自分は人と違う、人と違う人生を歩んでいると感じた時。
もしそれが苦痛を生み出していたとしたら。
コンプレックスになってしまっていたら。
それは捨ててしまっていいものである。
人と違うことは実はごく自然のことだ。
そんなごく自然のことを異常、ありえないことだと思い込むようになっただけである。
そう思い込まなくていい。
そう思い込んでいるのなら、今すぐその思い込みは捨ててしまっていい。
人と違うことを「罪」だと思い込まなくていい
コンプレックスというのは自分と他人を比較して優劣を図り、自己否定してしまうことのほかに、
「いけないことをしている」という「善悪」「恥」のコンプレックスなども存在している。
周りに合わせないといけない、空気を世もないといけない、という教育から
他人と違うことをすることは「悪」である、と思い込んでしまっていることで発生することもある。
そういうものは全て捨ててしまっていい。なぜならそれらは「すべて他人の都合が絡んでいるから」である。
「いけないこと」というのは、自分が決めたことではなく、他人が決めたこと。
空気を読むとか、周りに合わせるというのも同様である。
「他人にとって都合が悪いからやるな」なのである。
そういう要求を通すための詭弁にすぎないのだ。
外にある何にも合わせに行こうとする必要はない
「人と違うことがダメ」、なんて思わなくていいのである。
今こうして生きている自分でいいことを認めよう
自分が少数派でも、たった一人だったとしても全然構わない
今こうして生きていることに、
今こうして1日を生きていることに
罪の意識を持つ必要はないのだ。
罪の意識、「外に合わせなきゃいけないのでは」という「義務の意識」はいらないのである。
「人間の違い」というものを大げさにとらえなくていい
そもそも人と違うことを恐れることは、実は非常にナンセンスだ。
例えばその辺の転がっている石ころが全て同じ形をしているだろうか。
していないだろう。それぞれ形は違うし、色も重さだって違う。
「全く同じ形と同じ組成をもった石ころを探しなさい」と言われたらどう感じるだろうか?
そんなことは不可能だと思うのではないだろうか。
石ころですらこんな有様な現状なのに、人間というさらに複雑な存在に同一なものがいるなど、さらに考えられない話ではないか。
だいたい、見た目から全然違うではないか。
顔だけじゃない。体も、着ている服だって違うというのに。
そんな人目でわかる明確な違いが既にあるのに、なぜ同じでないといけないと思うのか。
さらに人間の場合、見た目だけでなく、中身までも同じであるものを探さなきゃいけない。
それを命じられたら、それはまさに悪夢だろう。
そもそもそういう違うとか、同じだとかいう”区分分け”自体、
人が勝手に「分別」して「わかりやすくしようと」「管理」するために行われているだけのものだ。
そう知識化することで生産的なことにつなげようとするために行われるプロセスであり、
分別化、種類分け”そのもの”に意味や意義などというものは存在しない。
人と違うことを恐れたり、優越感、劣等感を感じるのは、
人の行う「分別」に、優劣の概念や善悪の概念を持ち込んで「二元論化」している行為でしかないのである。
そもそも人と同じであること事態、天文学的に稀な現象なのだ。
自分と同じだと思う人をみつけたことはあるだろうか?
実際に本当に同じかどうかではなく、自分がそう思った瞬間のことだ。
話をしていく中で、「この人は自分と同じような考え方しているな」と感じるような人である。
おそらくほとんどないのではないか?
もしみつけたことがあるのならわかりやすいと思う。
私自身、経験する限りでも約30年生きてもそう感じたことは一人だけである。
しかし、そうやって見つけた人でさえ、さらに話をしてみるとやっぱり違うなと思うことが見つかる。
結局自分と同じだと感じられる人すら、突き詰めていくとそうじゃないことがわかる。
自分と同じ人間がいないのは当然として、自分と同じに”見える人”すら、この世のどこにもいなかったのだ。
同じ人間の存在など、物質のランダムな事象の連続体である現実に対する非常に不自然な、不合理な考え方なのだ。
ただの当たり前の話。
この世に何十億という人間がいて、SNSなどでいろんな他人を見ることができるようになったこの世の中においてすら、みつからないものだ。
「自分と同じだ」と”感じられる”人間すら、はっきりいっていないくらいなのだから
人と自分が違うことを恐れること事態、ナンセンスにもほどがあるのである。
そのナンセンスをまるで実在しているかのように思い込んでいるだけ。
だからそんなナンセンスな思い込みは捨てていい。
自分を苦しめる種になってしまっているなら、なおのことだ。
安心して人と違う生き方をしていい。
そもそもこんな「違う生き方をして」ということ事態、珍妙なものだ。
他人の人生など知ってもいないのだから。
他人の人生を知っていると思い込んでいるから、「違う生き方」という認識をする。
違う生き方が「存在している」と思い込む
自分以外の生き方を知らないのなら、最初から自分の人生しかなくなるからである。
つまり人生に違いなど、始めから存在していないのである。
同じ学校に通っているとか、卒業したら就職して働くものだとか
そんな「大雑把に同じに見えるもの」をとらえただけで、その詳細など不明だというのに、他人の人生を知ったように思うこと事態、妙な話なのである。
実際学校にいても、やっていることはすべて皆同じに見えるだろうか?
授業を受けている時、まったく同じように皆授業を受けているだろうか。
真面目にノートを書き写している人
全然授業を聞いてない人
授業とは全然違う勉強をしている人なんて人もいるかもしれない。
そして皆が「どのように」授業を聞いているのか、
自分はそれを知っているだろうか。
就職して働いて、ではそのあと皆ずっと一様に働き続けているのだろうか。
もちろんそうしている人もいるし、就職先と会わなくて退職する人だっている。
転職する人だっている。
やとわれをやめて起業したり、海外に移住したりする人もいる。
各それぞれが就職した後にどう人生をたどるかなど、何も予測などされてもなければ保証すらされていない。
このように違いどころか、先の事などの「何もわかっていない」ことに対しても同じである、同じでなければならないと思い込むこと事態、
はっきりいって「イカれている」と言わざるを得ない。
同じ人生があると考えていること事態、現実を見ていないといわざるをえないのである。
「人と違う人生」などと、意識する必要すらない。
ただ生きていけばいいだけのこと。
いや、いいとか悪いとか、そういう問題ですらない。
意識する必要すらないことだ。
それはまるで、空気が存在することに対して疑問をもってかつ悪とみなしているかのようなものだ。
だから、今自分がしたいと思うことをして、単純に生きていっていいのだ。
誰も他の誰かの人生など知らない。
誰も自分の人生の面倒など見ることはないし、自分だって他人の人生を見ることはない。
他人は自分の人生を理解できないし、自分だって他人の人生を理解できはしない。
最初から最後まで、知っているのは「自分の人生」だけだ。
だからもう「余計な外にあるように見える人生」のことなど、捨ててしまってよいのである。
そういう「外にあるかのように見える幻想」を捨ててしまおう。
自分が本当に知っている「自分の内にあるもの」だけで十分なのだから。
コメントを残す