受け身の人生 ✕ 能動的な人生




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2020年04月25日~:
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受け身の世界観と現実のギャップ

受け身で考えるなにかは、大抵現実と乖離している事が多い。

受け身であるというのは、外から、他人から自分に何かがやってくるのを待つ思考だ。

ただ、無条件ではもらえない。だからその他人のためになにかをする。

そしてその見返りをまつわけである。

でもそれは悪魔で自分の勝手な想像、決めつけにすぎない。

それは他人の頭の中を、人は少しも理解していないからだ。

自分が想定したとおりに他人がそう考えたり、行動してくれることを保証することはない。

こちらに見返りを相手が返してくれるかどうかなんてわからないのだ。

現実はこちらに「与えない」。ただ「ある」だけ。

現実は自分が想定したそんな“受け皿”に対して、

いつもそこにきれいに置かれてくれるかのように動いてなどいない。

現実の他人はそれぞれの個々の都合で動いているというだけ。

現実という事象は、こちらの想定など無視して、ただただ流れ続けているだけだ。

それが時々、自分の用意したその”受け皿”の上にうまいこと乗っかったように見えるだけである。

「相手に尽くしたから愛してくれた」

「相手に気を使ったから、嫌わないでいてくれた。」

というのは悲しいかな、たまたまそうなったというだけ。そう見えただけ。

相手がそういう都合で動く人だった(用に見えた)だけだ。

そうじゃなかったこともあるはずである。

自分がいくら気を使っても、全く振り向いてもらえなかったり、気づいてもらえなかったり。

そういう“相手の都合という現実”を体験した瞬間はあったはずだ。

現実は自分に与えるためにあるものではない。

現実とは、単なる存在、”フィールド”でしかない。

動物 = 人間に食べ”られるため”の存在か?

豚肉や鶏肉といった、スーパーに陳列されているそれらは、間違いなく少し前の時間までは生きていた動物の成れの果てだ。

ではそんな彼らは最初から「人間の都合に合わせて人間の口に入るために生まれてきた」のだろうか?

断じてそんなことはないだろう。世界がそうなっているわけではないし、

ましてや当人たちだって、少なくとも人間の食料になるため殺されるために生きようなどと考えもしなかったことは、容易に想像がつく。

彼らそれぞれに意思があってそれぞれの都合で生きていただけ

それを人間が家畜化し、安定して食糧を供給できるという仕組みを作ったから、そのようになっているというだけ。

当たり前の話だが、動物たちは皆、自分たち人間と同じで自分の生きる目的のために生きているだけで、断じて食料になるために生きているわけではないのだ。

倫理の話ではなく、目的の話

豚や牛、鶏、魚、

どの生物も同じ。動物も虫も、微生物までも。

KI-TSUさんによる写真ACからの写真

それぞれの都合で、それぞれがしたいように、生きているだけだ。

だからそんな「身勝手が自然の外の存在たちに対してただ自分の都合を満たしてくれるだろうと期待して生きる、

「与えられるために生きる」というのは、自然的にみても目的が叶うことの少ない非常に相性の悪い世界の見方、生き方ということになる。

仮に、自分に都合よく与えられるために世界が回っていることが真だったと仮定すると、

例えば豚が自らの意思でこちらの口に入るために肥え太ろうとし、こちらにとって”いい感じ”になってきたところで自らその首を断頭し、「食べてください」とこちらに懇願する世界でなくてはならない

しかも、その豚には「自らの死」に対して「何も与えられていない」のにである。

これでは、そんな自分の都合に対してあまりにも彼らの都合に無頓着すぎる考え方だ。

では自分を犠牲にすれば採算がとれる、平等の犠牲をこちらも取れば良い、ということであれば

それは自分のクビを落とすようなことをすることになる。

さて、そんなふうに現実は成り立っているだろうか?

動物たちは相手を殺す代わりにも自分も殺して生きているのだろうか。

それとも人間だけは特別なのか?

そんな不合理な支離滅裂な世界を本気で望んでいるようなものである。

現実はただそれぞれの都合があるだけ

自然だけじゃない。人間社会にある、自分のために用意されているかのように見える様々なものたち。

様々なサービス。この社会構造を作っている様々なものたち。

学校や会社、様々なお店、仕事‥

価値観、規範、常識、普通といった概念すらも。

その正体は、皆それぞれの人間がそれぞれの目的を達成するために作った道具の集合体、「彼らの都合の集合体」でしかない。

当たり前にあるものではなく、個々の理由があってみなそこにつくられ、存在し、運営されているもの。

決して自分に与えられるためにできている「奉仕者」なんかではない

それをときに自分が、自分の都合にたまたま合わせて使えたり、使えなかったりするだけのことであり、

いつも自分に都合よく用意されてなどいるようなものではない。

この世に当たり前に都合よく自分に用意されているもの、「与えられるもの」なんてのは、存在していない。

ただそう錯覚しているだけだ。

現実は皆自分に与えるために生きているだけ。

動物は自身の腹を満たすために狩りをし、自身の安全を確保するためになわばりを作り、子孫を作るために交尾をする。

そんな自然の営みですら、みな、自らを心地よく生きたい、楽しく生きたい、安全に生きたい、という自分の「したい欲求」に従った、素直な生き方の結果達だ。

人間もたいして変わらない。むしろその延長線上か、同等のラインにいる。

自分の腹を満たすために仕事をして、自分の信じる幸せのために行動しているだけ。

つまり皆、「自分で自分に与えるために生きている」のである。

能動的な生き方は、現実に対するストレートな生き方

現実の世界に対してただまっすぐ見据える姿勢が、能動的に生きるということ。

自分のすることだけをみて、その目的のためにストレートに行動し、精力的に生き続ける生き方。

誰かを期待したり、待たない生き方。自分のすることをするだけの人生である。

非常にシンプルかつ、効率的で生産的な生き方だ。

能動的な生き方は「与える生き方」

受け身の生き方は、相手から与えられることを待つ生き方でもある。

たいして能動的な生き方は「与えられる」という概念が存在せず、ただ目の前のすることだけを考えている。

自分が自分に与えている

「自分に自分が与える」という概念を基底に、日々行動しているのである。

「されたい」という欲求ではなく、「したい」という欲求で生きる。

そういう生き方をしているのだ。

自分に与えられて、初めて他人に与えられる

そしてこの自分に与える生き方の延長線上に、他人に与える生き方が存在している。

自分に与えることがどういうことなのかを知っていると、今度はそれを使って他人を助けたくなるのである。

人は、自分を自分で幸せにできて初めて、他人を自分がするなにかで役に立ったり助けたりすることができる。

それは、他人という存在が自分の鏡にすぎず、他人という存在を人は知ってなどいないから、

唯一知っている「人間」としての自分を救ったということ、助けたということが唯一の他の「人間」を助ける可能性をもつエビデンスだからである。

だから他人に与えるには、まず自分に与える生き方というのが何なのかを知る必要があるということ

能動的な人生を生きたとき初めて、自分の人生で他人に、社会に貢献して生きていく下準備が整うということだ。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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