誹謗中傷を行う人の心理




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2020年04月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
上記年月よりも古い記事は順次修正予定記事になります。

記事サムネ:himawariinさんによる写真ACからの写真

どういう人たちなんだろう?

想像することすら難しい、という人は結構いるのではないかと思う。

わざわざ自分の自由な時間を使って、人をたたくことに精を出している人々なんていうのは。

学業、仕事、友達やサークル仲間と遊ぶ、恋人を作ること‥

一人でできることだってたくさんある。釣り、登山、ゲーム、絵、本を読む、などなど…

他にもやれることはたくさんあるはずなのに、と。

この世にはたくさんの時間をつぶすことのできる何かがたくさんある。それも、いくら時間を費やしても足りないほどに。

そんな中からなぜ、わざわざ貴重な自分の時間を人を傷つけることを選んでしまうのだろうか。

その正体は、自身のコンプレックスに対する反応の一種である。

強烈な承認欲求を解消したいがあまり、欲するが故のものだ。

不安に”駆られて”

誹謗中傷は楽しんでやっているから、というよりは、落ち着かないからやっている、といった方が近い。

何故落ち着かないのかというと自己否定感を日常的に、慢性的に感じてしまっているからである。

そしてそれを他人をたたくことで解消しようとしているわけである。

まるで”駆られるかのように”、”あらがえないかのように”やっているのだ。

慢性化した無意識の不安感

そして多分当人はそれを、不安感とは思っていない。

むしろごく普通の日常の感覚だとして感じている。

無意識的に不安感を感じている状態で、それを普通だと感じているのである。

ずっとダラダラとした恐怖が自分の体全体を覆うような感覚で覆われているかのような日常が続いている。

ひどくどんよりとした曇り空のように重く、薄暗いな光景が広がっているかのような、そんな世界観、感覚が。

そんな感覚に日々つつまれているのだから、日々駆られざる得ない。

恐怖によって、不安によって、そうせざるえない。

それ以外のことが関心に入っていかない。

どうにかして自分のコンプレックスを解消しないと落ち着いていられない精神状態。

それがもし、人を叩けば少しでも和らぐように感じられたなら。

それはもう必死に他人をたたいて、なんとか自分をマシにしたくてたまらなくなってしまうだろう。

不安で自分を動かす習慣

自身の無意識的なコンプレックスからくる不安、不快感。

その感覚を、普段何気なく行動しようと思った最初の感覚「何かをしようとしたとき」の感覚に無意識的に使ってしまっている

例えば「これをやらないと叱られるから」とか、

「こうしないと変だと思われるから」とか、

はじめに自分を外のなにかを使って恐怖に晒した上で行動しようとする。

そしてその”外”とは、もっぱら他人だ。

このように、「他人に駆られるかのような感覚」で何かをすることが日常になってしまっている。

他人がこうだから、他人がこう言ったから、ああしたから。

世の中がこうだから、社会がこうだから。

そういう外のなにかをトリガーにして、自分を脅すかのようにして動かそうとすることが習慣化している

不安の根本にある恐怖

不安の本質は何かに対する恐怖。何かを恐れるからこそ、人は不安を感じるもの。

人は恐怖といった生理的感覚に対しては過剰に反応し、どんな欲求よりも優先してそれを消し去りたいと思うもの。

つまり、他人が怖いゆえなのである。

他人が怖い。自分と違う他人が怖い。

自分と違う他人は自分を攻撃するかもしれない。自分を否定するかもしれない。

そんな自らの思い込みで作り上げた”仮想敵の他人”を否定することでその敵を排除しようとする。

その手段の一つが誹謗中傷ということ。

他人を使って「自分を傷つけないように戒めようと」している。

他人をたたくというのは、その味を覚えてしまった、コンプレックスを抱えている人にとっては最も手軽で安全に即興で不安を消し去ることができる行為。

正確にはいっときは消し去ることができたように”感じる”というだけで、コンプレックスを抱えている”事実”が消えたりはしないのだが…

コンプレックスは自身と向かい合って解消しない限り永遠に解消されない。

一度誰かを叩いて屈服させたと感じ、不安が一時消えても、慢性的な不安感は消えることはない。

だから何度も叩く行為を繰り返してしまう

実際に傷つけているのは自分自身

他人を傷つけてると自分が安心するような気がしてやっていたとしても、

実際に傷つけているのはその相手ではなく、自分自身。

なぜかというと、人は他人のことを本当は全く理解できない生物だから。

他人に自分の内面を映し出して共感することしか人はできない。

それはつまり、他人を叩く行為とは、他人に自分の内面を映し出してそれを傷つけているということを意味している。

他人という自分の鏡を叩く

他人を叩くという行為は、実質自分を叩く行為である。

他人という鏡に写った自分の内面を叩いてる。

遠回しに自分を傷つけているだけ。一種のマゾのようなものである

他人で自分の可能性すら断つ

他人を叩くということは、間接的に自分の可能性を自ら摘んでしまってすらもいる。

実際に叩いているのは自分。

叩くというものは大抵、自分がしなさそうなこと、できなさそうなことをしている他人が対象だ。

そしてその他人を否定することで、自分はその他人のようにはならない、なれないと自らに戒めているのである。

それを仮に明るく生きている人、前向きに生きている人。そういう人たちに対してそれをしてしまったら。

それはもう自分はそうはならない、なれないと決めつけたことになるのである。

嫌悪感を使って、そうやって自分の可能性を排除してしまっているのである。

いわば嫉妬と同じもの。

こういった負の感情は無意識的に自分にどんどん選ぶことのできる可能性を削っていってしまう行為でもある。

他人に勝ちたいと思ってる

いや、勝たなきゃ”いけない”といった方が近いのかもしれない。

強烈なコンプレックスがそれを駆り立てているからである。

他人を叩くのも、根底にあるのは他人に勝って自分が強い、と思い込みたいから。

自分の存在価値を外に置いているから。人に認められないといけないとおもっているから。

勝てば人に、世界に認めてもらえて、保証してもらえると信じているから。

だから勝たないと、自分の生きている価値がなくなってしまう。

負ければその真逆に、全てから見捨てらてしまうと思い込んでいるから。

だから勝たなきゃいけない。勝たなきゃ、それは死んだのと同じことだとみなしてしまうからである。

そう求めるように育ってしまっただけ。

家庭環境、学校生活、職場の人間関係…。

きっと彼らもリアルで、ネットで、色々とつらいことがあったんじゃないかと思う。

そしてそんな環境の中で屈折した認知を獲得するに至ったのだと。

子供の頃から自分を押さえつけ、否定し、レッテルをはられるような過酷な環境の中で、自分を守ろうとしてきた。その積み重ねの結果、それに至った。

そのために常に外に身構えるようになって、理論武装をして、なんらかの「正しさ」にすがろうとして、いつもそれができているか不安で、

だから不安感や恐怖が慢性化した状態になってしまっているのだろう。

自ら恐怖に駆られるように自身の在り方を作り出すことに至ってしまったのだ

それでも、彼らは彼らの都合に夢中になっているだけだから。

それでも、彼らのことはどうにもならない。

それがどんな形であれ、それを他人が何を言ったところで他人自身には直接どうすることもできない。

他人はひたすら他人の都合を生きるだけ。

だから彼らが自らのコンプレックスからくる恐怖に支配され、他人にとらわれてしまっていたとしても

他人を傷つけて回っていたとしても、彼らのそれそのものをどうにかすることはできないし、どうしようもない。

こちらにできることとしては、彼らとは関わらない、気にしない、あるいは司法機関による取締くらいしかできることはない。

彼らのことに耳を貸す必要はない。

彼らはただ、自分のコンプレックスを解消するために他人を使ってひたすらもがいているだけだ。

全ては自身の恐怖を解消する「安全欲求」を求めるためであって、誹謗中傷の対象者のためでもなんでもない。

彼らはそれこそ、人によって、そのバックグラウンドによって、様々な言葉でこちらを屈服させ、わからせようとしてくる“だろう。

それが彼らにとっての相手を叩けた、勝ったと感じられる目的達成の印だ。

彼らは他人を叩くということに対して多くの時間を費やしてきた”プロ”

だから、もっともらしい表現を使って、わからせようとしてくる。屈服させようとしてくる

それがどんな内容にせよ、耳を貸す必要はない、ということ。

そんなものは、自分の人生には何も関係がないことだから。

人の言葉は、所詮はすべてただの詭弁。

人の言う正しさや間違いなんてものは全てただのハリボテだから。

善悪といわれるものだって、皆人間が決めたただのルールであって、この世の心理でもないし、すべての人間がそうあることを説明できるものでもない。

だから、彼らのことを気にする必要はない。知ろうとする必要もない。

彼らは彼らでいつもの自身の課題に夢中になるだけなのだから。

彼らにかかわっても、自分の人生の時間を苦痛の中で過ごしてしまうだけだ。

だからそれを望まないのなら自分の関係から、世界から、捨ててしまっていいのだ。

だから、見なくていい

彼らの”悲惨さ”を想像する必要はない。彼らの”酷さ”を想像する必要もない。

彼らを憐れむ必要もないし、怒る必要もなし、考える必要も何もない。

感じることも、見ることすら必要もない。

いわば石ころと同じだ。

見下せなんていう意味で言ってない。ただ関心を向けなくていい、ということ。

関心を向けてしまえば、きづかない内に影響を受けて、自分までが彼らのように正義の棍棒で相手を叩く人間になってしまうかもしれない

そうならないためにも、彼らと同じような人生を送らないためにも、気にしないこと。

自分の世界から追い出してしまうこと。見ないようにすることが、最も得策であると言えよう。

あとがき、余談:

なぜ他人を知らないただの人間である私が、”詳しく”彼らについて”説明している”のかというと、

それは筆者である私が過去に”そういう人間”だったからである。

この記事は実質、私自身の経験を書いたようなものだ。

最も、実際に誹謗中傷をしたことはない。少なくとも、そういうつもりで何かをしたことはない。

でも無意識のうちにやってしまっていたことはあると思っている。

いや、確実にあった。思えば自分の思う”正義”の棍棒を振りかざし、他人をわからせようとしていたことは、何度もある。

自分の潜在的な劣等感が、無意識のうちにそれを求めて、結果誰かとそのようなやり取りをしてしまったことがあった。

(過去に書いた記事の中にも、そんな気持ちで書いてしまっているものがあると思う。だから今修正をしているというのもあります。)

それでも、明確に相手を傷つけたいと思ったことはなかった。

ただその一方で、そういう「他人のやり取り」をネットで見かけたりしたとき、「愉快」だと思ってしまっていたのは明確に覚えている。

それを見たとき、安心できていたような感覚があった。自分がマシになったかのような感覚を、確かに感じていたんだ。

SNSやまとめサイトで、他人が馬鹿にされたり、否定されたりしているのを見るのが止められない時期があった。

それを見ないと不安でしょうがなかった。

“自分がマシだ、上、だと思える証拠、担保をいつも”外”に探している。”

“外から自分の生きる意味を与えてもらおうとしている。”

そんな心理からだった。

だからもし自分が誹謗中傷を行うことをしていたら、きっとそんなふうに行っていただろう思うのだ。

そしてきっと彼らも、似たような心理で行っているのではないかと。

多分彼らはその見た目”から遠くかけ離れてずっと繊細なんじゃないかと思うのだ。

いつも何かに怯えながら生きてしまっているのが、本当のところなんじゃないかと。

でもそれでもこれすら、あくまでこれを書いた私がそう思っているだけのこと。

結局の所、他人についての心理なんて言うのは、ただの妄想だから。

だからなおさら、他人のことなんて考えても意味がないんだ。

それで悩むのならなおさらだ。

他人のことを考えて自分をすり減らす必要なんかないんだよ。

────────

私の場合はそんな自分を変えたくて、歪んだ承認欲求は捨てて、今は自分のすることだけで生きられるようになったけどそのためにとても苦労した。

だから多分、彼らが変わることがないだろうと思う

別に彼らに限った話ではなくて、人は変わるってことを選ぶこと事態、かなり難しいことなんだと。

変わりたいと思える理由を持つこと事態難しい。

本当に変わりたいと思う動機をもつ事自体が、変わることと同じ位難しいんだと。

自分の人生に特に問題を感じていないのに、わざわざ自分の見たくない部分を見て、苦しみならそれを捨てて、新しい生き方を学ぼうだなんておもわないはずだ。

他人が悪いと考えているときに、自分が悪いなんて考えようだなんて思わないと思うわけだ。

そんな”しんど”くて、やる意味すら感じることすら難しいことなんて、よほどのことがないとやろうとするはずがない。

だから大抵は「周りが悪い」ということにしておきたい

自分は悪くない、と。

そんなことをするよりも自分の無意識にまかせて正義の棍棒で他人を叩いていたほうが楽だと感じることが大半だろうということは、自身の経験を通して用意に想像がつくから。

だから、99%他人が変わることはありえないのだと思うのだ。

他人になにかを求めること自体、根本的に意味がないんだ。

───────

むしろ変わろうと思えているのなら、それは”ラッキー”だ。

これを読んでいる人がそう思っている人だったら、きっとその人はラッキーだ。

今は苦しいかもしれないけど、きっといつかはその山を抜けられて、自由になれる。

そういう”きっぷ”を手にしているわけ。それを手に”できない”人だっているわけだから。

変わるくらいなら人を攻撃する。

変わるくらいなら死ぬ、なんて人すらいるくらいだから。

その人達はかわいそうかもしれないけど、それは自分じゃないからやっぱり関係ない。

自分の内側だけでいいってことを知れるってことは、自分の救いそのものなんだよ。

人生を明るく生きることに必要なのは自分の勇気と希望と情熱。他人は関係ない。

ふと思ったけど、愛と勇気だけが友達のアンパンマンはなかなかに核心をついた人生観をもっているかもしれないね

http://dessindezyoutatsu.xyz/post-8658



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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