私が努力できなかった原因はある”思い込み”のせいだった。





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何をしても、何にチャレンジしても続かない

よしやるぞと始めても10分も続かない。調子がよくても1時間くらいが限界。すぐにスマホに手が伸びたり動画を見あさってしまう

すぐSNSの様子が気になり、目の前のことを放り出してしまう。

何をしても続かないそんな自分にいい加減辟易していた

そんな私であったけど、ある思い込みを解消することで、簡単に続けることができるようになった。

そんな私の経験をベースになぜ努力ができなかったのか、気づいたことを書いていく。

全ては承認欲求の問題

私はずっと義務感で自分を動かしてきた。

他人から与えられることを名誉だとありがたく受け取り、それをその通りにこなして、褒められるために自分を動かしてきた。

つまり承認欲求が自分の原動力だった。

“褒められるためにやる”

そのために自分を”強いる”。強制する

何かをできるようにならないと”いけない”

本当はやりたくないけど、やらないといけない、そういう義務の認知、感覚、そこから派生する思考全般。

そんな心の在り方が、自分で何かを始める上では逆に障害となってしまっていたことに気づいた。

これを捨てた。これを捨てただけで、肩の荷が完全になくなり、自分の興味や何かをやりたい、考えたい、という気持ちだけが残った。

結果、目の前の作業に集中できるようになった。

私の努力は「飴と鞭」の考え方だった。

これを使命感といえば聞こえがいいけど、その本質は「他人にやれといわれてやる」ということ。

これは逆に言うと、「他人に言われなければやらなくてよい」とか「他人に言われなければやってはいけない」と暗に思い込んでいるということでもある。

自分で自分のことを決めてやる、という思考じゃないから。考え方も価値観も全然違う。水と油みたいなものだ。

だから自分で何か始めようとしても、飴と鞭の考え方では相性的に合わず、続けことができないということだった。

義務と承認のセットでないと成り立たない思考

「義務」を果たして「褒められる」。

義務と承認がセットでそろっていないとこの考え方では何かを続けることができない。

義務を背負ったとしても、それに対する承認が保証されていなければたちまちに不安を感じて続けられないし、

義務が”大した義務”でなかったら、それに対する承認も”たいしたことがないこと”になるので、やりがいを感じられず、やはり続かないし、そもそもそれをやろうとする発想すらわいてこない。

承認欲求の考え方で何かをしようとすると、まずその自分のやることが誰かにとって賞賛されうる素晴らしい何かである必要がある。

不特定多数の多くの人に認められたいなんてものになれば、社会的に評価される素晴らしい何かである必要がある。

それを達成することで自分が素晴らしいなにかになるために取り組むのだけど、そのなりたい何かが現在の自分の力では到底及ばないようなものであるとその果てしない壁を前にしてやる気がなくなってしまう。

壮大な義務を背負っても、それを必ずやり遂げられるかといえばそうとは限らない。それは壮大であればあるほど、それに対する労力も壮大になるので、結果その義務を達成できるかどうかが怪しくなり、褒められるという報酬が得られる保証がますます低くなる。

絵を描いても、必ずうまくなれるとは限らない。「うまい絵をかけるようになる」という、今現在の自分から相当に先にある自分のために義務感で何かをするというのは、それで承認されるかどうかということに対する信頼性が低すぎて、そこに時間をかけることをリスクだと感じてしまう

だから続けられない。ずっと不安を感じながら何かを続けるには、その膨大な労力はあまりにも苦行にすぎるから。

続けることが怖くなってしまうから。長期的に自分の意志で続けることをやろうとしたら、この飴と鞭の思考では到底続かない。

承認欲求を捨てると、努力は楽しくなる

だからそんな義務感、承認欲求という、自分で何かをやろうとしたときには重りにしかならない、障害にしかならないそれを捨ててしまうだけで、結果それを逆に楽しむことができるようになり、かつより自由に、より豊かな自分の感性、考え方を用いて取り組むことができるようになって、伸びしろもずっと長くなる。

むしろ何かに自分で取り組むことほど、面白いものはない。自分で自由に決めて、自分のやり方でできるから。

誰かに言われた何かに無理やり取り組むことほど、つまらないものはない。だって他人の言われた通りに、他人の求める形の通りにやらないといけないから。

自分の意志でやらないことは基本的につまらないんだ。学校の勉強が楽しくないのは、「やらされている」からで、自分からやろうと思ってやっていれば、なんでも面白くなるものなんだ。

要は努力できるかどうかというのは、自分で決めてやるのか、他人に決められて褒められるためにやるのか、という自分軸か他人軸かという考え方の問題だったんだ

だからもし努力することができるようになりたいというのなら、まずはその努力を自分で楽しめるようになること、他人に言われてやるのではなく、自分で決めて、自分でそれを自由に楽しんでいいのだ、ということについて、自分に許していくことが大切

誰かに言われてやるというのは、先ほども挙げた「他人に言われなければやってはいけない」という他人からの強制を強いられている縛りの無意識があるからそう考えたくなる。

だから許可すればいい。そんなことしなくていいんだと。

誰かの言ったこと、誰かのやり方、考え方。そういう外にある何かに、自分のそれを合わせなくていいと。自分の好きにしていいと、自分を許してあげるんだ。

自由に学んでいい。自由に思い込んでいい。自分で楽しんでいい。

「こう考えなさい」「こう答えなさい」という外からの縛り。

必ずこうならなければならない、できるようにならなければならないという縛り。

それを捨てちゃえばいい。本来学びは、そんな縛りなしで自分の好きに取り組めること。

人生だって同じ。自分で選んでいい。周りと同じじゃなくても、自分一人で楽しんでもいい。

周りに合わせた形で楽しまなきゃいけないなんてことは決していない。誰かに称賛されなきゃいけないなんて思わなくていい。

自分だけで勝手に、自分の世界で楽しんでかまわないんだ。

他人に「申し訳なさ」を感じて学ぶ必要も、他人にそれを否定されて落ち込む必要も、合わせて生きる必要もない。他人から与えられたそんな「罪」は、一切感じる必要なんかないのだ。

つまり自由。ほとんど遊びと変わらない。

それが学びの面白さ。人生の面白さ。それができなくなっているのは、それを彼らにスポイルされてしまったというだけ。だから何かを学ぶことがおもしろくない。何かに取り組むのがおもしろくないんだ。全部やらされていることになってしまっているから。

だからその義務感を捨ててしまって、やらされる必要はもうないのだと、スポイルされた自分の人生を、自分の気持ちを取り戻していこう。

そうすれば、本来の素直な自分が顔を出してきて、それで目の前のことを自然に楽しむことができるようになっていく。

そしてそれが本当の自分のための努力になる。いや、もはや努力ですらないかもしれない。何かに夢中になって学び続ける、楽しんで学ぶということができるようになれば、努力できるようになりたいと思う必要もなく、ただ目の前を見て進んでいくことができるようになるはずだ。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

2 件のコメント

  • お話よくわかりました。私は大学生なのですが、大学は義務感で通っているため、全く面白くないです。結果、つまり単位取得、卒業、そして就活のために通っています。しかし就活も結果のため、つまり就職し、仕事でお金を稼ぐために通っています。しかし今を犠牲にして将来のために生きるのは不幸でしかないことを身をもって体験してきました。では大学を辞めるべきなのか?自分にとって大学の授業は苦痛なのです。それはやらされている勉強だからです。私は大学の授業とは全く関係なく、自分で哲学書を読んだり、歴史書を読んだり資本主義の構造を調べたり、英語を学んだりという勉強をしています。別にそれは自分の興味があることなので苦痛ではないです。むしろ楽しいし世の中の仕組みを知れる喜びを感じます。ただ将来お金を稼げないかもという不安があります。だからズルズルと大学にいますが単位はあまり取れていません。Elepanさんはこのように将来の結果に生きるか、今に生きるかを悩みませんでしたか?私は特にやめた後のお金の面でまだ悩んでいるので、もし良ければ意見を聞きたいです。

    • 私もそれは随分悩みました。

      ただ悩んでも状況はよくなっていかなかったです。

      悩んでいるときってどっちに行けば“いいか”わからないっていう、
      やっぱり何をすれば“正しいのか”という結果を求めている意識が根柢にあって

      それを捨てないと「すっきりと判断」はできなかったです。

      なのでおそらくなんですが、まずはそれを捨ててみるところから何かなと感じます。

      結果を求める意識、義務の意識、それを取っ払うことからなのかなと。

      捨てることで、何が必要なくなって、何が残って。

      残ったもので何が本当に自分のしたいことなのか。

      そういうのが見えてくるのではないかと思います。

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