自罰的と他罰的
自罰的であるというのは、常に自分が間違った存在であるという思い込みから来ている。
では、一体何に対して間違っているのか。間違っているというのだから、それは当然ある正解に対してそう感じているからこそ生じるものである
それは他人、または他人の言う何かである。
家族や友人、世間の目、評価、常識、普通等といった概念なども含めて、そのような外に存在するものに対して、自分は常に間違った存在であるというふうに思い込んでいるのだ。
一方他罰的というのはこれが逆になっていて、常に自分が正しく、外が間違っている存在であるという思い込みをしている。
SNSを見渡すと、そんな風に見える人たちを見かけたことがあるのではないだろうか。外に対して攻撃的な言動をとったり、その人の論理や正義感などを用いて、外に対して変わることを要求しているかのように見える人たちのことである。
一見正反対なこの2つであるが、その本質にはある共通した思い込みのポイントがある。
他人を自分の同族だと見る”前提”がある
自罰的な場合、自分が他人の思い通りの自分でなければならないと思いこんでいる
他罰的な場合、他人が自分の思い通りの人間でなければならないと思いこんでいる
どちらも他人という存在が必ず登場する。
そしてその他人に対して何を望んでるのか、というのがこの2つの共通のポイント。
それは、自分と他人が同じであること、ということ。
いやむしろ、同じでなければならない、という感覚だろうか
無意識的な義務の意識のようなものから来ていて、それを望んでいるような状態。
自分と他人は同じ考え方、価値観をもつ”べき”だ、もっている”べき”だ、という義務の意識で考えているということ。現実と乖離していると、べき論を使ってそれを望む。
そうすることで相手に自身の同族を、または相手と自分を同化することを義務的に望んでいる。
※なぜそんな義務の意識がついてしまったのかは承認欲求関連の記事に書いているので、そちらを参照いただければと思います。
他人と違うことがおかしいという思い込み
まとめると
自罰的な考え方は、自分が他人と違うと、自分が悪い、間違っていると考える。
他罰的な考え方は、他人が自分と違うと、相手が悪い、間違っていると考える。
ということになる。
どちらも他人と自分の違いがタブーな思考形態のである。それに対する反応の仕方が違うと言うだけなのだ。
方向が違うだけ。その発生点は同じ。
他人に対する同族、同化の義務の思い込みからなのである。
罰する思考から解放するには
だから他人を罰したりすることがやめられなかったり、逆に自分を罰することで感じるその苦しみから逃れるためには、自分と他人を同じだとおもうことをやめることになる
他人と違うということを受け入れること。それを極普通のありふれたこととして認識すること。
正解も間違いもない。誰も正しいことも間違っていることもしていない。
そもそも人は他人のことなど少しも知らないのだから、そう思うことも感じる必要も元からない。
そんな義理も義務もない。そんなものは、全て自分がそう思い込んで、作り出している主観的思い込みに過ぎないのだから。
だからもし開放されたいのなら、安心して、他人を自分から切り離してしまえばいいのである。
ちょっとした余談
そして、自分と同じ人間、つまり、同族のようなものを求める心理こそが、依存の本質でもある。
依存すると不健全な心理状態になってしまい、なかなか抜け出すのは難しい。
そのためにもこの両者の特徴をもつように”自分にとってそう見える人”ととは、付き合わないか、一定の距離を取ることをおすすめします。」
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