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この世に「真に変なこと」は存在しない。
それは逆説的に言えば、「真に普通」も存在しない、ということ。
「普通」、「変」の本質は詭弁。
「普通だから〇〇」「変だから〇〇」と、もっともらしく定義づけて正当化するための詭弁でしかない。
つまり、そういう詭弁に「本物」「真実」などではない。
何かを真に正当化することもできなければ、真にレッテル張りをすることもできず、
それはつまるところ、何かを真に担保にして生きていくこともできない、ということも意味する。
この世に何かを真に担保するものなど、始めから存在していない
ゆえに、普通だからとか、変だからということを理由に、何かを完全に保証することのできるものなど存在しない。
普通だから人生が保証される、というわけでもないし、
変だから碌な人生を歩めない、ということでもない。
何一つ保証されることはないのである。
確かなのは自分という選択だけ
確かなのは、自分が自分という存在を選択して今日を生きている、ということだけだ。
何をするのか。どうあろうとするか。どう感じようとするか。どう考えるか。
そういった自身の選択の数々があるだけである。
誰も自分の選択を保証することはできないし、
誰の選択だって何も真に決めつけることもできない。
いわゆる「こうあるべき」がない以上、それがあると思っていたころに描いていた「みな同じ正しい生き方をする」というものも存在しない。
つまり皆が全く別々の生き方をしていて、何も保証されていないのが本来の世界、ということである。
であればどう生きればいいのか。
保証があると思っていたのに、実はなかったこの世界を。
その答えは、実に単純。
「自分という普通」を受け入れる
他人の軸に合わせた自分でも、他人の軸に合わせられなかった自分でもない。
「今の自分」
これを受け入れるだけ。今の自分を「普通」として。そのまま受け入れていい。
自分という存在が「自分にとっての普通」である
なぜなら人は、他人のことを知らない。自分の事しか知らないから。
自分が考える普通という概念は、全て自分にとっての普通でしかない。
つまり普通とは自分しかもっておらず、自分にとって唯一の概念こそが普通なのだ。
世界標準の普通などない。外にあると思っていた普通など存在しない。
今ある自分という存在が自分にとっての唯一の普通なのであるということを受け入れるのである。
人と人は違っているということ。人と違う、交わることのない独立した”相容れない普通”を持っているという現実。
そんなごく自然のことを、受け入れるのである。
自分と全く同じ人間というのは、99%存在しないといっていい。
なぜならそんな人間は、自分と全く同じ場所で同じ時間に生まれ、そのあとも全く同じ場所で全く同じことをして、同じことを考えて生きてきた存在でなければならないからである。
自分が今いるところと全く同じ位置に同じ姿勢の、もう一人の自分がいるだろうか。いないのなら、そんな存在は100%存在しない。
全く同じ積み重ねをしない限り、同じ人間など生まれるはずがないのだ。
だから今の自分をただ受け入れてしまっていい。
今の自分を普通だとしてしまっていいのである。
そうやって自分の普通に勝手になっていけばいいのだ。
いわば「自分勝手」こそが、究極の自分という普通を受け入れた姿なのである。
自分の人生の舵を思う存分ふるってやろう。
自分の普通を行使してやろう。
そうして自分を幸せにしてやろう。
自分を最大限楽しんで生きていこう。
誰かにとっての普通ではなく、自分にとっての普通で。
どんなレッテルを張られようが、自分の普通を否定などしなくていい。
自分という普通が自分にとっての唯一の普通なのだから。
自分という普通を信じていればそれで充分なのだ。
だから、ただわがままに自分の普通を貫いて生きていこう。
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