私にとって他人がいる、というのは自分を支配する他人がいる、という認知でした
この「他人がいる」という認知、ごく一般的に考えればごく普通なことですよね。実際、目の前に人がいたらそう思うのはごく自然的で、もっともらしいと感じる認知だと思います。
でも私がやっていた「他人がいる」という認知には、常にその影、背後といえばいいのでしょうか、子供の頃に自分をいじめてきたクラスメイトや、怒鳴り散らす母親、暴力を振るってきた父親のそれが常にちらついていました。
明確にイメージとしてちらつくというよりは、怒られたりいじめられたりしたときに自分が感じていた恐怖という感情や体感的感覚がその上にかぶさってくるというか。他人を見ると体がこわばってしまうんですよ。
「他人」っていうざっくりとした人をとらえるときのベースって幼少期の頃にかかわってきた人間によって決まってくるんだと思っているのですけど、私の場合はその体験がべースになっていて、「他人=恐ろしい何か」だったんですよね。赤の他人であったとしてもこちらに向かって誰かが歩いてくると、それだけで身構えてしまう自分がいて、何かしてくるんじゃないか、ばかにしてるんじゃないか。笑ってるんじゃないか、とびくびくしていました。そんな統合失調症のような被害妄想が意識の根底にあって外を歩くのがいつも怖かったです。
それだけ自分にとっての他人は脅威的で、自分を許さない存在で、こちらをただ一方的にサンドバッグにしようとしてくるかのような恐ろしい存在でしかなかったのです。
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他人なんていないほうがいい…でも
では他人がいることが問題だからと、例えば他人を物理的に消すなんてことはできないですよね。もちろん〇すことはもってのほか、よしんばその行為に及んだとしても刑務所に入ることになって他人と共同生活を強制されてしまいますし、人なんて星の数ほどいるのですから物量的にもどうにかなんて到底できない。というかそれ以前に、そんなことしたいとも思いません。
じゃぁどうしようもないから引きこもるかというとそれも嫌。それでは生活していけないですし、生活保護をもらうとしてもいつまでそれがもらえるかはわからないし保障もない。何より、仮にそれをきっかけに一生外に出れなくなってしまうのではないか、というのが恐ろしく、世の中に取り残されていくかのような焦燥感にかられて余計につらい。
では隠居でもするか?というとそんなノウハウも当然ない。都会暮らしになれて田舎の自給自足生活なんてどうやってやればいいのかさらに未知数です。
当然自〇もありえない。そんなことは自分には到底できない。痛いのも嫌。恐ろしいのはとにかく嫌。
結局どれも選択肢にならないんですよね。
ではどうする?
じゃぁどうすればいいのか。
現実の世界が自分の力ではどうしようもなく変えることはできない、ほかの環境に適合しようつするにもハードルが高すぎる、かといって外に出ないのも大きなリスク。
となると、やっぱり最後は自分を変えるしか残ってませんでした。
かといってどう変えればいいのか。他人に対するとらえ方を変えれば楽になれるか?なかなかそのやり方はわかりませんでした。
他人のことが怖いのなら、他人を恐れることをやめればいいのか。しかしどうやって?怖いと思っているものを怖くないと思う事なんてできるのか。他人のことを怖がらずに他人と関わるなんて一体どうやったらそんなことができるのか。
恐れる代わりに好きになったり信用したりするようにすればいいのか。自分にうそをついてでも無理やり自分にそういいかしていけばいつかはそうなるのか。
どれも私にとってはとんでもなく難しいことでした。どんなに他人のいいところや明るい部分を見ようとしたり、好きになろうとしても他人がいると認知してしまう時点で恐怖と苦痛が襲ってきて、体が硬直して痛くなり苦しくなってしまう症状は出てしまいました。
そもそも他人を恐れている時点で好きになるどころか興味を持つことすら難しい、いえ、他人に対して興味を持っている状態そのものが恐怖を根幹としたものであったので、いくら表面上でそれをとりつくろうとしても自分は騙せなかったのですね。
前向きに他人のことをとらえよう、という試みは、他人への恐怖という感情にズブズブであった私にとってはあまりにも無謀でした。
より抜本的な部分から変えるしかない。
表面的な部分を変えることでは解決が難しかったので、もっと根本的な部分からそれを変えられないかと考えました。それが、そもそも他人がいると思うこと自体をやめることだったのです。
とんでもなくおかしなことを言っているようにしか聞こえないかもしれないですが、実際思いついた当時の私も「こんなのさすがにおかしい」と思ったくらいです。
しかしこれでうまくいったんですね。そもそもこれはちょっと考えれば別に大したことはないというか心配することもないというか、大して変わらなかったんです。
いや、変わらないのなら何の意味が?と思うかもしれませんが「変わらなかった」というのは一体何が変わらなかったとかというと私が他人がいると思おうが何も思わなかろうが現実の世界は少しも変わらなかったということです。
私が何を考えようと、モノをどうとらえようと、自分の脳で思考したことが現実化するわけじゃない。私の思考や妄想に対して現実世界は相変わらずそのままの姿を保って何の問題もなく流れていました。
ようするに、人間が世界をどうとらえて認識しようとしようが、現実の世界には何も影響がないのだからなんでもよかったのです。
しかしそのものの見方を変えるという行為は現実には無力であっても、ある別のものを大きく変えることができたのです。それは人間の精神。心の在り方。ここにとても重要な影響を与えていて、これ一つで恐怖を感じたり安心を感じたりするほどに180かわってしまうようなものでした。外の世界の現実は変わらなくても、内側にある自分の意識の世界は大きく変わるんですね。他人がいると思うことをやめることが恐ろしいと思い込んでいたものを認知することをやめることとイコールになり、結果生きやすくなっていったのでした。
時間はかかるけど少しづつ楽になっていった
この認知を変える訓練には時間を要しました。人とすれ違う時、人と話している時、一人で自分が部屋にいるときも、「他人がいる」というような意識、感覚、妄想を自分が下時にそれに気づいてそれをやめる、という訓練を繰り返し行う必要がありました。
他人がいると認知することをやめるということ自体にも練度があり、繰り返し試しながら研ぎ澄ましていく必要もありました。より細部の無意識を観察し、捨てていくという事を繰り返していきました。
またこの「他人がいる」という感覚、恐怖は明示的に「いる」と思考しているものではないのでなかなか気づきにくかったというものもあり、何か不快感を感じたら現実の世界で他人と接しているかどうかにかかわらず、まず真っ先に他人がいると意識、体感、身構えようとしている自分がいるかどうかを探るアナログ感のある分析をする必要もありました。
加えて、他人がいる、という認知はなにも100%恐怖の感覚だけであったわけではなくて、その恐怖の認知をどうにかできると思っていた「承認欲求」も入っていたので、自分を好きになってくれる他人がいるところに行けば気持ちよくなれる、安心できるという思い込みも同時に存在しているところが厄介なところでした。動画サイトやSNSなど、自分にとって都合のよさそうな人が”いる”、認めてくれる人が”いる”、という認知も突き詰めればすべて他者恐怖を根幹としたものからきているものであったため、これを捨てる必要もありました。
この一見極端なものの見方の変更は最終的に、何か苦しくなったとき「あぁ、今自分は他人がいると認知しているから苦しくなってるんだな」と俯瞰的な視点を持つ習慣をもつことにつながっていって、そこから落ち着いて呼吸を整え、体の緊張をほぐすという事を少しづつできるようになっていき、最終的には他人がいるとかいないとか意識すること自体特に何も意識しなくてもよくなりました。
また他人がいない空間で動画を見たり漫画を読んだり、SNSを見ている時、なんならただその場で自分の足で立っている瞬間ですらもそれはあって、それだけ他人の目をあらゆる瞬間に無意識に張り巡らせている自分がいるという事にも気づきました
何から何まで自分で生きてこなかったんですね。常に妄想上のだれかの目に追いやられて、監視されて、その監視の意向にそうようにやらされてた、
自分に気に入られることをやらせようとしている自分がいたんですね。だからそれをやめて他人の目なしで自分で立つところからがその始まりでした。まさに日々がリハビリのようで、まるで赤ちゃんになったかのような気すらしました。
もう怖い人はいなくなった
それを通じて、なんというか自然的になったというか他人という存在がとるに足らない存在になっていったのです。他人がいるいないという事を考えること自体が必要なくなっていたのです。
人と話したりやり取りすること自体も問題なくできてますし、単純な事務処理的なゲームをやっているかのような感覚で気楽にできるようになりました。
またかつてはSNSをはじめとした中毒症状といってもいいくらい、常にかじりついて仕事や絵描きなどのほか事がおろそかになるということも頻発していたのですが、それが全くなくなりました。目の前のことに集中することができるようになりましたし、今までいかに他人で自分の人生を無駄にしていたかもよくわかりました。
人と一緒に同じ空間にいることも苦痛ではなくなり、通勤すれ違う人々や電車などで載っている人々、会社などで一緒に誰かと仕事をするような環境であっても気にならなくなっていきました。かつてはそんな自分の敏感なところをHSPだと思い込んでいたのですが、そこには明確な理由、ロジックが存在し、それは自分の認知の容態そのものであったということが分かったのでした。
またこの考え方に変わってから、他人でいちいちイライラしてストレスをためることもなくなりました。他人に対する怒りの感情も元をたどると、他人がいるという無意識が前提でやはり恐怖感情からきていたのでした。恐ろしいから怒りによって他人を排除したいという欲求がわいていたようです。
他人という脅威が自分の近くにいるという恐怖が常に自分に不安を与えていたようで、それをやめることでストレスの根幹の認知も消滅したようです。恐ろしい他人を想像したり意識することもなくなり「他人はいない」はすなわち「怖い人はいない」という事だったんだなと振り返れば思います。怖い人がいると思うから他人の目も怖かった。承認欲求もそれをいやすために求めていただけでした。
またちらっと前述していますが、そんな怖い他人から逃れるために承認欲求があり、他人に気に入られようとして気にしていた、という別の無意識もあったのですが、こちらは「自分のことは全部自分で」を無意識的部分からリハビリ、トレーニングしていくことで取り込んでいき、解決していきました。ようやく自分の足で自分で立って外を歩く、という当たり前のようなことができるようになると、他人の目も全く意識に出てこなくなりましたね。それだけ他人の目に自信の肉体のそれすら依存させていたということでした。
人間関係の悩みの根幹はやはり他人に対する恐怖の認知なのかもしれませんね。後は絶望的な自分に対する自信のなさ、他人への依存心。何れにせよ根幹には恐怖があると思いますが、それゆえに向き合うのは自身の恐怖になるので、自分を変えるのは大変なのでしょう。
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