善悪の生き方を捨てよう。




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2020年04月25日~:
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「善悪」に「真実」なし

人の作り出す善悪に、正しいことも間違っていることもない。

正しいこと、間違っていることという概念すら実際にはこの世に存在していない。

そういうものは全て人が決めたルールにすぎないからだ。

そんな人の作ったものを真実のように感じてしまうのは、それを真実だというように親や教育機関によって信じ込まされてきただけに過ぎない。

人の行いは全てただの暇つぶし

人の行いなど、それがどんなことであったとしても、それは単なる暇つぶし。

人が作ったいろんな価値観、ルールも全てただの暇つぶしにすぎない。

真実なんかではないのだ。万人が信じるなにかなど、この世に存在しない。

それは日本以外の国を見ればすぐにわかってしまう。そこには様々な文化や価値観、考え方があることがわかる。

「愛」という概念だって、西洋から渡ってきたものだ。

日本はかわいいという概念はあっても、愛という概念はなかったのだ。

ひょっとしたら今でも日本人は愛が何なのか、実は全く知らないのかもしれない。多くの日本人はその由来であるキリスト教という宗教観をもたないわけなのだから。

そしてそれらにどちらが正しいか、というものはない。

ただのとらえ方の問題。自分の使い方、認知の仕方でしかないのだ。

善悪はただの2元論の暇つぶしである

その暇つぶしに、「悪」とか「善」をつけているだけにすぎないのだ。

しかしこの暇つぶしは2元論という考え方になっていて、多くの場合これに執着すると、自分自身を苦しめてしまう思考形態になってしまう。

2元論に執着してしまうから、自分が悪なのか善なのかを気にする。

目のまえのことが、善か悪かというレンズで見た世界になって、そのどちらかの色で埋め尽くされてしまうのである。

そしてそのソースを、他人の目とか他人の課題、都合から判断して、すがるようになってしまうのだ。

承認欲求は他人の目、課題をもとにした2元論思考なのだ。

何が正しくて間違っているのか。そういう他人が作ったルールに執着し、その上に人は生きていると思いこむ。

そしてそれを守って生きなければならないのだと義務を感じる。

必死に守らなければならないことだと脅迫的に思い込んでしまうと、その人生はきっと苦痛にまみれたつらいものになる。

嫉妬は承認欲求からくる2元論の産物

他人を卑下したり、見下したりするということは、自分を上下の世界においてみているのと全く同じことである。

なぜなら、嫉妬とは承認欲求によって発生する感情の一つだからである。

承認欲求から発生する2元論思考が、上下の人間関係を作り上げるのである

間違っているものが下、正しいものが上、というように。

そうやって下に見える人を見下し、上にいる人を拝むのである。

だからいつも自分が下にいるのか上にいるのか気になってしょうがない。

自分は見下されているのではないか。

誰かに尊敬されたい。褒められたい。

他人のことで頭がいっぱいになりビクビクしているのである。

それを確かめるために、他人の都合、社会の都合にすがろうとしてしまうわけである。

嫉妬は自分を苦しめる

他人を下に見たり上に見たりするのは、自分を苦しめる種を仕込んでいるようなものである。

なぜなら、その思考が自分に不安を作り出す元凶になっているから。

他者に嫉妬し、見下すことによって、同じく自分も他者からどうみられているかどうかを気にするのである。

他人は自分の鑑であるというのはよくいったもの

もし自分が他者を見下し、愉悦のようなものを感じている瞬間があったとしたら、

それはもれなく自分も誰かに見下され、他者に愉悦を感じられることがたまらなく嫌なこと、屈辱的であることだと考えていることと同じことなのだ。

そういう思考が自分を苦しめる。他人の目を気にする理由を作る。

そういう思考を生むのは、このような嫉妬の思考、つまり承認欲求から発生するのだ。

「善悪の判断」を捨てよう。

そんな苦痛から自身を解放するには、そんな自分の2元論の価値観を捨てることにある。

そしてその価値観を捨てるというのは、もっぱら「何かを判断する基準をすてること」にあるのだ。

それが善悪の判断基準である。何を正しいとし、何を間違っているというか。

その判断の仕方をすてるのだ。

「善悪で判断」するのではなく、「したいかしたくないか」で判断する。

その時の自分の感覚と都合だけを感じるように、研ぎ澄ますように。

自分の感覚、都合だけを判断基準にする

判断の仕方を完全にこれに置き換えてしまうのだ

非常に単純で、自分に素直な判断基準だ。

この判断基準のいいところは、一切他人の都合に自分の意思が左右されず、
かつ自分の感じたい感覚を求めて判断できるところにある。

自分が安心感を感じたいなら、それを素直に感じることができる。
それ以外に自分を使うことはしなくなるのだ。自分が望まない限り。

自分が一切精神的苦痛に苦しまないように生きることも可能なのだ。

外にあるのは「判断基準」ではなく、「道具」である。

外にあるあらゆる環境物はその判断基準を行使したときにその時点で選べる道具たちというだけだ

判断基準そのものなんかじゃない。外にある全てのものは悪魔で自分の目的のために使うツールなのである

他人も文化も価値観も。みなすべてその時点で自分が使うことのできるただの道具なのだ。

外の全ては判断基準じゃない。判断基準は自分の感覚。自分の都合。

それだけでいい。外を使って判断しなくていい。自分の目的と感覚だけで判断していいのだ。

判断基準を自分軸にして、楽に生きていこう

自分軸の人生とは、そういった外の概念に自分を行使させない生き方、

すなわち自身にとことん正直に、自分だけの確かな感覚と目的に沿って生きていく考え方だ。

人生は暇つぶし。何をしようがしようまいが、そこに本質的に正しいことも、間違っていることも存在などしない。

全ては自分次第なのである

全ては自分が選ぶもの。

自分が選んで今を生きていくだけ。

人生など、それほど小難しくもないのだ。なんなら我々は動物であるのだから、その本質は至ってシンプルなのだ。

ただ感じたいように生きていい

ただ感覚で生きる。それはこの世のほとんどの動物がやっていることであろう。

猫が自分勝手気ままに生きているように、自分軸の人生を生きればあのように気楽に自分の感覚に忠実に生きていくことができるのである。

外に感覚を求めなくていいのである。外の何かに縋らなくとも、ただ感じたいよウに生きていいのである。

外に感覚を求めようとするのは、一旦「内の自分」を否定する癖から来ている。

内をダメとするから、外からそれを補給し埋め合わせようとするだけだ。

それをやめていい。ただ感じたいように感じて生きていいのだ。

「自分が感じたいように感じたい」とするその貪欲さが、意思の強さの根源。

自分で自分を生きよう

誰かに感じさせてもらおうとする必要はない

誰かに何かを感じようとすることに許可も必要もない。

自分が感じたい何かに向かって生きる

自分が達成したい目的に向かって生きる、

今何を感じたいのか。そうやって自分の心の面倒を自分で見るのである

そういう身勝手な欲望をもって生きていっていいのだ。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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