哲学:他人を理解できないのは当たり前! – 人の限界 –




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2021年06月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
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五感という世界の限界

人は世界をどうやって感じているんだろう?

それは五感という感覚機能によってだ。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚

そしてそれ以外に、世界を感じる機能を人は持ち合わせていない。

そしてこの五感で得られた情報を用いて何かを考えるのが人間の思考という機能だ。

人は五感があるからこそ世界があると認識することができ、それをもと人考えたり行動することができる生物。

人にとって五感とはインプットのすべて

だから仮にこれをすべて完全に遮断されてしまえば、人は自分が存在していることすら認識できない。

“世界というインプットそのもの”をすべて失ってしまい、今までの記憶と経験という既知の何かを使って考えることくらいしかできなくなる。

つまり人間がもし五感をもたずに生まれてきたとしたら、

その人は何一つ感じることも考えることも行動することもできない、自分が存在しているかどうかすら自覚することもできないということになる。

それほどに人はこの五感に頼っている存在で、これがすべてといっても過言じゃない。

五感で感じられるものとは

では、その五感で感じている”世界”とは、そもそも一体なんだろうか。

それは、物質である。

光も音も物も匂いも味も、全て物質をもとに感じるものである。

それが人の感じている世界のすべて。物質として存在しているものが人にとっての全て。唯一のインプットである

「他人の理解」とは

何かを理解するというのは、一体それが何なのか考え、知ることによってできること。

では他人の理解とは、一体何の理解を指すのだろう?

よく言われているのは「他人が考えていること」とか「他人の気持ち」といった、他人の内面のこと、脳内にある思考のことを理解することを指しているんじゃないかと思う。

それを言葉を使ってどうにか理解しようとする行為を、他人を理解しようとすること、としている。あるいは、相手の身振り手振りや行動から「こう考えているんじゃないか」「こういう性格の人なんだろう」と推測したり。

でもこの時、相手の心というのは実は全く感知することはできていない。他人の無ぶり手振り、という目に見えるもの、他人が話す耳で聞こえること。

自身の五感から感じられる他人という情報をもとに、他人の頭の中や心を想像して理解しようとしているだけだ。

他人の心という”虚像”

人の心が物質的に存在しているとして、それが脳内の電気信号のことであり、意識そのものがそれだと仮定する。

しかしそれでもやはり自身の5感では知覚できない。

他人は物質としては間違いなく存在している。

その「物質の他人」を五感で感じ取れるものがあること自体は間違いない。

でもその他人の意識、心までは知覚してない。それを知覚できる感覚器官を人はもってない。

仮にそんな他人の心を感知できるものが自分にあるとしたら、それはどういうものだろうか。他人の心も電気信号であり、その形で物質として存在していると仮定したとして、その電気信号を感じ取れるのだとしたらそれはなんだろう。どんな感じのものだろう。そういうものを自分はもっているだろうか?

肌でビリビリと伝わってくる感じなのだろうか。仮にそうつたわってくるものだとして、それで相手の思考が”わかる”のだろうか

では肌ではなく、仮にその電気信号を自分の脳で直接”読み取る”ことができるような機能が自分にあるとして、それは一体どのような感覚なのだろうか。

例えば脳にその電気信号が伝ってきてわかる、というような感じだろうか。

まるで相手の意識が自分の頭に乗り移り、他人が見ているものや感じている何かという他人が感じている世界の感じられるようなもなのだろうか。

そしてそんなものを、自分自身はもっているのか?それで他人のことを理解できているから、他人のことがわかると感じる、ということなんだろうか。

いや?そんなものあるとは思えない。そんなもの少しも感じない。

目の前にあるのはひたすらに自分の意識、自分の五感、自分の感じている世界だけだ。

他人のそれなんか少しも感じてなどいないのだ。

人は他人の心を感知できる感覚器官をもってない

人はその持って生まれた身体機能的に、他人の心を感じ取るものなどもっていない。

つまり人は他人の意識も思考も感覚も感情も理解するどころか感じ取ることすらできておらず、

外界を感じ取る手段が五感しかない以上、どんなに理解できるように“見えても”、ただ自分にとってそう見えている、そう見ようとしているだけにすぎない。

他人を理解できる、というのはただの思いこみにすぎない。理解したいと思っても、それは叶うことのないものだ。

人は他人を全く感じていないし知りもしない。

それも永遠に。人は生まれたときから死ぬまで他人のそれについて、ほとんど何一つ知らないまま生きていくことになる。

他人を理解するという行為の実態

「他人を理解する」というのは、実際には他人の心や考えについて行っているものではない。全てただの思いこみだ。

ただの自分の妄想でしかない。

しかしではなぜそう思い込めたのだろうか?

何度も言うように、人は知らないものについては思考すらすることができない。

しかし、思い込めたということは、思考できたという個とは、何かについては知覚できていて、つまり”何か”インプットがあってそれを他人の思考だと思い込めていたからこそなんだ。

その”何か”とはなんだったのか。

これまでわかっていると思いこんでいた他人のこと、その正体。

それは、他人を使って自分の心を他人に投影して、さも他人がこう考えいてるに違いないと「想像すること」だった。

つまり自分自身だったのである。

他人と自分を同じ存在であるかのように見ていただけ。

他人になったつもりの自分」をロールプレイをしていた。それが他人を理解するという行為の実態。

人から見た他人とは自分の心を映し出す”鏡”なのであり、

他人を理解するというのは、他人という鏡に写った自分の心を理解するということだったのだ。

だから例えば他人のことを理解してあげなきゃいけない、わかってあげなきゃいけない、ということは全くない。そもそもできないわけだし。

その人の理解は、その人自身がやることだ。自分の理解は自分だけしか最初からできないのだから、それを他人に求めたところで実ることはないんだから

そんな他人の課題の世話をしようとした炉ころで余計なお世話にすぎず、過干渉ですらもある。

そんなに人間は他人の力がないと生きていけないというような弱い存在じゃない。

自分のことは自分でできる。それが自分の心の問題ならなおさらのことなんだ。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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