ひょっとしたらあんた…
過去に誰かを嘲笑ってたりしたことがあったんじゃないか?
誰かを卑下したことがあるんじゃないか。
誰かを馬鹿にしたことがあるんじゃないか。
意識的に、時には無意識的に。
「なんだあいつは。信じられん」
「あんなことをするなんて、とびきりのバカかアホに違いない。」
「下手くそだな」
「何をクソ真面目に必死こいてんだか。ばかじゃねーの」
なんてさ。
リアルでもネットでも。妙だと思った人、変わっていると思った人を見た時、
そう感じたこと、そう見ようとしたことが、あるんじゃないかな。
それで生きづらくなるんだ。
他人を見下すと、人は生きづらくなる。
そうやって見下してんのは相手じゃなくて自分だから。
自分の悪意だから。自分の不摂生だから。自分の劣等感だから。
そんな自分の思い込みだから。
自分の心を写した他人という鏡にやってることだから。
もし自分がその他人だったら恥ずかしくてたまらない。
そんな承認欲求に駆られる自分に重ねているだけ。
そのかられた自分をイメージしてバカにしてんだよ。
だから人は、人を見下したり否定したりした数だけ、弱く、もろくなるんだよ。
そうやって自分をバカにしているんだからね。
可能性もどんどんつぶしちまうし、選べたはずの逃げ道もどんどん塞いで、気づけば窒息するかのように細い道しか残っちゃいない。
見下してきたものからの復讐
それでもそのまま続けてたらいつの日か、見下してきた、卑下してきたいろんな”モノ”たちから“復讐”されちゃうよ。
他人に写した自分の心から。
目の前にあるいろんな結果たちから。
そんな色んなものが復讐者へと変化して、ある日襲いかかってくる。自分の劣等感をいやでもつついてこれでもかと攻撃してくるようになる。
そしたらきっとその世界はまさに「敵」だ。
自分を不安にさせ、常に脅迫し、退路をすべて遮断して心の自由を奪ってくる最悪の敵になるんだ。
だから多分、もし今苦しいのなら、それはそんな積み重ねをし続けてきたツケが回ってきてしまったのかもしれない。
だからもし楽になりたかったら、そうやって見下してきた他人やいろんなものたちの存在を認めて、そうなってもいい、そうあってもいい
別になんでもいいんだって、認めることなんだ
他人がどうあろうが、自分がどうあろうが、そんな全てはなんでもかまいやしない。
全部自分が選べるんだって。だからその選べるって言う可能性を見下して、窒息させるようなことはやめたらいいのさ。
ただそこから選ぶだけさ。自分の人生を歩みたいならそれを選ぶ。
選ぶために見下す必要なんてない。そうだろ?
自分のために
他人を見下さない、否定しないってのはね、他人のためじゃないんだよ。
自分のためなんだ
こうじゃなきゃいけない、あんなふうになっちゃいけないって自分を脅さないために。
自分の自由を手放さないために。
道をいくつも用意して、いつでも選べるように。
自分の自由のために。自分の幸せのために、他人を見下さない。
そして何より自分のことも見下さない。
自分が今していること。今自分が置かれている状況
そんな全てを、見下さないってことなんだよ。
もっと楽になったらいいんだ。もっと楽しいこと、目の前のことを楽しむってことに時間と気力を使ったほうがいいんだよ。
見下すなんて暇の潰し方にこだわる必要なんてないのさ。
他にもいくらでも暇の潰し方は転がってるんだから。
だったら楽で、気持ちがよくて、安心できて、楽しい暇つぶしのほうが、ずっといいじゃないか。
だったらもうやめればいいんだよ。そんな暇つぶしの仕方はね。
目の前の現実はただあるだけだ。
ただ流れ続ける現実があるだけ
現実はまるで流れる川のように、ただ意味もなく流れ続けているだけのもの。
それを無理やりどうこうしようとしたり、無理やり合わせようとしたりする必要はない。
自分も現実の一部なんだから。
自分だって流れ続けている現実の存在の一人だ。
他人を止めたりする必要も、自分を止めたり、急かしたりする必要もない
自分とは違う流れのようなものをみて、焦ったりする必要もないし、義務を感じる必要もない
他人に別の流れになれと言われて、なる必要だってない。
全部意味なく流れているだけなんだから。
ただ皆存在してその時の”波の調子”で流れ続けているだけだ。それ以上でも以下でもない。
そういう現実に乗って生きていくだけだ。そうすれば、”自分の流れ”がわかってくる。
他人の目の中にいる自分なんていない
そこに自分が生きてると思ってるから苦しいだけ。
そもそもいないんだよ。そこに自分は。強いて言うなら、死んでるんだ
他人の都合に生きている自分なんてのは存在すらしていない、生者なんかじゃない。
それを受け入れてみればいい。
他人の中にいる自分は死んでるんだ、と。
そこで生きようとした過去の自分は、もう死んだんだ、と。
自分が生きているのは、ここ。自分が見ている、感じている自分だ。
何か強いるのは疲れるだけ
やめちゃえばいい。何かを強いるのを。
他人に気に入られなきゃ、正しいことをしなきゃ、おかしなことをしちゃダメだ、人間としてこうあるべきだ、社会人としてこうあるべきだ、なんてね。
その「じゃなきゃいけない」っていう考え方。「こうあるべきだ」って考え方。
その考え方があるから、他人にも自分にも義務を求める
承認欲求なんていう他者の課題に押し入る問題ってのは結局のところ、他人や自分に義務を強いる脅迫的な姿勢が問題になっているだけなんだわ
だから承認欲求にとらわれてしまう。やめたくても、怖いからそれを求めてしまうわけ。
逆にやめてしまえば、自然と承認欲求を求めなくなるというわけだ
義務はただの要求にすぎないものをややこしくしているだけ
義務を強いるという行為がやっている事の本質って、ただの要求だから。相手に何かをしてほしいとお願いしたり提案しようとしたりしているだけだからね。
もし義務なしでただ相手にお願いごとをするだけだったら、そんな差し迫る必要はないわけよ。
こうしてみたらどう?→そうしてみる or やめておく or 考えておく。
たったこれだけですむ。憎しみも脅しも何もなく、モノの数秒で終わって、なんの後腐れもなく完了する。
これしかやってないわけ。義務を強いるってのは。このただの要求に強制力をもたせようとしているだけ。
その義務を強いなきゃいけないこともないし、強いられなきゃいけないということもない
だから相手が義務を強いてきても、その義務を自分が感じようとする必要はないわけだ。ただ相手の要求を自分が聞くかどうか選ぶだけなんだから。
選べるんだから。
義務で他人に迫ると自分が苦しい思いをするだけ
義務で迫っているときは相手に受け入れられないと「なんでいう事聞かないんだ!」「こんな事やって当たり前なのに!普通なのに!」とか、イライラしたりする。
逆の立場になって自分が義務を強いられる側になった時は逆にとても苦しく感じるよね。
「これくらいできて当然だ」とか、「なんで自分はこんなにダメなんだろう」とかね。
それも普段から自分が義務で考えているからなわけだよ。
自分がそう考えているから、相手もそう考えていると感じるわけ。
だから相手からの要求が、まるで自分に差し迫って逃れられない何かのように感じてしまうわけだ。
だからそれに対して強烈な拒否反応をおこして、苦しくなったりしてしまうわけ。
全部ただのお願い事なんだよ
強いられるかのように感じる必要はないし、何かを強いることもいらない。
すべてタダのお願いごと。要求。
別に敵意を抱いたり恐怖を感じたりする必要もない。相手に恐怖を抱くことも、脅迫的になる必要もないし、何も強いるように感じる必要はないわけだ。
全てはこれなんだよ
相手を恐れ脅迫的になるから、自分を恐れ脅迫的になるから苦しい
生きづらい。他人が怖いわけだ。
義務に執着するから。他人の生き方に執着するから。相手にとっての自分に執着するから。
執着したく”なる”から。恐怖によって。恐怖によって稼働するその義務の思考によって。
だからすてちゃえばいい。その脅迫的な考え方。べき思考。
疲れるだけだもの。
自分を苦しませるものは全部すててしまえば、簡単に楽になれるんだよ。
コメントを残す