私は常に、自分でも気づかないうちに自分の頭の中に他人の幻影を”作り出して”、その他人に責められたり、バカにされそうになったらそちらにはいかないように、その評価をうかがって生きていました。
私にとって「他人がいる」というのは当たり前のことで、それは誰かとあっているときはもちろん、誰かと会っていないときすらも変わらなかったのです。
あっていないときは頭の中に仮想の他人を作り出してそれを補っていました
そンなことをする必要があった理由は、常に誰かに認められていないとダメだという無意識があったからだったんですね。そうしないと落ち着かなったのです。
そうやって私は常に妄想上の他人の動向に左右される人生を送っていたわけです。
他人がいるのが普通だと思っていたけど、違った
今にしてみればとてつもなく奇妙な、それこそ統合失調症みたいな話ですね。というか実際にそうだったのかもしれない。
でも当時の私にはこの癖がとても自然なことだったんですよ
「こんなことしたらバカにされるぞ」
「だせぇなやめちまえよ」
「気持ち悪いな。お前なんて生きる価値ないよ」
そんな風に頭の中でささやく他人に耳を傾けて、必死でそれに嫌われるのを避けるかのように、自分や自分のやっていることを監視し続けてきたように思う。あるいは
自分を見ている女性をみてその女性の頭の中の考えていることを勝手に想像し表情を見ながら「変な人だ」とか「かっこいい、イケメンじゃない?」とか勝手に妄想してたりもしました。
いやいや最高に気持ち悪いですね。こうして書いてみてもサブいぼ出てきますよ。私はとてつもなく気持ち悪いナルシストだったわけです。
そうしないと落ち着かなかったんですよね。誰にも嫌われない、正しいことをしているという感覚が欲しくて、誰かに好かれて認められたかったからそうしていたと思います。
それなしで一人で何かをしようとすると落ち着かないんですよ。とてもいてもたってもいられなくなってしまっていた。それを求めないと人生に意味がないなんて考えてすらいました。
そんな頭の中の他人を手放すなんて考えもしなかったわけです。常に他人に認められていないと落ち着かない。そんな承認欲求お化けになってしまうくらいに。
そんな自分だったのだけれど、私はうつ病になったことがきっかけで、他人という存在に対する思い込み、他人から褒められてもほとんど意味がないこと、むなしいだけだということに気づいていくことになりました。
そしてその頭の中に他人を作り出しているそのくせが異常であるということに、ようやく客観的に気づくことができたわけです。
「他人がいる」は思い込みだと気づいた。
現実の他人はそんな「必死に他人の目にアンテナを張っている自分」の思いに対して、実にずっとそっけないものでした。ずっと関心がないということに気づいたんですね。というか私はその他人の関心そのものすらまったくキャッチできてなかったんですよね。
自分がどれだけ相手のことを気にして、必死で他人の考えていることを探ろうと必死想像していても、それはあくまでただの自分の妄想、想像にすぎない。相手の頭の中のことなんかじゃないんです。
すべては私の勝手な妄想にすぎなかった。他人を目で見て態度や言動で判断して勝手に思い込んでいただけ。
他人を使って勝手に不安になったり舞い上がったりしていただけだったんですよね。
そしてそれに気づいたとき思ったのです。ひょっとしたらこの「他人がいる」という認知すら、現実のものではないんじゃないかって。
それで上記の記事のようなことを考えてその結果、最終的には他人は自分が思っていたよりもずっと存在してなかった、という結論にいたったんですね。
私にとっての「他人がいる」っていう認知は、単に他人がとなりにいるとかそういう単的な意味ではなく、「自分のことをこう思っている他人がいる」というものだったんですよ。
でもその「こう思っている他人」は自分の妄想だったのです。自分の勝手な決めつけだったのです。
それを知ったら他人という存在が、その辺の石ころとほぼ変わらないような感覚で見ることができるようになったわけです。
他人を自分の心の中に飼っていたから、他人の目がきになっていただけ。
全ては自分が、自分の頭の中に自分を許さない、いつも監視しているかのような他人を作り出していたからでした。目の前に他人がいれば、その他人を媒体にして、いなければ自分の頭の中に作り出して、その他人に自分を否定させたり、褒めさせたり、都合のいいようなことを想像させたりして、それで苦しんだり、せかされたり、舞い上がったりしていただけだったんです。
現実の他人にバカにされたりする時は、他人そのものではなくて、自分の頭の中に作り出した自分の思うその他人に無意識的に置き換えていて、それに言われたかのように変換してとらえていただけ。
他人の悪意だとかそういった感情に敏感だと自分は思い込んでいたんですけど、それすらも自分の思い込み。
他人の悪意なんて知らないんですよ。自分の悪意だったんです。全部自分が勝手にその悪意を他人を元に作り出していただけだったんですから。
そうやって他人を使って自作自演で自分を追い詰めていたから苦しかっただけなんですよ。
つまりもう、苦しみたくないのならそんな他人なんて頭の中に作り出さなきゃいいだけの話。他人がいるなんて、もう考えなきゃいいだけの話しだったんです。
孤独を拒絶していたから自己否定していた。
そもそも何でこんなことをしていたのかと言ったら、心の孤独を埋めようとしていたからなんですよね。なんというか、これをしないと心に穴でも開いたような感覚、虚無感があって、それで全然落ち着けなくなってしまうんです。そわそわして、すぐにそれを「補充」したくなって自分と同じ考えを持っている人をSNSで探しまわったりしてましたね。
でもその孤独は拒絶しなくても、埋めなくてもよかったわけです。実はそれは自分自身だったんですよ。
だから、心の孤独、つまり自分自身そのものを拒絶せず、受け入れればよかっただけなんです。それで楽になって、心地よく毎日を過ごしていられるようになったわけです。
承認欲求は、そんな孤独を恐れる心。独りを怖いと思っている心、他人を孤独を埋めるために求めなければならないと思い込んでいる心。
それを捨ててしまえば、もう必要のないものになってしまうわけですね。
本当に、本当に、全く同じです。
目からウロコです。
いつも、「他人が私を見ている」と思い、ただ外を歩くだけでも怖くて、不自然なまでに人の方を見ないようにして。
親に相談しても、「それは、自分が他人を批判的な目で見てるからだよ。だから、自分もそう見られてるように感じるんだよ。」と言われます。ですが、私はそんな自覚は、全くありません。本当に、少なくとも意識のうちでは、全く無いんです。
常に、「こう思われたい自分」を作り上げていました。実際に自分がそうなること(自身の主観的な充実感や感覚)なんか実は全く問題じゃなくて、「周りから見た自分」だけが唯一の目的で。
そんな妄想の回路はもう脳に染み付いてしまっていて、息をするように「賞賛を受ける」「かっこよく活躍する 」「特別な」理想の私が、ご都合主義のお粗末なシナリオで、「みんな」からの注目を一身に浴びるのです。
あまりに自然に妄想が展開されます。普通のこと、当たり前のことかと思っていたが、やはり違った。
とにかく、重大な気付きを得ました。本当にありがとうございます。
> いつも、「他人が私を見ている」と思い、ただ外を歩くだけでも怖くて、不自然なまでに人の方を見ないようにして。
おお、、私もまさにそんな感じでした。見られている自分を常に作っておくような感じというか。でも目の端では必死に気にしてましたね。ある日ふと街中で窓に映りこんだ自分を見ると、なんとも自信がなさそうな姿勢と表情でいる自分がいて、理想の自分像とは全然違うそれが絶妙に気持ち悪かったりもしました。
「誰にもみられていない自分」っていうのがすごく不自然というか、ありえないというか…ただ一人でいることができなくて、誰にも見られていない、つまり必要とされていない自分がただひたすらに恐ろしい。想像しないようにしても自動的に想像が勝手に始まってしまうような感覚で抗えなかったです。
本当おっしゃる通りで自分にとってはそれが普通という感覚なんですよね。だから気づけなかったし、生きづらかった。
でもこれ捨てられるので、当たり前でもなんでもないので、もし捨てたいと思ったら捨てられます。
大変かもしれませんがきっと大丈夫。お幸せに!
他人は石ころのようだと書かれていますが、石ころは普通、殴ったり叩いたり攻撃したりしません。他人は当方を攻撃したりするので、警戒が必要だと思ってしまいます。その点についてはいかがでしょうか。
私なら物理的な場合、なるべく場を避けるように動くと思います。必要があれば応戦することもありますが、時間がもったいないので最終的にはその場から離れます。
精神的な場合は無視です。ほかにたくさんやることありますし。
相手の出方を気にしたり、警戒して意識したり、「ただ相手をまつ」をやると、ただ恐怖だけが蓄積していって、つらいだけなんじゃないかと思います。
それも自分の思い込みなので、それを捨てちゃえば楽になれますよ。
どうすれば正解か、ではなく自分はどうしたいのかが大事だと思います。自分の気持ち、欲求が大事です。