承認欲求:成り立ち編




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2020年04月25日~:
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本能ではない

承認欲求とは、生まれ持って持っているものではない。

実際には学習によって身につけた思考形態である。

「誰かに認められたら嬉しい、けなされたら苦しい。」

そういった自身の認知が絡んでいるもの。そして認知とは学習によって得られるものだ。

もし生まれ持ったものであれば、生まれた瞬間からこれを獲得していなければならない。

しかし赤ん坊はただ泣くことしかできない。

赤ん坊は名誉も恥も知らない。誰も何も教えなければ平気な顔して全裸の姿で公衆の面前に晒すことができるのが何よりの証拠。

誰かの承認などという概念など、人は最初から知りもしないのだから。全ては後天的にみにつけた教育の結果である。

子供の頃に”習得”した

承認欲求は幼い頃に長い時間をかけて獲得したものである。

それはその頃の殆どの時間を費やした親から受けた教育と、小、中学校の義務教育生活にある。

義務教育の世界では成績ですべてが決まるというような世界観になっている。

いい成績の人は優秀、素晴らしい。悪い成績の人は勉強ができない、頭が悪い、などというように。

学校が提唱する優秀な生徒という偶像を基準に、ふるいにかけられるような人生を歩むことになる。

自分がいいと思ったことではなく、学校という組織が与えた人間のモデル像を、「いい人間」として見据え、そうでない自分を否定することになる。

そういう中で承認欲求はつくられていく。

「他人が称賛するものがいいもの。」「他人がダメだというものは悪いもの」

そういう思考のベースが形つくられていく

長い時間をかけて”調教”されたもの

学校から受ける”教育”

義務教育は小学校から中学校まで、実に9年という長い期間をもつ。

そんな中で自分の意志に関わらず、何かをする生活をすることになる。

自分のやりたいか、やりたくないという意思に関わらず、ほぼ強制的に上から与えられた課題を、上が決めたやり方で決められた時間で、決められたり通りにやらされ続ける日々を送る。

そんなやり方人生の過ごし方を、多感で無知な時期の少年少女たちを対象にして、じっくりと、それもそれが日常と言ってもいいレベルの時間を使って行うものだから、その効果たるや歴然だ。

彼らは他に何も知らないのだから。他に比較できる情報などもっていない。

だから、大人に比べれば、簡単に思い込ませることができる

学びに対する歪みができあがる

他にどんな形の生き方があるのか、学び方があるのか、そういう機会を知ることなく、型にはめられた形の「与えられ、強制される教育」をほどこされる。

子は親を選べないということと同じ。多くの子供達はそれを学ぶことのすべてだと思いこむ。そして大抵の人が、学ぶことに対してネガティブな感情をいだき、大人へとなっていく。

親から受ける”教育”

親と過ごす時間は長い。学校よりもずっと長い時間、一緒にすごすからだ。

そんな親がもし強権的で親の権力を存分に振るうタイプだったとしたら?

子供を下にみて、自分は常に正しく子供を従わせる権利を持っているような風に捉えている親だったら?

褒められるようなことをすると褒める。

でもそうでないことをすると叱る。

場合によっては家を追い出すとか、飯を抜きにするとか行って脅してくる。

そうやって親のさじ加減でこちらの意向の一切を遮断して、誘導する。

親の都合を満たすために子供を脅迫して調教する。

そうすることで、子供の意志を親の言うことを聞く以外に選択できなくする刷り込む。

そんな環境で生きていると、その子供は自然と「誰かに褒められることを求めないとダメなんだ」と思い込むようになっていくわけだ。

褒めるが”毒”に

ある人は、両親や周りが常に褒めてくれるから、

いつも褒められることをしないといけないと考えてしまう」といっていた。

これは、褒められることで成功を感じてきた人も同様の問題を抱えるケースが有るということだ。

学生の頃は”神童”扱いだったが、社会に出てからはうまくいかず、一気に落ちぶれてしまった、という話も聞く。

やり方はどうあれ、常に他人の目を考慮して生きなきゃいけないと思い込むことになってしまえば、それはどうあろうと苦痛に変わってしまうのだろう。

褒めようがけなそうが、その本質は他人の都合を相手に介在させて懐柔させようとしているという点は同じなのだ。

対象の意思を勝手に決めつけたり、勝手に推し量って良い、悪いときめるつける。

気を使って何でもやってあげようとしたり、縛ったりする教育は、自ら何かをする意思の発育を剥奪し一人で何かをすることに対する恐怖を生む。

その恐怖から逃れるために他者に懐柔されることを望む思考を育てることになってしまう可能性を含む

要は、“構いすぎ”は毒ということだ。

他人を恐怖の対象としてみるように

やがてそんな意識にずっと自らを晒し続けていると、他人に対する恐怖が無意識に刻まれていく。

義務教育と親からの賞罰教育によって他人にしたがうことが当たり前になってしまうと、他人に常に従わないといけない義務の意識がつきまとい、抑圧の対象である他人を畏怖するようになっていくのだ。

親、教師、学校、社会。

そんな他人たちを恐怖の対象としてみるようになる。

それが他人に対する認知のベースとなっていく。

だからそんな他人たちにやれと言われたことをやる。怖いから。

だからそんな他人の言うことに跪く。他人の目に平伏す。怖いから。

嫌われないように。好かれるように。褒められるために。怖いから。

ちゃんということを聞けば、危害は加えられない。」

そうすれば自分は彼らのもとで危害を加えられることなく、安全に生きていける

このように飴と鞭の思考は刻まれていく。

他人を信じて自分を信じない心理が育つ

ずっと他人を信じろと調教されるから、自分自身を信じることができない。

そのやり方を知らないから。知る機会を得られなかったから

自分は他人にすがらないと生きていけない、無力な存在だと思いこむに至っているから。

他人の都合を、脅しを信じて、自分のことを信じないように教育されるから。

自分のことなんかよりも自分を脅かし支配する怖い他人」を信じるように教育されるからである。

自ら承認欲求を使って動く人間へ

成長し、やがて自我が育ってきて自分で行動するようになってくると、

嫌われるかもしれないという恐怖を無意識に作り出して行動するようになる

ここで長い時間をかけて施してきた調教の思い込みが花開く、というわけだ。

自律的にそれを求め始めるのである。

よって、誰も頼んでいないのに、自ら褒められようとするようになったり、嫌われることを異様に気にしたりするようになるのは、このためだ。

まとめ

承認欲求はこのように長い時間をかけて作られていった、思考形態だ。

本能でもなんでもない。ただの自分の思考の使い方の一種生き方である

承認欲求のトリガーは他人に対する恐怖という刷り込み。

そしてその恐怖を打ち消すために他人の「赦し」を求める生き方。

これをくるくると回しながら日々を生き続ける、そんな生き方である。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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