承認欲求:解体編




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2020年04月25日~:
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承認欲求のトリガー

承認欲求とは、「自分は他人の気に入られるなにかでなければならない」という思い込みがトリガー。

常に他人を依代にした上で、自身の目的を作り出す思考形態だ。

常に他人の目が意識にある

もし他人が自分を見たらどう感じるか、どう思うか。ということを考えずにはいられない。

一人で部屋にいるときですらそう感じていることもある。

まるで他人に四六時中監視でもされているかのように。

だからいつもどこか落ち着かず、気を静めるために他人を求める。

それでSNS中毒になったりもする。

他人の影を作り出す

場合によっては、他人の目を気にする意識から「他人の影」を無意識に作り出すことも。

頭の中に想像上の他人を作り出し、その他人に命令してもらったり、褒めてもらったり、ときにはけなされたりもする。

こうする理由は自分一人で何かをすると不安に襲われるからである。

誰かに決めてもらったり、見てもらったり、正しいか間違っているか確認をしないとそれをしているのが恐ろしくてたまらない。

だから他人の代替的存在として影を作り出し、他人に言われたつもりで何かをするのである

他人への義務の意識によって発生

他人の目や他人の影はを作り出すのは、他人に対してもっている義務の意識からくる。

他人の義務を果たせるなにかでないと、だめな気がするのだ。

だから他人の影を作り出して手でも、自分のしていることを他人のためにつなげようとしてしまう。

あるいは「他人がもしこれをみていたら」など、他人の評価を前提として考えてしまう。

義務に対する報酬の意識

他人の義務を果たすことで、何らかの報酬を得る

義務の意識とはそれに対する期待、報酬のトレードオフの構造になっている。

つまり承認欲求とは他人の義務を果たし、報酬を得るための思考である。

欲しいものは”他人のお墨付きの安全”

ではその報酬とは何か。そのカタチは個々によるだろうが、その本質は全て他人からもらえるなにかである。

例えば、幼少期であれば食料や住まいといった生理的欲求に対する報酬が主。

成長し、思春期を迎えたあたりからこの報酬がその所属するコミュニティの他者からの称賛に変化する。

更に成長し社会に出ると今度はより他者から注目を集める社会的ステータスを求めるようになる。

いづれにしても他人からもらおうとすることが共通していて、その本質は自分が囲まれている環境上における安全である。

幼少期のそれは言わずもがな、食料や住まいなどの環境においての生理的安全である。

思春期のそれは親やクラスメイトたちからの承認という環境からの心理的安全

社会に出た後はその延長線上に、会社、社会、国といったものから称賛されるなにか、将来の保証という心理的安全

ようは誰かにに自分の安全を保証してほしい欲求である。

他人が自分を価値あるなにかだと決めることができ、自分の価値を保証してくれる、という思い込みである。

なぜ他人に褒めらなきゃいけない?

そもそもの話、妙な話だとは思わないだろうか?

なぜ他人に気に入られなきゃいけないんだ?と。なぜそれで不安が解消するのかと。

他人は自分の主人か?王様か?

親はすごいのか?親は支配者か?

他人は偉いのか?他人は神か?

自分はそんな彼ら全員の奴隷みたいな身分の出身か?

彼らは自分を守ってくれる存在なのか?

この国の憲法にはそんな階級制度すらないのに。

生まれた頃から自分は他人にへりくだることを義務化された人間だったのか?

そんなことはないはずなのに、変な話だ。

義務の本質は他人に対する恐怖

他人への義務の意識の本質は、他人に対する恐怖である。

なぜなら恐怖とは、ある何かが安全ではないという認知からくるから。

そしてその「ある何か」とは、承認を常に他人から求めるものであるということから、他人であるということになるのである。

他人という存在が怖い」という思い込みが前提にある、ということになる。

それを前提とし、他人に尽くしたり他人の言うことを聞いたり、他人に褒められることや嫌われないことをするわけである。

他人への恐怖を打ち消す=承認欲求を満たす。

つまり承認欲求とは、他人に対して感じている恐怖の認知に対して、打ち消そうとする試みであるということ。

他人のいうことを聞くのも、褒められたいのも、

漠然とした他人に対する恐怖感が存在し、それを解消するための行為であるということだ。

高い中毒性を持つ承認欲求

故に承認欲求は中毒性があるのである。”承認欲求おばけ”なんて言葉がうまれるくらいだ。

承認欲求の原動力は他人に対する恐怖。恐怖ほど人を強烈に掻き立て悩ませるものはない。

他人に対する”絶対視”

他人を怖いと思うことは、相手をなんらかの特徴をもって恐怖の対象としているわけである。

例えば他人は自分よりも強いとか、優れているとか、脅威であるという思い込みがあることが前提だ。

つまり他人のことを自身よりも「上の存在」であると感じていることでもある。

故に、他人の言うことは絶対である、という思い込みができあがり、そこから派生して他人の言うことはすべて「正しい」と感じるようになり、自分のしていることはすべて「間違い」であると感じるようになる。

自分は他人に逆らってはならない。

おとなしく言うことを聞いていなければならない。

そうしなければ恐ろしい事が起こる

他人に逆らったり間違えることそのものがすでに怖いことなのである。

だからそれを取り除くために、踏み込まないために、

常に他人の承認を求めざるえないのである。

二元論的思考回路に

正しい、間違いという概念の上に生きるようになることによって、思考が2元論化していく。

落として、元に戻す思考

自分は常に間違っているという思い込みが前提にあるので、

何をするにも一旦自分を他人を使って「否定」する。

次に、その否定した何かに対して他人からの承認を求めるために行動し、それを得て自分を「肯定」する。

承認欲求というのはまずはじめに他人を使って自分を不安に晒すのである。そしてその不安を他人の承認で解消しているのだ。

つまり、自分を一旦マイナスに下げたあとで、それを0に戻すということをやっているのである。

自分のやりたいことを持てない心理

この欲求に生きている限りは、決して自分のやりたいことができない。

より正確にはやろうとしても続かない。

なぜなら、たとえ自分のしたいことをみつけたとしても、全てが他人の都合を満たすためのものに変わってしまう

すべて他人というフィルターを通して行動してしまうのである。

すべての行動、思考が他人の都合へと変化、義務化し

常に誰かに褒められないと、嫌われてしまうことをしているのではないかと感じる。

それによって自分が間違っているのではないか。つまり、恐ろしいことをしているのではないか、と感じてしまうからである。

だから純粋に自分のしたいこと“持ち続ける”ことができず、無意識のうちに他人からの否定感に襲われ、続けることができなくなるのである。

自分自身が積み上がらない

この思考は決してプラスには転じたりしない

自分は間違っていて外が正しいという無意識的思い込みがあるため、常にマイナスから始っているためである。

自分のやりたいことをもつことができないから、一向に自分の人生という経験値をえることができない。

自分自身で何かを決定して自分だけで何かを感じたという経験が積み上がらず、常に他人というフィルターを通した濁った自分しか積み上がらない。

承認欲求の”サイクル”

自身を他人の恐怖で突き動かし、他人からそれを癒やす飴をもらう

それが承認欲求という一連の思考形態のサイクルである。

飴と鞭とはよくいったもの。ムチを振るうものも、飴を与えるのも同じ人物、他人なのだ。

承認欲求とは、これをくるくると回しながら日々を生き続ける、そんな常に他人ありきの生き方である。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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