何をしても続かなかった自分が、続けられるようになった方法




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2020年04月25日~:
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何をしても、何にチャレンジしても続かない

よしやるぞと始めても10分も続かない。すぐにスマホに手が伸びたり動画を見あさってしまう

すぐSNSの様子が気になり、目の前のことを放り出してしまう。

そんな自分にいい加減辟易してはいないだろうか。

私もそんな人間であったが、ある思い込みを解消することで、簡単に続けることができるようになった。

それも周りの音も何も聞こえなくなってしまうかのような感覚がある集中力を伴って従事できるようになったのである。

全ては心の在り方の問題だった

私はずっと義務感で自分を動かしてきた。

他人から与えられることをありがたく受け取り、それをその通りにこなして、褒められるために自分を動かしてきた。

つまり承認欲求が自分の原動力だった。

しかしそんな心の在り方が、自分で何かを始める上では逆に障害となってしまっていたことに気づいた。

“褒められるためにやる”

結果のために自分を強いる。

この思考と価値観そのものが、すべての元凶だった。

結果に対する義務感を全てすてた。

何かをできるようにならないと”いけない”

本当はやりたくないけど、やらないといけない、そういう義務の認知、感覚、そこから派生する思考全般。

これを私は捨てた。これを捨てただけで、肩の荷が完全になくなり、目の前の作業に集中できるようになった。

なぜ義務感を捨てるだけでできるのか?

まずは義務感が何なのかについて説明しなければならない。

まず義務感とは、「飴と鞭」のロジックの一部である。

誰にも従わなくていい!従属欲求を捨てて承認欲求を捨てる。

それを使命感といえば聞こえがいいが、その本質は「他人にやれといわれてやること」

自分からやることを見つけてやる考え方の由来のものとは本質が違う。

だから自分で何か勉強したり始めようとしても、飴と鞭の義務感では続けられないのである。

発想が根本から違うためであり、ロジック的になりたたないのだ。

義務と報酬のセットで成り立つ

少なくとも日本人なのであれば、ほとんどの人が「飴と鞭」のロジックを(かなしいことに)子供の頃に義務教育をその身をもって獲得しているはずだ。

いや、”体得している”といった方がいいかもしれない。まさに身にしみこんだ習性ともいうべきレベルであるとだろうから。

それについては後述。

さて、この義務感が発端の行動は、よほどその先に「約束された報酬」が確定していなければ成り立たないものである。

例えば

会社で働いて給料をもらう

仕事を早く終わらせたら帰れる

いい成績をとったらご褒美をもらえる

こういった「義務に対する報酬が確定できるとみなせるもの」でないと、飴と鞭のロジックはうまくいかない。続かないのである。

続ける価値を感じられないのだ。

余談メモ:OJTが流行るのは、実践で学べるという強みもがるが、それ以上に従業員が自宅で自主的に勉強などまずしないからである。

多くの従業員は会社のために(正確には会社内での自分の立場、体裁のために)仕事をしているという意識でいるためだ。

「お金(報酬)にならない労働(義務)はしない」「体裁に直接つながらないことはしない」。

まさに飴と鞭の構造であるが故である。

義務では自主的な学びは続かない

さて、この「飴と鞭」のロジック、先ほども少し書いたように

自主的に実施する場合にこの考え方でやろうとすると、はっきりいって全然うまくいかない。

理由は明らか、仮に”学び”を「義務」とした場合、その”報酬”がどこにも存在しないからである。

飴と鞭をふるうのは他人

飴と鞭のロジックは、他人から課題をもらって言われた通りにこなし、その報酬を得る、というロジックになっている。

なので、他人から言われたことじゃないと義務に対する期待をもって携わることができない。

他人から言われたことじゃないと、そこにアメがあると確信できないのである。

自分で自分をほめる、という方法もあるのだがそれだけでは動機として薄いだろう。

実際身の覚えがあるのではないか?会社で指示されたこと、学校で教師から直接その場で指示されたことは体が動くが、

帰宅して自宅で自分がやろうとした時は、まるで体が鉛のように重く感じられたりはしないか

だとしたらそれは本当によく調k…いや教育されている。上から何か言われたときに”だけ”体が動くように、自らを教育してしまっているからなのだ

他人から鞭を振るわれないと、動くことができない。それが飴と鞭の洗n…いや教育の成果なのである。

(こわいね)

ではこれからはどうするか?

どう取り組めば、自分で自分の決めたことにストレスなく、集中して取り組み続けることができるのか?

それは飴と鞭とは全く異なる方法、認知で事に当たる必要がある。

つまり、アメも鞭も一切が必要がない方法、認知で挑むということである。

そしてそれは、先ほども申し上げた通り、義務を捨てること。

はっきり言えば、「何もできるようにならなくていい」ということである。

あらゆる結果に対する義務の放棄。

結果を放棄する。

結果に対するすべてを捨てること。義務も執着も、それを求めることもすべて捨てる。

それすなわち。自分が何かを学ぶことで得られる何かや、成れる何か。

そういったすべての先にあると感じる結果達を捨ててしまうことなのである。

これを受け入れたうえで事に当たるということなのだ。

結果もなくどうやって続ける?

先ほどの話は多分、非常に奇妙なことのように聞こえたと思う。

「何もできるようにならなくていい」なんて。

結果を捨てるなんて。

じゃぁ一体何のために学ぶのか?

何のための鍛錬するのか?

当然そう思うと思う。

正直思いついた私ですら最初は半信半疑だったから、それはとてもよく共感できる。

でも驚くことに、これは本当のこと。

その”何のため”という結果に対する”執着感”がそもそもの罠、歪みだからである。

「何かのためになることでなければする意味がない」

そういう強迫的な結果に対する義務の思い込みが、自分を苦しめ、今に集中させないからである。

自分の人生を生きることを邪魔する最悪の認知の歪みなのだ。

義務感はただ手を止めるだけ

自分で何かをすることの前に、義務感というくさびはただただ無駄である。

なぜなら手が止まってしまうからだ。

義務を果たして報酬が約束されていないことに対する不安が、目の前のことに対する価値を下げてしまうからである。

それで何もできなくなってしまい、結果的に続かないのだ

義務感を捨ててしまえば、手は動くのである。

そして実際に手を動かしたその積み重ねが、結果である

0と1どちらが進むか。それはあきらかではないだろうか?

つまり結果なんてのは、そもそも最初から勘定にいれなくとも、ただオートマチックに、勝手に反映されていく、ということなのである。

できるようになったことが、後から振り返った時にあるだけ

結果はただ知らない間に積み重ねられていくものだ。

今何かをしているとき、自分が何を得ているのかなんてのはわからない。

結果は、振り返った時にしか存在しない。

過去を振り返り、何ができるようになったのかを見ようとしたときにしか存在しない。

そしてまた一度目の前のことに戻ってしまえば、結果はどこにも存在しなくなる。

結果はただ後ろについてくるだけだ。

ひとりでに、自分の知らないところ、関知しないところをついてくるだけのものなのである。

目標を決めたら、あとはただ楽しむ

まずは目標を決める。次にやることを決める。

目標とはあくまでただの目印だ。

求めるものではない。例えるなら灯台のような進行方向を決めるための存在だ。

そして決めたら、あとはただ決めたことをやるだけ。

これだけである。そして何より重要なこと。

それ自体を楽しむということなのだ。

今を楽しむこと。何かに取り組んで、何かを探して、何かを探究して、何かを感じて、何かを考えて

そんなやっている最中に感じること、すること、考えることのすべて

それをただ気兼ねなく楽しんでいいということに気づくのである。

楽しめないのは、義務でやっているからなのだ。

義務を捨てて楽しむ。要はこれだけである。

“今”だけで十分

例えば嫌われてもその状況を楽しむことができるし、
失敗してもその状況を楽しむこともできる。

別に嫌われたりしてその次の瞬間自分が死ぬわけじゃない。

そのあとも世界は続いていく。

状況に合わせて自分の”ロール”なんて変えなくていい

嫌われたから「自己否定する自分」を演じる必要はない、ということ。

そんなロールをしても疲れるだけ。

そんなことをしようとしてる(しなきゃいけないと思い込んでる)から未来が怖いだけ。結果に執着する。

全部結果とかは道具でしかない。その時に使える道具、部ただの環境だ。

その時にただあるというだけのもの。

それを使い続けるってだけ。

簡単な話なのだ。だから何も固く考える必要はない

最初から何も心配する必要はないのである。

「何のため」はもういらない

今を生きる。

今という密度を上げることだけが最も大切なもの。

それだけが自分のタスク。それだけが実在しているタスクなのだ。

「何のためだ」というのは、単なる脅迫なのだ。

自分を脅迫して鞭で無理くり動かそうとしているやり方、飴と鞭からくる思考なのだ。

何のためだと思うからプレッシャーを感じる。

何のためだと思うから「しっかりやらなきゃ」と自分を脅迫する

何のためだと思うから結果に執着する。

それは「自分がしたいこと」の前には少しも必要のない概念なのだ。

すべての結果を捨てて楽しもう

「うまくならなきゃいけない」

「わかるようにならなきゃいけない」

「へたくそはダメ」

「意味がないことはやっちゃダメ」

そういった義務の認知を全部捨ててしまっていい。

今だけをみていればいい。

今使えるものを使うことだけ。

今できることをするだけ。

それだけでいいのだ。先のことなど、無視してしまって構わない。

全ての結果は、ただ後で見たときにだけ存在する過去にすぎない

未来にも結果は存在しない。

できるのは今を積み上げるだけ。

最も効率的な取り組みの在り方とは

如何に今を価値ある瞬間にするかということ

つまり、今を楽しむということ

今に集中するということ。

それを邪魔するものがあるならすべて捨ててしまってよい。

今を汚すことほど最悪なものはないからである。

 



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

2 件のコメント

  • お話よくわかりました。私は大学生なのですが、大学は義務感で通っているため、全く面白くないです。結果、つまり単位取得、卒業、そして就活のために通っています。しかし就活も結果のため、つまり就職し、仕事でお金を稼ぐために通っています。しかし今を犠牲にして将来のために生きるのは不幸でしかないことを身をもって体験してきました。では大学を辞めるべきなのか?自分にとって大学の授業は苦痛なのです。それはやらされている勉強だからです。私は大学の授業とは全く関係なく、自分で哲学書を読んだり、歴史書を読んだり資本主義の構造を調べたり、英語を学んだりという勉強をしています。別にそれは自分の興味があることなので苦痛ではないです。むしろ楽しいし世の中の仕組みを知れる喜びを感じます。ただ将来お金を稼げないかもという不安があります。だからズルズルと大学にいますが単位はあまり取れていません。Elepanさんはこのように将来の結果に生きるか、今に生きるかを悩みませんでしたか?私は特にやめた後のお金の面でまだ悩んでいるので、もし良ければ意見を聞きたいです。

    • 私もそれは随分悩みました。

      ただ悩んでも状況はよくなっていかなかったです。

      悩んでいるときってどっちに行けば“いいか”わからないっていう、
      やっぱり何をすれば“正しいのか”という結果を求めている意識が根柢にあって

      それを捨てないと「すっきりと判断」はできなかったです。

      なのでおそらくなんですが、まずはそれを捨ててみるところから何かなと感じます。

      結果を求める意識、義務の意識、それを取っ払うことからなのかなと。

      捨てることで、何が必要なくなって、何が残って。

      残ったもので何が本当に自分のしたいことなのか。

      そういうのが見えてくるのではないかと思います。

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