは難しいようだ。
だったら、相手にやんてもらうことを待つよりも、自分が気にしなくなる方がずっと早いし、確実。
でもどうしたら気にしなくて良くなるんだろう?
それは、誹謗中傷に対する恐怖を克服することで達成できる。
そしてその恐怖の克服とは、誹謗中傷がそもそもどういうものなのかについて知っていくことで、できるようになっていく。
誹謗中傷という”敵”の正体を知ること。それが最初のステップだ。
誹謗中傷のメカニズム
誹謗中傷とは「相手をばかにしたりけなして、他人の名誉を傷つけようとする行為」のこと
つまり、誹謗中傷は常に「他人のいったこと」が起点にあるということ。
自分が言ったことでも思ったことでも感じたことでもないということ。
「他人が」思ったであろうこと。「他人が」そう感じたであろうこと。
「自分」という登場人物が一切存在しないのである。
つまり、他人の勝手な言い分ということ。
他人の勝手な感想ということだ。
他人の勝手な感想を使って自分を傷つけている
それを受け取った側が真に受けて、傷ついている。
これが誹謗中傷のメカニズム。
というのは、人の精神的な苦痛というのは他人が作り出しているものではなく、
それを感じている当人が作り出しているものだからだ。
そういう仕組みなのである。
短くまとめると、他人の感想を使って中傷された側が自分を苦しめている、ということである。
だから誹謗中傷に築かないようになるためにはこの「他人の感想を使って自分を苦しめる」ことをやめればいいわけである。
「やめられるならとうにやめてるわ!」
もっともだ。こんなところにくるまでもない。
他人の勝手な言い分だと割り切ることができるのなら、とっくにそうしている。
ただの他人の感想なのだから無視してしまえばいい、と。
ではなぜやめられないのだろう?個人の感想なのに。そうわかっているのに。
そうしてしまうケースの一つとして、誹謗中傷の言葉には“発言者の感想にすぎないそれに、正当化する修飾の言葉”がくっついていることが考えられる。
例えば「それが普通だから」とか、「人間として当たり前」だとか、「みんなそう思ってる」とか、そういったもの。
個人の感想をもっともらしく見せる”飾りの言葉たち”のことだ。
その正当化によって、まるで自分自身が世界に対して「間違っている」かのような存在だと思い込もうとしてしまうのである。
自分がこの世にいてはいけないのではないか。そういう思考に至り、結果自分を戒め、苦しめてしまうわけである。
どうであろうと「他人の勝手な言い分」
そういう「もっともらしく見える個人の感想」を真実だと思い込み、結果自分を否定するという選択をしてしまう、ということである。
しかし、いくら、どんなにもっともらしい言葉を並べたところで
それが「個人の感想」の領域を出ないことは変わらないのだ。
なぜなら、人というのはこの世の真実だとか正しさだとかいったものを知らないからである。
もし知っているなら、国ごとに文化が変わったり、言葉が変わったり、法律が変わったりすることなどないだろう。
もしそんなものがあるなら、みな一様に一様の真実を信じ、まったく同じ価値観で、まったく同じ思考で生きていなければならないはずだ。
同じいいことを信じ、同じ美しさを信じ、同じ習慣を信じ、同じ生き方をしているはずである。
しかし実際はそうなっていない。それはご存じのとおり世界を見れば明らかだ。
同じ国だったとしてもローカルルールは地域ごとに違うし、なんなら個人的な交友関係にすら「決まり事」の形は違う。
親しい間柄であれば何を言ってもいいか、といえば、それはその当人たちの関係性に完全に依存している。
大阪のお笑いを考えてみればわかりやすいのではないか?
かなり”キツイ”表現をしているのに、それが笑いに変わったり、普段からそんな冗談のやり取りをしていても、特に交友関係に支障がなさそうだったり。
そんな程度のものなのだ。人が決めたことなど。
人の価値観、倫理観、道徳、常識、普通…
そんなものは場所によって、人によって、関係性によっていくらでも形を変える。
そんなちぐはぐで定的でない世界で、他人がその対極にある「定的な正解」など取り出せるわけがない。
人の言い分に何かを本当に決めつけられるような効力なんてない。
他人は、こちらのことを何も知らない
そもそも他人は自分のことなど何も知らない。
「その他人自身にとってそう見えている何か」に対して言っているだけ。
〇〇なやつはバカ(と他人自身には見える)。
〇〇な人は無価値(だと他人自身には思える)。
他人の感想とは、他人の見えている世界に対するものにすぎない。
全てがその他人の「勝手」で構築されているものでしかないのだ。
他人が言った事に真面目にならないでいい
他人が言われた事に真面目に理解、共感しようとしなくていい。
真面目に考えてそれが正しいか間違っているか検証しようとするからつらくなるのだ。
全て彼らの都合でできた妄言、マゾプレイにすぎないのだから。
そのマゾプレイに、付き合ってやる必要はない。
「私は本当にダメななんだろうか。私は本当にひどい人間なのか。間違っているのか。」
そんな答えを他人に、外に求めなくていい。求めているから、他人の誹謗中傷にも本気で受け取ってしまうのである。
さっきも言ったように、他人は自分のことなど少しも知りはしないのだ。
こちらを全く知らずに言った相手の言ったことなど、全てどうでもいいことなのだ。
他人と自分を切り分けて楽になろう
「他人に言われたという事実」と「自分が思う事実」の切り分けをしていくことで、人から何かを言われても傷つかなくなる。
そうすればSNSもストレスを感じずに利用していくこともできるようになっていく。
誰も自分を傷つけることはできない。
自分を本当に傷つけているのは自分自身で、自分の思い込み。
他人の言われたことをまじめに取らないといけないと感じていること。
他人が言っていることがまるで真実のように感じていしまうその心。
それは他人に対して自分の価値観を置いている証拠。他人に依存している証拠でもある。
別に依存自体を悪いことだと責める意図はない。ただそういう特徴をもっているから、苦しんでしまうということを言っているだけだ。
他人に依存していると、他人の言われた通りの自分を演じることになってしまう。
他人に嫌なことを言われれば嫌なことを感じ、他人に褒められば安心するという風に自分を感じようとしてしまう。
そしてこの思い込みは、長年自分がこれまでに積み重ねてきた自分の使い方によるところにある。
自分がこれまでどう教育されてきたのか。その積み重ねによるところが大きい
それはひょっとしたら、「他人に従わなければならない」という、心の癖のようなもからなのかもしれない
それを解き放って他人から自由になれば、他人が何をしていようと何を考えていようと、全てどうでもよくなり、自分の人生を素直に楽しむことができるようになっていく。
誹謗中傷のために生きなくていい
人生は自分だけのもの。
他人の誹謗中傷のために生きているわけじゃないのである。
ただ自分がしたいことをしたいだけ。見たいものを見たいだけ。
だからそれに素直になってしまえばいい。もっと自己中に、自分を解き放ってしまえばいいのだ。
つまりは常に開き直ってしまっていいのである
ただ自分であり続けていい。今の自分の時点で、もう十分なのだ。
「今目の前にあるもの」。それが自分の世界のすべてである。
パソコンやスマホの向こう側など存在しないのだ。
ただの文字の羅列。記号の集合体。
それ以上の意味は存在していない。
存在していないものよりも、確かに存在している今という現実こそが、自分の今感じている全てなのだ。
自分がある場所は今ここにある。
今こうして立っている
今こうして座ってる
それだけのことだ。
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