他人のことのなんて適当でいいのさ
ただの印象論なんだから。
他人がどんな事を考えているかを、一生懸命探ってやる必要などない
「理解してやらなきゃ」なんて思いこめばそりゃ鬱になるに決まってるんだ
理解しようとしても思い込みが複雑になるだけ
他人に対して深く理解しようなんてことをすればするほど、それだけ複雑な思い込みをすることになる。
他人のことは理解できないからね。あるのは他人を使って自分が想像を繰り広げているというだけ。
要はただの妄想なんだよ。
その妄想を繰り返せば繰り返すほど、「現実の他人という単純な事物」からどんどん離れていく。
つまり他人をちゃんと理解しようとするって行動で起こっている事実というのは、現実からどんどん乖離した、見かけ上の他人から一致しない思い込みをするってことになるわけだ。
相手が単に言ったことや、行動になにか裏があるんじゃないかと疑ってしまうようになる。
だから、ただ相手が言ったことを素直に受け取れなくなるんだよ。
本当は影でばかにしてるんじゃないか。不満なんじゃないか。嫌われているんじゃないか、とね。
それで病むわけだ。
他人のことなんて、自分の好きなように考えなよ。
人間は他人を理解できないし、正しく理解してやる必要もない。
だってそうでしょ。他人は別に自分の神様じゃないんだから。
そんな法律もないし。基本的にはこの国は皆平民だ。
仮にそんな階級があったとしても、所詮は人の作ったまがい物。心まで相手に尽くすように、屈服するような義務なんてどこにもない。
それとも他人の世話をしなきゃいけないなんて決まりでも?他人は自分の王様か何かかな?
相手の心を自分が世話しなきゃいけない決まりなんてないし、そもそも不可能だ。
そういう義務なんてはじめからいらないし、余計なお世話なんだ。
同調圧力とかそういった文化で相手に気を使うことを強要されてきたから、そうしなきゃいけないように感じるのかもしれないけど、必要ないんだよ
他人に対する思い込みなんてのは、ただ自分のしたいように、思いたいようにすりゃいいって話なんだ。
他人が良い人かどうかなんてどうでもいいことさ
よく、「この人はいい人だから良くしたい」とか「悪い人だから無視する」とかいうよね。
そもそもそんな風に他人を見る必要もないんだよ。
相手の人柄で自身の思い込みの形を判断するなんてのは、はっきりいってナンセンスだ。
そりゃ依存だもの。相手の人柄で自分の判断を委ねてしまっているわけだから。
いい人そうなら相手に任せる。つまり依存する。そうじゃなきゃ依存しないってね。
訪問販売員を人柄で判断するようなものさ
多分、いい人かどうかってのは、そういう“不誠実な人”を警戒するためにみにつけた相手の内面を探ろうとする癖なんだろうね。
これもきっと村社会的な文化で生まれたものなんだろう。
そういうものはいらないってことだよ。
そもそも依存的でなきゃ相手の人柄が何にせよ、「事」で判断できるってわけ。
言っていることが合理的かどうか、もっと論理的な理由で判断できるということ。
自分の頭で考えて判断できるってこと。
それさえできれば怪しい話には引っかからないんだから。
相手の内面を探ってまで防ごうとしてた恐れている怖いものなんて、簡単に撃退できるわけよ
むしろ人柄で判断している方が、よっぽど引っかかりやすい。
自分のかつての知人が話を持ちかけてきたら、断れないかもしれないからね。
つまり、相手の人柄に合わせて思い込もうとする必要も、義務もないってことさ
相手に対して正しく理解しなきゃ”いけない”という思い込みを捨ててしまおう
相手と話している時、相手の内面が気になって不安になったり義務にかられるのは、この理解しなきゃいけないって義務感の思い込みからきているかもしれない。
それは相手の人柄なんてものを自分の相手を見るベースにしているから。相手を正しく理解しないと、危ないと感じるなにかがあると思いこんでいる
そうしないと(いい人かもしれない)相手に悪いから。
そうしないと(悪い人に)騙されるかもしれないから。
だから、相手を正しく理解した上で、相手の都合のいい言葉を選ばなければならない、とか考える。
だから、相手の目が気になる。相手の言葉に、態度に、過敏になってしまう。
相手に好まれる自分になろうとしてしまうというわけ。
そしてそんな大変なプロセスを経て自身の心理的安全を確保しようとするわけだ。
でも必要ないのさ。心の安全なんてのは自分が作り出しているものに過ぎないわけだから。
他人に与えてもらうようなものではないし、他人がコントロールできるものでもない。
何にせよ、人は他人のことを一生理解できないんだから。
だから適当に、自分の都合で思い込んだらいいじゃないか。
どう他人を思い込むかに義務なんていらないんだ。正しい形もないんだ。
そうやって他人を背負わなくていいわけだ。
そんなことを続けていたらノイローゼになってしまうだけ。
カサンドラ症候群なんてやつもあるくらいだ。
自分の心は自分が世話するもの。そして世話できるのは自分だけ歯科そもそも存在しない
他人に依存する人のことは放っておくしかないのさ。彼らは彼らの都合でそうしているだけ。そこに義務感を感じる必要はない。
他人のことは自分の単なる鏡だと思っとけばいいのさ。
いや、他人だけじゃない。世の中のものも、世界すらも。
そういった外にあるものは、正しいか確かめるためにあるもんじゃないということ。
見るためにあるということ。自分が見たいように見るために。
自分が見たいものを映す鏡だと思っておけばいい。それで十分。
自分の見たいもので忙しくしていれば、それで十分なのだ。
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