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人生は”ブラックボックス”。
ブラックボックスという言葉は、IT分野で使われる用語で、例えば、プログラムの内部構造を知らずとも、入力のパターンと出力パターンだけを作ってテストする「ブラックボックステスト」などの意味を指します。
中身のことは少しも全然わかんないけど、それが何をするのかはわかる、という感じ。
この「中身がわからないという状態」は、プログラムに限った話ではなく他人の頭の中でも同じことが言えると思います。
他人の頭、心がどうなっているかなんてわからないですよね。だって見えないから。感じないからです。
感じられるのは自分の頭の中、自分の心だけです。
そんな他人という存在を仮に理解しようとして人ができる手段は、コミュニケーションという入出力だけです。つまり会話くらいですね。
そして会話では人は他人を理解することはできないのです
会話のやり取りは言葉による情報のやり取りですよね。
でも言葉っていうのはただの記号にすぎないのですよ。その言葉という記号をどう受けるか、解釈するかというのは、それぞれの個人の閉じられた頭の中にしか存在しないからです。
人は自分が頭の中に描いているものや思考、解釈”そのもの”を、外の現実世界に出力する術を持ちません。言葉など、外に出力できる形に変えてでないとできず、変えてしまった時点で既に自分の頭の中にあるものとは別物になっています。
言葉に対する解釈、何かに対する解釈というのは、これまで自分が生きてきた人生の積み重ね方次第のもの。完全に個人の思い込み次第、生きてきた人生の形でその解釈の形は変わります。
例えば幸せとは何か、と不特定多数の人に聞いてバラバラの答えが返ってきますよね。幸せだけじゃない、人生とは何か、仕事とは何か、学びとは何か、友だちとは、恋人とは。魅力的な人の定義とは。美しさの定義とは。
いろんな質問をいろんな人に聞いてみれば、皆バラバラに答えるものです。
だから自分が何かを思って言った言葉が、他人には違った思いで解釈されたりするわけです。というか、基本的にはそうなんですよね。他人の人生と自分の人生は違いますからね。
この記事だってそうです。この記事に書かれた言葉や文章という記号を元に、あなたの脳内にあなただけの解釈が生まれています。それはきっと筆者の私が書いた時に抱いていた解釈とは違うものです。
そしてそれを筆者の私は知ることが出来ません。言葉を交わしてどう感じたかを会話したりメールやコメントでやり取りすることはできても、それも結局は言葉という記号の交換にすぎない。解釈自体は少しも外に出てこず、一切の共有を行うことが出来ません。
あなたの解釈はまさにあなたのこれまでの人生の積み重ねをもとに生み出されているあなただけのもので、あなただけしか知らないし、誰も理解することはできないのです。
ある解釈はある別の解釈で成り立っている。
人が行う物事の解釈についてもう少し具体的な例で考えてみます。
例えば「この言葉をどう受け取るかは人次第だ」という言葉をどう解釈するでしょうか。
①「言葉をどううけとるかは他人によって全然違うだろうから全く分からない、何とも言えない」という解釈かもしれません。
②「自分の受け取り方と同じ受け取り方をするかどうかはその人次第だ」というような解釈かもしれません。
あるいは単に、③誰かがそういっていたことを覚えていてまねしただけかもしれません。
他にもきっといろんな解釈の形があるでしょう。それは他人の数だけ、それぞれの解釈の仕方の数だけあるんじゃないかと思います。さらに、その解釈を成り立たせるまでに至ったその当人の人生経験という解釈の文脈も加味すれば、その解釈のバリエーションは無限大なほどに膨大になるでしょう。
例えば①の解釈に至ったのは、他人に対する理解についていろいろとチャレンジしてみたが、結局できないことがわかった、それは自分が他人の頭の中をのぞくことが出来ていないことに気づいて、全く他人の思考を知らないことに気づいたから、という文脈によってなりたち、②の解釈に至ったのは、自分の受け取り方を他人に強いて、かつ自分の受け取り方を他人もできるはずだと思い込んでいる、つまり、自分と他人の解釈の仕方は同じであるという無意識な前提の解釈をしているがためという文脈によってなりたつ、などです。
解釈というのは積み木のような構造になっていて、その積み木が人生というこれまで生きてきた積み重ねなわけです。
普段無意識に考えている色んなことも、このような別の解釈、つまりこれまでの人生で経験してきた様々な解釈を無意識的に総動員してやっていることなんですよね。
その積み重ねが人によって全く違うわけですから、その解釈の形も何通りにもなるでしょう。
そしてそんな、これまで自分が生きてきたという人生という積み重ねを、人は誰かと共有なんかしていないんです。自分がこれまでに生きてきたすべての記憶を、文脈を誰かと共有なんてしていない。そもそも、共有するという手段すらもっていません。できないのです。
それを共有しようとしたらそれは、その人が生きてきた人生分の時間をつかって記憶を再体験できもしない限りは不可能でしょう。
だから人生はブラックボックスなわけです。誰にも理解できない。できようがない。ゆえに誰にも理解されない。されえない。
つまり人は、自分以外の人間の人格や思考、価値観、気持ち、感情、感覚といったものを全く知らず、感じずに生きているんです。
他人が感じていると思っていること、他人が考えていると思っていること、あらゆる他人の内面をそうだと自分が思っているのはすべて、自分の思い込みであり、自分が作り出した妄想なんです。
人は実際のところ、他人を一切知らずに自分という人生を孤独に積み重ねている生き物なんです。
生きる=自分を積み重ねる
生きるというのは、その生の中で何らかの経験を重ね、何かを積み重ね続けることといえます。
どんなことを感じたか
どんなことを考えたか
どんなことをしたか
どんなことを経験したか。
全部一人でやっていることです。そこには常に自分しかいかせん。自分が感じたこと、自分が考えたこと。そんな経験たちには常に自分の意識、思考、記憶の中にしかないのです。
他人のそれらはそこには登場せず、他人のものも当然存在しません。ひたすら積み重ねているのは自分自身だけです。だから他人の積み重ねなんて知らないし、他人も自分のそんな積み重ねなど知りもしないのです。
他人の人生のように見えるものは、全て自分が他人から聞いた話や他人を見て、それに自分の人生の経験を投影して妄想しただけの産物にすぎず、他人自身のそれらでは決してありません。
故に、ろくでもない人生というものも、マシな人生というものも、幸福な人生というものも、すべては妄想にすぎず、実はそんなのどこにもないわけです。
人生という概念は、他人の数と同じように多様に存在する”ように見えて”実は常に一つしかないのです。
自分の人生だけしか最初から存在していないんですね。
何をどう積み重ねるかで人生は変わる
人は自らの経験と思い込みの積み重ねによってその人生観を作り上げいます。そしてそれは時系列的なもので、過去から今の自分に向かって順番に、積み木のように積み重ねてその形を作るわけです。
例えば「絵を描くことが好きだ」という思いや感覚は、幾度となく絵を描くことをし続けていくことで生まれていくものです。
最初から絵を描くことが好きな人はいません。生まれたての赤ちゃんは何も知らず、当然絵を描くことを知っていませんから。
だから実際に自分で絵を描くことを知り、興味を持ち、経験していくことで好きになっていきます。自分で描きたいと思った何かを描いて、描くものを増やして興味の幅を広げ工夫を凝らしながらひたすら描き続けた結果、絵を描くという経験が積み重なり続け「絵を描くことが好き」という思い、気持ち、感覚が得られるようになります。
またこの特徴から、人は最初の頃の積み重ねによってその後の人生に大きく影響を与える、ということも言えると思います。人の人格は幼少期のころに決まるとどこかで聞いたことがありますが、それもこの特徴を言ってのことではないでしょうか。
例えば、他人との人間関係の構築において、「他人に好かれることがいいことだと」と思った場合と「自分で誰かを好きになることは気持ちがいいことだ」と思った場合とでは、人と付き合う、関係を持つという目で見える情報にはほとんど違いはないかもしれませんが、その当人の頭の中にある世界観、他人に対する認知の形は相当に異なるものになっていきます。
前者はとにかく「他人に好かれる自分にならなければならない」として、他人の目を気にすることを覚え、社会の評価や常識、普通といった、より多くの人が賛同することは何かを考え、それに自分を費やしていきます。後者の場合はひたすらに自分の好きな気持ちだけを追いかけて、自由に自分が好きだと思う何かや人にかかわり、それを楽しむことに時間をつかっていきます。そのようにして作られる当人の世界観は、まるで違ったものになるでしょう。
しかし違えど自分にとって人生は常に一つです。人は常に一つしか選ぶことはできませんし、選択しなかった方の人生を知ることはできないですしね。
ただ、もちろん違う人生の形があるということに気づいて、今から方向転換して新しく積み上げていくことはできます。それが、人の「変わる」という行為だと思います。
「言葉」とは、人生という積み重ねの頂点で出力される記号でしかない
“最高の善とは智慧(ちえ)であり、最高の悪とは體(からだ)の苦痛である”
─レオナルド・ダ・ヴィンチ
つまり人の発する言葉とは、その人は言葉を発するまでに積み重ねてきた「今の自分という人生の頂」から出力されるものといえます。
これまでに経験してきた様々なものたちを合算し、現時点でもっているその答えを、言葉という手段を用いて出力しているわけです。
つまりあらゆる人の言葉とは、「それを発した時点のその人」にとっての答え、”積み木の頂点”でしかなく、その頂点にあるただの点にすぎないわけです。
点の下にある無数に積み上げてきた積木、解釈の積み木は自分の頭の中にあるだけ。それは外の世界には出ていないのですよ。
言葉自体に意味なんてものは実は存在しないわけです。意味はそれぞれの個々の頭の中の解釈そのものであり、個々それぞれにしかそれを理解することも知ることもできません。その言葉を発した人のその言葉を発するまでの人生という膨大な文脈は、そこには表れていない。使っている言葉が、どのようにしてその人の頭の中に解釈が積みあがった結果出力されるに至ったのか、その人の人生の積み重ねの形までは全く現れていないんですよね。
もちろん例えば辞書のように、ある言葉の意味にさらに別の言葉を用いて解説することはできますが、その解説も結局は言葉という記号で成り立っているだけのものです。それを自分がどう読むかということが自分の人生の文脈に完全に依存することは、いつにおいても変わることはありません。
言葉はどこまで行ってもただの記号、自分の人生という文脈を元にコンパイルするコードでしかありません。
有名人や偉人の言葉が偉大に見えるのは、自分の思う”偉大なイメージ”で増幅させてそう見えているだけです。偉大な人、尊大な人という、なんだかすごそうな人を自分がイメージしているだけです。歴史的事実やほかの事実という根拠を用いて、すなわちほかの言葉たちをやはりまた自分が解釈して、その自分の中で想像可能なイメージを増幅させているというだけにすぎず、結局はすべて自分の主観で、自分がそう見ようとしているというだけに過ぎないのです。
人は他人を全く知らず、ほぼ存在すらしていない
言葉が単なる記号で、自分のそれを除いて、その言葉を発するのにどんな人生の積み重ねをしてきたかも人は理解することはない。
「他人の人生」という文脈は人の主観には存在しません。他人の価値観や考えていることといった、他人の内面に関するあらゆる文脈は人個人の感じられるものの中に存在しないんです。
つまり端的にいえば「人生という文脈」は、この世に自分のものしか存在しないのです。
自分という存在からすれば外にあるあらゆる存在はその文脈を持たないただの「記号」、ただの「点」でしかありません。その点を自分が今までの自分の人生という文脈を総動員して解釈することで新たな文脈が自分の中に生まれているだけの話しです。
そういう意味で、他人はただの記号、点でしかないとすらいえます。
あるのは常に、自分の人生という文脈のみ。自分の価値観、考えという、これまでの人生によって形作っているもののみです。相手のことを理解するなんてことは到底かなわないわけです。精々上っ面の頂の部分、ただの点にすぎない記号を元に、これまでの自分の人生という文脈を頼りにしながら想像することくらいが関の山でしょう。
仮に人がもし全く同じ理解をすることができる手段を考えたとしたら、それはこれまでの人生の積み重ねの形が全く同じである他人が存在していなければならず、それは原理的に存在不可能です。
だからもし、「他人に自分のことを理解してほしい」と迫るなら、それはつまり「自分が生まれてからここまでの人生を追体験して、かつお前の人生を全部消してくれないか?」とお願いしているようなものになるわけです。そうしないと全く同じになれませんからね。
相手の中身を殺して自分になってくれないか?とお願いしているようなもの。ある意味では、相手に死ねって言っているようなものに近いですね。相手を根本から否定しているようなものです。とらえ方によってはなかなかにえぐい願い事にも見えます。
「私のことを理解してよ」っというのは到底無理なこと依然に、なかなかに残虐な願いなのかもしれませんね。
点にすぎない他者、自分
つまり他人がやっていることというのは自分から見ればただの点にすぎません。その点を自分がどう見ているかという問題でしかない。
それを悪と見たり善とみたり、好きとみたり嫌いとみたり、そんな自分の思考や感情、感覚の全ては他人からではなくその他人の行為や他人という点を解釈して得ている自分のものでしかありません。
そしてそれは他人から見た自分にも同じことが言えるのです。
ゆえに自分のやっているあらゆることと、自分自身なんていうのは外の存在のそれぞれの主観から見れば同じく「点」にすぎないのです。
客観的な自分とは単なる「点」であり、自分という点を介して他人が様々な解釈、感情、欲求を作り出し、それを感じているだけなのであって、点である自分のこと自体というのは別にどうでもいい、単なるインターフェースにすぎません。
インターフェースでしかない点はほかにいくらでも代替えが利きます。自分の人生という文脈は唯一無二ですが、それを作るきっかけ、元となる様々な点は無数に代替え可能に存在しています。
例えば一生大事な人、つまり「この人だけだという一生大事な人”そのもの”」というものは本当はいません。一生大事な人だというその人の解釈こそが、その人が本当に大事だと感じているものです。だから人はその大事な人というのを複数もつこともできますし、どう大事なのかを自分で決められますし、その対象や在り方を変えることもできてしまう。
ずっと自分だけを見ていてほしい、なんていうのはかなうことではないのです。自分の思う大事な人の定義で思ってもらうことも、自分だけを大事な人だと障害思ってもらうということも
つまり人は、誰かの大事な人になんか、最初から最後までなれはしないわけです。価値ある人にも愛される人にも、本当は少しもなれはしない。
みな他人の頭の中にあるもの、他人の解釈にあるものでしかない、自分ではないものです。
人にとっての財産なんていうのは、他人という点ではなく、自分という文脈がすべてなのです。
長く生きるほどあらゆる他者から遠ざかる
長く生きれば生きるほど、人は他人から違う存在になっていきます。
誰の人生も人は理解してはいないけれど、赤ちゃんだったらほとんどスタート地点は同じ。言葉も何も何一つ知らないという点では大体同じでしょう
しかしそれから時間がたって成長していけば、それぞれの人生という積み木を積み重ねていくことになり、かつて何一つ何の解釈ももっていないという赤子の状態、同じような場所にいたところから互いに遠ざかっていくことになるわけです。
時間を掛けるごとに積み上げる積み木は高く、かつ複雑になっていきます。
積み重ねれば積み重ねるほど、その形はあらゆる他人から違うものになっていくのです。
そんなたった一人しかいない自分。たった一つだけの自分。
それが「自分」なんですよ。
自分という存在は、常に他人から遠ざかり続けるんです。
まるで宇宙の法則と同じように。時間がたつほど、生き続けるほど、その距離はどんどん開いていくんですね。
価値観も考え方もバラバラになる。
生きれば生きるほど、人の心は孤独になっていくようになっているわけです。積み重ね続けるほど、価値観や思想はその個人固有の特徴を帯びていくことになります。
それはつまり、それに従って「自分と合う人」も減っていくってことでもあります。人は基本的に他人の心を知りませんが、それでも「自分の目に合うように”見える”人」というのはいますよね。そういう見えるだけものすらも、減っていくのです。
幼稚園や小学校の頃には簡単に誰とでも仲良くなっても、中学、高校と進んでいくうちにどんどん限定化されていくように、社会に出ればさらに顕著になっていくでしょう。うわべだけの付き合いが増えていきます。仕事以外で付き合う人間はいないか、相当に少ないんじゃないでしょうか。
SNSを見れば、”まるで自分と合わない”と感じる人は様々な形で、いろんなところに存在していることも分かるんじゃないかと思います。もしみんなと会うのならみんなフォローするか、誰もフォローしませんよね。
この世に同じ人間は一人もいない
同じ価値観も同じ考え方も、同じ文化も、同じ評価基準も実はどこにもないんです。同じである、あるいは違うものであるかどうかを比較するための他人のそれを、自分は一切知りも理解もしてないわけですから。
ゆえに普通も常識も、そんなものは実は存在しておらず、実態としてはそう信じている人、思い込んでいる人が存在する、ということだけ。それはどんなに高く見積もっても自分自身の主観にすぎない個人的な価値観を、あたかもほかの人ももっているのだと思い込んでいるというものにすぎません。
だからだれかにとっては普通であることが異常であったり、価値あるものが無価値なものであったり、優秀な人が、誰かにとっては無能な人になったりもします。
故にこの世に「真なる何か」なんてないわけです。誰もが賛同し、誰もがそう思い込み、絶対的な何かによって完全に保障され、証明された不動の価値ある存在なんてのはない。優秀さも愚鈍さも、あらゆる尺度はすべては個人の裁量や感想にすぎず、真に優秀な人や真に愚鈍な人などどこにも存在しません。
あるのは、それぞれの個人の思い込みだけでしょう。個人の景色だけ。個人の願望だけ。
人からみて確かなものなんて他人はもってないんですよね。みなその他人の主観の世界、個人的な感想にすぎませんから。
人にとっての唯一の確かなものとは、今もはっきりと感じている唯一無二である自分自身だけなんです。
この世は自分の世界そのもの。
そのような事実たちから、自分の見ている世界、自分という主観の世界は、自分という存在からみればそれが唯一なわけです。其れしか最初から感じていないし、知りもしません。
つまり、世界=自分といってもいいでしょう。そこに他人の都合も思惑も存在せず、他人の世界や都合なんてものも当然存在していません、
全部自分です。他人の内面だと思っていたものも、すべては自分の心の生き写しにすぎない。何かに見出したあらゆる人格は、ある自分の内面を増幅して投影しただけの自分の複写物にすぎないのです。
ただひたすらに、人間の世界はその個人の世界だけなんです。
だから人生はブラックボックス。
何処まで行っても自分の世界でしかありません。
「自分という主観の壁」を、決して人は超えることはできないのです。
だから自分を素直に目いっぱい好きになりましょう!
他人のことを理解することはできない。それはさみしいことのように感じる方もいるかもしれませんが、そもそも元々最初から理解していなかったわけです。
そんな状態でも生きてくることが出来たわけですし、必要ですらなかったわけです。であれば、それが必要なものであると思い込んでいただけの話しで、ただの縛りでしかない。他人という縛りを持たなくてもいいわけで、他人がいなくても自由に自分のことを認めることもできるということです。
色んな他人が言っていた普通や常識なんてものも実はなかったのですよ。普通こうするものでしょ、こうすることが人として当たり前のことです、そんな風に誰かから何かを押し付けられ、自分の気持ちを押しつぶしてしまったことはないでしょうか?
もしあったら、そんなことをする必要はなかったわけなんですね。なぜかというと、他人を誰も理解していないのなら、全員にとっての正解なんて知りもしないわけですから、それを知らずに常識や普通があると勝手に思い込んでいっていただけに過ぎないからです。
ただのその人の個人的な思い込みにすぎなかったということになるわけです。
だから他人の言う誰かにならなくても、あなたはあなた、自分は自分でいてよかったのですよ。
だからそんな今のただの自分を、素直に好きになっていいのですよ。それを恥ずかしいことだとか思う必要もないんです。
だって常に自分しかいないわけですから。常に自分の心しか自分は知りもしません。
自分のことしか知らない、他人の言い分なんか知らない、社会の言い分なんてあるんだかないんだかよくわからないもののことなんて知らない。
それでいいんですよ。何も知らない自分でいいんです。誰かのいう普通の人間、常識的な人間、優秀な人間、「社会人として~」とかなんとかいったいろんな自分ではない何か。
そういうものでなくていいんです。そのままの自分、今ある自分を素直に、好きになっていいのですよ。
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