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「この世には正しい事を知っている人がいる」、と思うかどうか
もしそのような人がいると思うのだとしたら、それはつまり「誰が言っていることは正しくて、それ以外の誰かが言っていることが間違っている」と思っているということなんじゃないかと思います。というのは、何かを正しいというのなら、その反対のことや違うことは正しくないか、間違っていることだと思っているかもしれないからです。
さらに付け加えれば、この世には真に正しいことと間違っていることが存在している、と思っているという風にもとらえているということでもあると思います。この世には真に正しい事を知っている誰かがいると思っている、というような構図ですね。
それを基底として、他人を受け入れるということをしようとた場合はどうなるのでしょうか。
多分それはその「正しい誰か」のことは受け入れるけど、それ以外の誰かのことは受け入れない、ということになると思います。
「受け入れない」というのは言い方を変えれば「拒絶する」ということだと思います。つまり正しくない他者に対して否定的、排他的になるということも意味しているということになりますね。
「自分が正しい、真実である」でも同じことです。その反対にある「他人は間違いである」と無意識に定義している可能性があります。また誰かやある考えなどが真に優れているとか劣っているといった風に捉えることにのも同じことが言えるでしょう。
つまり、「この人は正しい、真実である、優れている」と思い続ける限りにおいては、それに反する、相いれない「正しくない、間違った、劣った何かや誰か」が存在すると思い続けることにもなり、それに対する拒絶と否定を起因とした人間関係に悩み続けることになります。
自分にその意識があるかどうかを確認する方法
この無意識があるかどうかは、それが「現実に具現化するかどうか」でわかります。つまり実際に自分と違う考え方をしているように見える他人と相対した時、それが自身の姿勢となって具現化するかどうかで判明すると思います。
自分が正しいと思うものと違う何かだと思うものに自分が相対したときに自分はどう感じるか。その違うものに、誰かに自分はどう感じ、どうするか。
もし苛立ちや不快感、不安感のような負の感情を感じるのだとしたら、その無意識があるという証拠になります。その人をどうにかしてやりたい、論破したい、分からせてやりたい、しかりつけたり説教をして自分の思い通りに従わせたいと思うのならそれも証拠になります。
人間的価値など、人を上下の物差しで測ることが出来ると考えているとか、何かしらの外的要因や動機をもとにした価値観や意味付けを自分がしていて、それで世界が割り切れる、良い人間と悪い人間、優れた何かを知っている人とそうでない人に切り分けができると思っている「白黒思考」があれば、それも証拠になるでしょう。
真実の奪い合いの火種に
正しい人や何かが真にあるのだと思うということは、自分の信じている真実、優生であると思っているものに異を唱える他人との「真実の奪い合いの抗争」を生む要因になります。
なぜならその思考形態において、それを成り立たせている真実とは唯一無二の存在であるから。それに対して自分の思うそれとは別の真実が顔を出せば、それはこの世で一つだけなはずの自分が信じている真実を否定する敵対勢力ということになり、その相手に対して敵意や不快感、不安感、恐怖の意識をもつことになります。
その感覚や感情の程度はその人がその真実に対してどれだけの“比重”を置いているかで変わってきます。もしそれがその人にとっての「生きる意味」だとか、「存在価値」、「生きざま」といったその人の存在を根本的に支えている何か、つまり自分の幸福感や安心感を支えている何かであると思いこんでいるものであれば、おそらくその程度はまさに「殺意」であるといってもいいでしょう。
何せ自身の精神的な生存の有無、意味、精神的な自身の生死がかかっているわけですから、何が何でも相手をねじ伏せたく成ってしょうがなくなります。あるいはその人が怖くてたまらなくなる。自分と違う意見や何かを持っている、自分の信じているものの根幹を揺るがすような何かが憎くて怖くて、そんな何かをどうにかして懲らしめたい、叩きのめしたい、支配したい、下手をすれば殺したいという感情に飲み込まれてしまうかもしれません。
人は「自らの主観の壁」にとらわれた生き物であるということ
こんなことを言うと、自身の真実を妄信する方々から下手をすれば殺されてしまうかもしれませんが…(某宗教は本当にそういうことをするそうな)、真実を知っている人はおそらく、現段階においては誰もいないでしょう。
なぜなら、誰も自身の主観の壁を突破することがおそらくできていないからです。主観の壁とはすなわち自身の肉体的機能の制限、限界のことです。自身の肉体で可能な世界を観測することが出来る限界のことです。
『おそらく』、というのは私自身が主観の壁を突破できていないがために、それを真に客観的に捉えることが出来ていないためです。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の肌で感じて、自分の頭でもの考えて何かを見出す。自分自身の肉体の機能を使って世界をとらえることでしか世界を解釈することが出来ていないからです。
それ以外の感じ方や捉え方があるかもしれない。ひょっとしたらそんな自分ができる機能を超えた何かを持っている誰かがいるのかもしれません。そういう意味では真実はあるのかもしれません。
でも少なくとも私は、どうやらそれができない。できたとしてもそのやり方を一切知らないのです。知ることが出来ない。そういうものが存在するかどうかすら、私の肉体的機能では一切感知も何もできていないようなのです。
自身の脳から現実を見ているだけの主観という世界を、私は超えることができていない。どんなに想像をめぐらしても、観察をして必死に論理的に何か考えをくみ上げても、それはやはり自身の肉体の機能という範囲内でできることでしかない。
他人の脳から見たその景色や感覚、思考、あるいはほかの未知の何かを私は感じとれない。それについて少しも知りもしないし、ましてやほかの動物たちがどのように感じているのかなど、想像すら及ぶこともない。
なんなら私が想像する「人の感覚とか思考」といったものすら、個人個人で実は全く違うものなのかもしれません。自分の想像を絶する何かをそれぞれの個人がそれぞれ違った何かの形で有していて、それを感覚とか思考といって言葉を使って他人は表現しているのかもしれません。
何かを知っているようで実はほとんどこの世のことを知らない塵のような存在である私が知っていることなど、まさに塵のような自分のことだけ。この宇宙の広さはどうだの、果てがどうのだという話以前の問題、地球上のある何かに対してすら、その辺の猫や犬、ネズミ、ゴキブリやゾウリムシも、私はほとんどのことを知ってなどいないわけです。
自分の世界以外、少しも知りはしていないのですよ。そんな個人的な自分の世界しか知らないわけです。
ただそんな無知な私でもかろうじて稚拙ながら身勝手に想像できるのは、おそらくこの主観で世界をとらえているという点についてはほかの他人も、おそらくほかの生物も変わりはしないだろうということ。
ひょっとしたら全く違うかもしれないけれど、それでもそう想像することはできる。少なくとも同じ脊椎動物であれば、同じ”人間に区分される存在”であれば、そこの仕組みは、おそらくほとんど変わりはしないのではないか。
それを仮に真であるという前提として考えた場合、つまり人が見ているのは自らの感覚器官でとらえた世界と、それをもとに自らの思考によってとらえ、定義された世界にすぎない、すべては個人の思い込みの範疇にとどまるだけのものでしかない、ということです。
それぞれの単なる個人的な主観である以上、誰一人として世界を絶対的客観視し、そこから見出した真実をとらえたり理解できる機能をもつことができないということです。
つまり誰もが主観の世界の中で「それぞれの個人的な主観の思い込み」をし続けているということになります。
誰も「何かを知っている誰か」にはなれない
これまでのその人がその人生で考えてきたこと、経験してきたことの全ては、単なるその人の個人的な思い込みだけで成り立っているものです。自分も他人でも同じです。
世界を感じてそれをとらえる、つまり、世界を解釈するという一連の人間の思考プロセスは、それがどのような”優れた学問”や”科学的根拠”のあることであったとしても、やはりそれでも主観の世界を抜けることのできない人間であることは変わらず、結局すべてその人の個人的な思い込みにすぎません。
ゆえにどんなに論理的に科学的に文学的に芸術的に何かをとらえ、語ってみたところで自身の主観の壁はやはり超えることができない。
ゆえに誰も何かを真に知っていることもできなければ、真実を語ることすらできない。そもそも人間がそれを”もっとも正確に表現できるように見える言葉”すら、単なる記号、点にすぎず、この世の真理というような“真実そのもの”を出力するというツールとしてはあまりにも役不足なのです。
「神」には誰にも成れない
知っている誰かというのは、この世の唯一の真実を知っている、つまり真実を理解している、いえ、体現しているような全知全能のような存在であるということでもあると思います。
そのような存在を、人は神ととらえるでしょう。
しかしそんな神という存在はこの世のどこにもいない。いえ、いないかどうかはわからないといった方がいいでしょうか。私は少なくともその存在をとらえることが出来ていません。それを真に見出せないといった方が近いのかもしれません。
主観の世界においては、「自身が信じるなんらかの神」がいると思い込むことはできますが、結局主観の領域を超えることはやはりできません。
それぞれの主観の中の思い込みという形で何らかの神は存在していたとしても、それが決して外の現実世界に出てきたりとか、それを他人と共有したりするようなこともない。もしそれがいるのなら、既にすべての人がその神を見ることが出来て、かつその神から同じ真実を与えられ、同じ真実を共有できているはず。であればすでに誰が本当のことを言っているのだとか、真の神は誰だというような争いは収束しているでしょう。
でも現実はどうだろうと見て見ると、どうやらそうではない様子。信じる何かの違いで、戦争すらしているところもある。それも何百年、数千年にわたって争い続けてすらいるところもあります。
それぞれの真実(という思い込み)をかけて争い続け、どちらかが倒れるまで、自らが思う真実を証明するためにほかの真実だと思う何かを掲げる誰かを殺し続けていたりしますね。
殺人とまではいかなくても、何らかの争いはほかの場所でもよく見られます。SNSをのぞけば、あちこちで何が正解だ、何が真実だというような言い争いは割と身近な話題で見られますね。
「俺の言っていることが正しい」「いや私のいっていることこそ真実だ」
そんな争いは割と日常的にみられる光景です。
「自分、他人を受け入れる」とは一体何を指す?
さて、もう一度考えてみます。そんな世界の中でもし「自分を受け入れる」「他人を受け入れる」ということをするのだとしたら、それは一体どういうことをさすのでしょうか。
誰かの真実に服従することでしょうか。誰かの言う真実のように自分も考えるように、自分を調教し再教育することなのでしょうか。無理やり自分に何かを強いて他人の言い分に従ったフリ、信じたフリをすることなのでしょうか。
それとも、自分の信じる真実に誰かを従わせ、同化を迫ることなのでしょうか。自分こそが真実の化身だとし、神気取りを講じることでしょうか。
それは「受け入れる」というよりは、「染めあげる」といった方が近い。自らの思い込みを他人の思い込みで塗りつぶす、相手の思い込みを自分の思い込みで塗りつぶす行為です。
つまりそれは、何かの真実という名前がついた思い込みの奴隷になるということをさしているようなもの。となるとこの世は、それを語る誰かに支配されるか、自らがそれを語り誰かを支配するかというような二択のような世界になってしまいます。
「奴隷化=受け入れる」なのでしょうか?
何かを受け入れることがどちらかの真実に服従し我慢することだとしたらそれは随分生きづらそうです。誰かの言う真実を自身の本音にかかわらず無理やり背負い、苦役に苦しむことが受け入れることなのだとしたら、他人を受け入れるというのは随分つらいもののように見えます
いえ、見えるというか実際つらかったです。私はこれをやっていた時期がありました。しかしそれはとてもとても、私のような辛抱強さの欠片もない人間には続けることができることではありませんでした。どんなに他人の言うことに服従して我慢をして見せても自分の思っていることや考えていることは自分にとって大事なことはその内面では変わらなかったし、だからこそ苦痛を感じ続けていたわけで。とはいえ当時の私はそんな自分の無意識を知ることすらできてはいませんでしたが。
いくら自分に他人の言い分を言い聞かせ自分を本気で欺こうとしても精々そのフリ、ポーズまでが限界で、本当にそれを捨てたいとも塗りつぶすことはできなかったのです。
他人や自分を受け入れることを、他人や自分の真実という名前のついた何かに対する服従であるかのように捉えても、それはただ他人の都合で自分の都合を我慢するという苦役を自分か他人に課すだけにすぎず、全く気持ちのいい方法ではありませんでしたね。
そもそも一歩引いてみれば誰も真実を知らないのですから、神でも真実でもないたの人間である他人の個人的な都合にただ付き従っているだけということになります。つまりその人の個人的な奴隷にすぎず、例えば神の奴隷というわけではない。神のような絶大的な飼い主をバックにした奴隷ではない。神のような絶大的な”プロテクション”という見返りをえられるのならひょっとしたら、本当にひょっとしたら少しだけやる価値はあるのかもしれませんが、やはり現実にそこにいるのはただの人間にすぎない。
いえ、やっぱり苦しいことには変わりがありませんね。我慢して嫌だと思うことを耐えてやっているということは例えバックに何が居ようが変わることはありませんからね。
原点回帰:誰もがそれぞれの主観で生きている人間でしかない
さてここでいったん最初に立ち返って考えてみます。誰も真実をしらず、神のような存在でもない。神のような真実を知っているという保証を誰も手にしておらず、得られることもない、ということです。それぞれがそれぞれの個人的な思い込みと目的を抱えて、正解も何も知らないままに毎日を生きているただの人間にすぎないということです。
であるならばそれは皆持っている価値観、考えといったものがすべてそれぞれ特有の「個人的なもの」であるということになります。自分が考えていることもやっていることも目的も何もかも、自分の個人的な問題、個人的な都合にすぎないと。
他人はそんなもの知らないし、どうでもいいのです。というか感知すらしてません。自分の肉体的制限、つまり5感と自身の思考に縛られているのですから、自分以外のそれのことなんて死ぬまで感知することも考えることも、ましてや身代わりにも代わりに生きることも何もできないのですから
そして自分もそれは同じであり、他人の個人的な都合、目的といったそんな都合なんかどうでもいい、知りもしない。感知できていない。
つまり皆それぞれの個人的な都合をもち、かつそれしか知らずに個人的に主観の中で生きているというだけの、ただの「個」に過ぎないということです。
自分も他人もただの個であることを受け入れることが、自分を他人や受け入れるということ。
自分にも他人にもいわゆる「神」のような力も知も能力もないし、互いのことを何も知ってもいない。ただのそれぞれの主観の中で生きているだけの「個」にすぎません。
それを受け入れるということが、自分や他人を受け入れるということです。別に分け隔てなく人を信用しなさいという盲目的なものではなく。
自分が何かを正しい、間違っている、そのどちらでもないと言おうが思おうが、すべては自分の個人的な主観であり、個人的な考えであり、個人的な価値観でしかない。そして他人が何かを正しい、間違っている、そのどちらでもないと言おうが思おうがそれも同じこと。すべてその他人の個人的なものにすぎないという現実を受け入れるということです。
つまりこの世、自分の主観という世界において真実なんてものはない、その壁を越えた先には何かがあったとしてもその壁を越えられない自分には見つけられない、感知できない、つまり存在しないということです。
奪い合おうとしてそれぞれの主観の中で生まれた思い込みを持ち寄って不毛な争いや支配合戦を繰り広げたところで、その目的である「どちらが真実なのかを決める」は達成されません。どちらも、結局ただの個人固有の、その個人によるものだけの思い込みでしかないのですから。
みんな一人だけで勝手に思い込んでるだけ
つまり簡単に言うと「みんな勝手に一人でそれぞれ思い込んでいるだけ」ということですね。誰も一緒に思い込んでない、そう思い込んでいることもあることも含めて、それぞれの勝手な思い込みで勝手な世界観を作っているだけ。それだけの話しです。誰も真実など知らず、真にいいことも悪いことも知らない。親も友達も教師も同僚も上司も動画やテレビに映って色々言っている人も、私も、これを読んでいるあなたも。みんなそれぞれの都合で独りで好き勝手に思い込んでいるだけなんです。
みんな勝手なわけだから、「妙な人」が居たりすることなんて別に自然な話。それが自分でも何もおかしな話ではないわけです。
つまりそれぞれが完全に独立し、どちらもこの世の理にはならないしそれを知りもしないし、知ることもできない。どちらもそれぞれの脳内で勝手に思い込んでいるというだけのもので、真実でもなんでもないということです。つまり真実を奪い合おうにも真実なんてどこにもないのだから、奪い合うこともできないわけです。
つまり奪い合う必要なんかなかったわけですよ。それぞれが単に個として存在しているだけ。奪い合わなくとも、個として既にあるだけ、それだけでよかったのです。
真実の奪い合いをする必要がなくなると、誰かに支配される必要も支配する必要もなくなります。それによって生まれていた他人を恐れたり恨んだり憎んだりする必要もなくなるのです。他人で悩む必要もなくなり、他人と自分の関係性に自身の安心感や幸福感を依存させる必要もなくなりますから、平常的に幸福感と安心感を感じることが出来るようになるということですね。
自分と他人を両方そのままにできる。許せる。
どんな他人でも、どんな考え方でも価値観でも別にそれを支配したり掌握したり同じになろうとする必要はないわけで、つまりその存在を精神的に放置することができるようになります。最も、肉体的な攻撃を加えてくる人に対しては何らかの物理的な対策は必要にはなるでしょうが、精神的な面においては必要はなく、それで不快感を感じたりすることはなくなっていきます。
他人に余計な世話をする必要もなくなります。気をまわしてやる必要も、される必要もなく、先回りにして取り繕うようなことも必要なくなります。すべて放置できるからです。
他人が何を思う事も、自分が何を思う事も許すことが出来るようになります。他人が自分のことをどう思っているかとか、世のなかをどうしたいと思っているだとか、真実がどうだとかいった、様々な人がもつその思っていそうなこと、実際に言うことを、そのままにしておけるのです。
「受け入れる」というのは、それがそのままにあっていいのだと許すことなんですよね。それに染まることでもなく、そのような存在がいること自体を許すんですね。自分も他人もすべて含めて。
そうすれば自分が何を思おうが、何を考えようが、そんな自分に罪の意識を感じることもなくなっていきます。他人に許したことは、自分にも許したことになるんです。
おまけ:承認欲求もいらなくなる
自分を認めてくれる人を探す必要ももうないでしょう。自分を慕ってくれるひともいらない。
みな対等にただの個なら、そんな従属関係は必要ありません。誰かに褒められたところでそれはその人の個人的感想にすぎませんし、自分のそれもしかり、バカにされてもけなされても同じです。
誰も自分から奪うことはできないし、自分も他人から何かを奪うこともできない。誰も誰のことも保証できないのだから、必要なくなるんです。
ずっと自分のことを生涯通して認めてくれる他人なんて見つけるのは相当大変でしょう。それを探してさまよう苦役からも解放されるわけです。そんな人がそもそもいるのかどうかすら怪しい。誰しもが個人的な目的を持っているという現実は変わらない以上、何かは気に入っても何かは気に入らないことは往々にしてあることです。
人が生きてるのは、誰かの価値の中なんかじゃない。みな自分の中にあるもので生きているだけですからね。
おまけ2:自由意思を手に入れられる
そして、他人に決めてもらう必要も他人の言うことに従う必要もまたなくなるわけですから、自分で決めて自分でやる以外、もうやることはなくなるわけです。
そうすると、生きづらさがなくなって結果自分でやってみようと思える何かを見つけられるようになっていきます。
例えば「何事もやる気が出ない」というのは多分自分で何かをするという気力がわかなくなっているからだと思うのですが、それは「誰かや何かに決められようとしている自分」がいるからではないかと思います。
決められようとしているのに誰も決めてくれない、誰かに決められて、自分のやっていることを正当化、保証してもらおうとしているのだけれど、他人が自分を否定するから、あるいは見てくれないからという他人の目の意識が自己否定につながって、やる気が出ない
でもそうやって自分を否定する理由も必要なくなるなら、もうそれにすがる必要も否定される必要もなくなります。
自分一人でただやることを決めてやる。そんな自由意思も得られるんではないかと思います。
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最近ぐるぐる頭で考えていたことと似ていて、あなたと友達だったなら、きっと永遠と話しているだろうななんて思いました。とても面白いです。これからもぜひあなたの脳内をたまに覗かせてくださいね。へへ