人間ってのは皆自分のために生きてる。
それはより具体化するとね、自分の見たいなにかのために生きているんだよ。
「見えること」ってのは人間にとって重要なもの
人間は得られる情報の大半を己の視覚に頼っている生き物。
だから目で見えるものを他の感覚の何よりも欲しがっている。
現代じゃ娯楽では動画コンテンツが幅を利かせているし、日常生活は見えることで成り立っているものばかりだし、
仕事だってなんだって、目が見えないだけで選択肢は圧倒的に限られていく。
それが良い証拠。
何、音でも楽しむことはできるだろ、って?
まぁ確かに。音楽とかね。
でもさ、目と耳どっちが大事?って聞かれたら、どっちを選ぶ?
目だよね。目が見えなくなったら、生活に大きな支障がでる。耳でもその影響は絶大だろうが、それでもなんとか生きていける、
そりゃ実際になってみないとわからないけど、少なくともそう感じるんじゃないかな。
それくらい人間にとって「見える」ってのは大事なもの。そう思えるくらいにはね。
欲しいものってのは
人の欲求ってのはその実、自身の感覚器官に依存してる。
目に見えるもの、耳で聞こえるもの、肌で感じられるもの、舌で味わえるもの、鼻で匂いをかげるもの。
周りにある色んなものを”見てみれば”わかる。欲しいものたちをね。
皆自分の5感に働きかけるモノたちだ。
さっきの音楽もそうだし、料理だって”美味しい”ほうが好まれる
裸足で道を歩くよりは靴を履いて歩きたい。アスファルトの上じゃやけどして”痛くて”歩けなくなるしな。
でもたまには豊かな草原で裸足で歩くのもいいな、なんて。
でもそれもそういう“感触が気持ちがいい”から、だよね。
皆“自分の”5感で感じるもの。
そして間違っても、他人の5感なんかじゃないんだ。
見えるものが一番欲しい
人は己の5感で感じられる何かを欲しがって生きている。
でもそんなかでも人が一番欲しいと思うなにかってのは、大抵目に見えるモノ
さっきも言ったとおり、人にって最も重要に感じられるのは視覚、目だからね。
承認欲求なんていう、目に見えない”幻”でさえもね。
あれは、それがさもみえているかのように思い込んで、錯覚という報酬を得ていると思い込むもんだからね。
他人の承認っていうもんを目で見えた現実の世界の情報に、自分の脳内で仮想的に付加して再現しているのさ。
一種のAR技術ってやつだな。
でもそんなものでも、やっぱり目で見えているもんがベースなわけだ。目に見える他人が自分にどんな行動をとったか。どんな表情をしていたか。そういうことが元になっているから。
おっとどんなことを「言ったか」も入れとくべきかな。これは聴覚だけど。
でもそれも、やっぱり見えたもの、他人っていう”見えるもの”がベースにあって、でしょ?
同じ言葉を話しても、話している人間が違うだけで信用度が変わったりする。
見てくれで相手を信用したりしなかったりするわけだ。
小綺麗な格好としている人と、小汚い格好している人が全く同じスピーチをしていたら、どっちのほうがサマになるか。
そういうことさ。
自分の見たい何かを見たくて
で、本題に戻るんだけど人ってのは大抵、そんな「見たいもの」のために生きてる。
自分が見たい何かのため。
それを実現するために日夜行動してんのが人間というわけさ。
何が言いたいかというと
「自分の見たいもののために生きてる」ってのを全員がやってるってこと。
「誰かの見たいもののために生きてる」なんて、そんなやつは最初からいないってこと。
だから、他人が自分のために生きてくれるなんて言う承認欲求はただの幻というわけなんだよ。
そんな事願ったところで、叶いもしない。
仮にそう願って得られるもんは、「誰かが見たものを自分が見たい」ってだけ。
「自分に尽くしてくれる他人がいてほしい」と思うなんてのは、ただ願うことができるというだけで得られすらしない
人は、誰かの見たいものとか誰かの欲しいモノのためになんか生きていないし、そもそも生きられもしない。
誰かの承認欲求のためでも、誰かの実現したい夢のためなんかにも何一つとして他人の都合のために生きてなどいないし、できない。
誰もそんなもんは望んでないし、望めないんだよ。
ましてや他人の心理的安全のためになんか不可能だろうね。
そんな感じることも知ることもできない何かのためになんて、人にはできないんだよ。
どうにかできるのは自分のものだけ。自分の心理的安全なんてものは、自分でなんとかするもので、自分しかできないことだ。
むしろそれを脅かしてんのは自分なんだよ。だってそれを脅かす恐怖は自分が作り出す感情の一つだから。
人の願いはひたすら自分の見たい何かをみること
自分のしたい何か。感じたい何か。
だから、誰も自分の為に生きてないなんてことは、極自然な人間の体の仕組みからして明らかなことなのさ。
ただ自分の願いに素直になればいいじゃないか。
他人の見たい何かのためにビクビクするなんて「お笑い事」だったんだ。
そんなのは他人が見たいもののために生きようとしてんのと同じ。
他人が自分のことをバカにしてくるのは、他人がそういう自分を見たいってだけ。
他人が自分のことを否定してくるのは、他人がそういう自分を見たくないってだけ。
全部他人の都合。他人の「見たいもの」ってだけ
自分の見たいものじゃない。そうでしょ。
自分が見たかったものは自分がしていた、見ようとしていた何かだったはず。
もしそれが気になるってのなら、そリャ多分「見なきゃいけない」って思い込んでるんじゃないかな。
見なくていいんだよ。他人の都合なんてのはね。
そう思っちゃうのは、そうしつけられたのかもしれないね。他人には気を使え、他人の言うことに従え、みたいなね。
いやあるいは、自分の願いなんて持つな、だったのかもね。
親の言うことを聞け、おとなしく社会に合わせて生きろ、
夢なんて見てないで現実を見ろ、みたいなね。
でもそんなの関係ないんだよ。そんな他人の都合たちは。
「自分の”見たい”」だけいい
彼らの言う何かなんて見なくていい。
他人の言う何かなんて見なくていい
それを要求してくる他人は皆、他人と自分を混同している人たちの勝手な欲望だ。
自分と重ねて他人を見ているから。自分と他人を同化しているかのように見ているから、自分と違う他人がいると腹の虫がおさまらないというだけ。
自分と同じ他人で自分を囲わないと落ち着かないってだけ。
要は自分が気持ち悪いからそうしているだけにすぎない。
こちらのことを考えてるなんてことはただの詭弁で、本質的な目的は自分の感覚的な都合のことが目的だから
だからそれを打ち消すために他人を否定したり、屈服させて従わせようとするというわけ。
随分勝手な話なんだな
だからさ、もっと自分の見たいって願いに、欲望に貪欲に、身勝手になっちゃえばいいんだよ。
「見られたい」なんて必要ないわけだ。
全部自分の見たいことだけでいい。それだけを考えていい。
他人のそんな期待に答え用とする必要は、まったくない
自分が見たい何かに素直になれば、他人のそれなんてどうでもいいんだよ。見られたいなんて願望もね。
それが本当に自分が持ってる希望で、夢ってやつなんだから。
それを捨てて生きるなんてのは、自分の願いを、欲望を、生きる意味を殺し続けて生きているようなものなんだよ。
そんな人生に納得できる?そんな人生に意味なんてあるのかな?
ないよね。明らかに。文字通りに。
だって自分でそれを殺しているわけだからさ。
自分の願いが他人にとってどんなのかなんて関係ないんだよ。
自分の願い、希望、夢は自分だけのものだ。それを捨てるのも、活かすのも、全部自分の自由。
それがどんな形をしているかなんて、他人には、世の中には何も関係がない。
だからなんだっていいんだ。自分が自由に作ればいいんだ。そんなものは。
自由に作って、それを実現するために夢を見て前に進めばいい。
それだけのことだよ。別に難しいことでもなんでもない。
ただ夢を見て何かをするってだけ。
そのために毎日必要なことを考えて行動し、「生き続ける」ってことなんだよ
どう「生きた」とか、そんな結果は本当はどうでもいいんだ。肝心なのは生き続けることにそのすべてが詰まっているわけなんだからね。
成功しなきゃいけないとか、有名にならなきゃいけないとか、そんな外の都合はいらないってことだよ。
そんな承認欲求は、自分が前向きに生きるために必要なものなんかじゃないのさ。
むしろ邪魔なんだ。そんなものは。
そんな単純な話なんだ。自分の人生なんて。人の人生なんてのはね。
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