絵を描き始めて5年くらいたったころです
はっきり言って絵を描くことが苦痛でした。
嫌悪感すら感じてたくらいです。
描き始めても1時間くらい持てばいい方で、すぐ動画とかネットサーフィンに逃げて気が付いたら寝る時間。「今日もなんもできんかったな…」とけだるい無気力感にさいなまれて眠りにつく。
そんな悶々とした自己嫌悪の日々の中で、ふと思いました。
「そもそもなんでこんなにおもしろくないんだろう?」と。
描いている題材がよくないのか?でもほかに描きたいと思えるものなんてなない。基礎練習が足りない?線をまっすぐ引く練習とかすれば楽しくなるのか?と試してみてもやっぱりつまらない。
というか描きたいものがなんなのかわからない。何を描きたいのかがわからないから描きたいという欲求すら持てない。
袋小路。手詰まり。
…
「いやまてよ。いつなんだ?」
かつてあった絵を描くモチベーションはなんだっただろう?思えば5年間の中で今よりもずっと集中して描くことができていた時期はありました。そこを思い出せば何かわかるんじゃないかと自分の過去を振り返ってみました。
元々は3Dモデリングの勉強として始めた
ならばまずは原点回帰が基本ではないか、と「そもそもなんで絵を描き始めたんだっけ?」を考えました。すると「そういえばモデリングやろうとしたのがきっかけだった」ということを思い出しました。
じゃぁなんでモデリングに興味をもったのかというと、Skyrimというゲームで人の顔を作るのがたのしかったからだったことを思い出しました。やっとでてきましたね。「楽しかったこと」が。
ゲーム内でいろんな顔を作っているうち、もっと本格的にリアルな顔を自分で作ってみたい!と思って始めようと思ったのがきっかけです。で、モデリングソフトを購入していざ作ろうとしてみると、何をどうしたら顔を作れるのかが全くわからず何もできなかったんですね。

で、モデリングについて調べてみると、そもそもモデリングをするにはその対象の形や素材の質感、構造などについても熟知していなければならず、それを学ぶのによい学習方法がデッサンだという事をネットで見たのが絵を始めようと思ったきっかけでした。絵を描くこと自体興味がなく何とも思っていなかったのですが、やってみると意外に面白くて気が付けばモデリングをやらずに絵しか描いていない日々を送るようになりました。
そう、絵を描くことを楽しんでたんですよ。最初のころは。
そしてそれが、5年の時を経ていつのまにかつまらないものになってしまい、絵を描けなくなってしまったのですね。
絵を描く目的の変化
となると次は「いつ」なのか。いつからつまらなくなったのか。
どのようにして絵を描くことがつまらなくなっていったかを突き止めるために、さらに記憶をたどっていきました。
最初に描いた絵はとんでもなくへたくそでした。確か人の横顔を描こうとしてカワハギの横顔みたいになってしまい全然人の顔にならなかったんですよね。線もミミズがのたうち回った後のような子供の落書きかそれ以上にひどいものが仕上がっていました。
そんな絵描き処女をささげた初体験はミミズがのたうちまわったカワハギでおわったのですがそれが新鮮な経験だったというか「自分がこれを描いたんだ」ということ自体が感動的だったというか、絵を描くってこういう感じなんだ、思っているよりも全然かけないんだなぁ、という事がわかったことが感動だったんですよね。
だからこそやりがいがあったというか、より良くしていける余地がたくさんあってまるでやることがたくさんあるオープンワールドのゲームをやっている気分というか。レベル1で広大な世界に一人放り出されたみたいな感じでしたね。やることたくさんあるぞ~って。そんな感じで主にデッサン、模写をするようになりました。
絵を描き始めた初期のころはそんないろんな攻略の対象をつぶしていくような感覚で楽しんでいたと思います。そしてそのすべて、あるいはほとんど攻略できれば絵がうまくなれるのだ、それで3Dモデルもできるようになるんだと思っていたのです。
うまくなっていく = 攻略箇所がなくなっていく
上達の進捗は主観的には順調で、日に日に課題をクリアして上達していく達成感を感じていたと思います。線がきれいに弾けるようになってきた、顔らしくかけるようになってきた、よし今度は色も塗ってみるぞ、グラデーションもわかってきたなと、ステップアップしてく日々が楽しかったですね。しかしそんな風に少しづつ思い通りに描けるようになっていくにしたがってより良くできると思えるところが見当たらなくなってきました。
つまり、攻略箇所がなくなり遊べるところがなくなってきたのです。この辺りからモチベーションが枯渇し始めていました。これ以上どこを改善すればいいのかがわからずこれ以上うまくなる余地がない、やることがないと感じたからだったんですね。

このころになると、絵を描き始めた当初の3Dモデリング云々は消し飛んでいて「うまい絵をかいてほめられたい」に目的に代わっていました。
始めたころに比べれば格段にうまくなったと感じていましたし、これだけうまくリアルにかけたんだから褒められるだろう!ちやほやされたいな!と承認欲求に飢え始めていました。
なんで急にこうなったのかというと、もともと承認欲求おばけだったことが根底ではありますが、ゴールしたかったからだと思うんですね。モチベーションもなくなりつつあり描いていて苦しいと感じる時間の方が増えていったので。だからこれを人に見せれば褒められればもう絵を描かなくていいんだ!もう終われるんだ!という、そんな気持ちになっていたと思います。
大して褒められなかったこと
で、自信満々で鼻息を荒くしながらSNSで絵を投稿してみたのですが、ほとんど反応がありません。いいね10個くらいだったでしょうかね。
ひたすら無力感に打ちひしがれていました。100くらいはつくと思ってましたからね。会心作だと思っていたのに現実を見せられたというか、自分の才能のなさ、センスのなさを証明してしまったような気がして、すごく苦しかったですね。しかししばらくすると気力も戻り、「きっとまだ努力が足りないんだ」と思うようになってまた絵を描き始めました。
実際に努力不足という点においてはその通りで、まだまだ改善の余地などたくさんあったのです。上記の絵で最高だと思っていたのがとんでもない思い上がりであったという事をほかの絵描きの絵を見て回ることで思い知ることになりました。
当時Gwentというデジタルカードゲームを知って遊んでたんですが、そのカードの絵のイラストレーターの一人であるAnna Podedworna氏の絵を見て驚愕しました。「これ絵なのかよ…」って。3Dモデルのキャプチャかと思ってましたからね。こんなのを見せられたら井の中の蛙どころじゃない。ミドリムシ風情がどぶの淀みでイキってただけだったということを思い上がりを知るに十分でしたね。
そんな逆境?をバネにしばらく描き続けてはみたものの、なんだかうまくなっている気が全然しないな、と相変わらず手ごたえ感はないまま悶々とする日々は変わらず。しかしふと数か月前の絵を見ると確かに今までのように目に見えて改善できてきたなと思えることなくてもまぁちょっとはうまくはなってきているかな?と思えるくらいにはなっていました。

絵の上達はある程度のレベルまで行くと緩やかになっていくということも聞いていたので、「あぁこういうことなのかな」と思うようにもなり、ちょっと安心しました。そんな微細な上達ではあったもののまだ伸びしろはあると感じ絵を描き続けられるようになりました。さらに練習を続けて一定の自信と実感を得た私は「よっしゃこれでいける!今度こそはいいね100くらいとかいくやろ!」とまたも鼻息を荒くしてSNSに投稿しました。
しかしいいねは10程度で変わらず…
ショックでしたね。全然評価されないじゃん、変わらないじゃんって。努力すりゃ報われるって嘘かよって。
ただショックだったのはそれだけではありませんでした。
5年かけたのに全くオリジナル絵が全然かけなかったことです。
いくら模写が多少できるようになったところで、オリジナル絵を描けないのなら意味がない。いつしか私の中で「うまい絵」の定義はうまい模写ではなく「オリジナルのうまい絵」にさらに形をかえていました。おそらくいろんな絵描きさんの絵を見るようになって少しづつそう思うようになったんだと思います。自分もあんなふうに美しい絵を模写ではなく自分のイメージで描けたらどんなに気持ちがいいかと。ちょくちょく模写の合間をはさんでオリジナル絵も描いてはいたのですが、構図の段階でつまずいてしまうことがほとんどでしたし、無理やり描いてみても完成度の低さにがっかりするばかりだったんです。
お手本をそのまま描くデッサンや模写と違い、いざ自分で描こうとすると何をどう描いたらいいかわからない。
どう描きたいのかがわからない。何を描きたいのかがわからない。
パースなどの技術的な問題に疎かったことも要因でしたが、何より発想として具体的なうまいオリジナル絵のイメージが全然でてこない。
5年をかけて絵の練習をしても、オリジナル絵はちっとも上達しなかったというどうしようない現実。何も浮かばない。イメージできないということは変わらなかったという絶望。すべてが嫌になってしまいました。で、次にどうなったのかというと…
発狂した
あぁもう!いつになったらうまくなるんだよ!?
アホかばぁーか!こんなクソみたいにつまらんことやっとれんわボケガァーーー!!
ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァ!!!!

と、どうにもならないそんな現実を前に癇癪を起しついには自分の絵(ipad)をぶん投げ、壁に向かって大声で罵倒し、発狂して投げ出してしまう始末でした。キチゲを解放して多少すっきりはしたものの、そこから絵を描かなくなってしまったのでした。ipad壊れなくてよかった。壁に穴は開いたけど。お隣さん騒がしくてごめんなさいごめんなさい
めでたしめでたし…
……………
という過程を経て、絵を描くのが心底嫌になってしまったというわけでした。
「こんだけ努力して、こんだけ頑張って必死に練習してたのに…」
「何だったんだこれまでの5年間。」
実力のペースに対して煩悩は日に日に大きくなり、「オリジナル絵で回りからちやほやされたい」「オリジナル絵で1発当ててセミリタイアしたい」と、どんどん非現実的な目標になっていきました。そして現実との対比に打ちのめされ、自身を失っていく日々。実力と理想との開きはどんどん大きくなり超えるべき壁はどんどん大きくなっていきました。
いつのまにかそれは天をも貫かんとする大きな壁といえるようなものになっていました。思えばずっと、それを見ないようにして必死にその高さにふたをしようとしていたような気がします。
やれるだけのことはやった。もうこれ以上は何も思いつかない。打つ手もない。なのに…こんなん無理じゃん…あんな絵普通に描けるイラストレーターとか化け物やんか…人間やめてるだろ…いや俺が才能ないだけだ…だめだなぁ
と、そういう絶望感が一気に押し寄せてきました。
もう全部どうでもよくなりましたね。自分がほとほと嫌いになりましたよ。
冷静になって自己分析をする
しかしどうでもよくなってしばらくすると冷静になってきて、自分を客観視する余裕が生まれました。そして前述のように自身を振り返り、やがて「うまい絵」というそのものについても考えました。
「ただひたすらうまい絵を描こうとしてきた。でもそもそもうまい絵というのは一体なんなのだろう?」
よくよく考えてみればみるほど、そのイメージはあいまいなものであることに気づきました。
それから脳幹がねじきれるくらいの感じで考えつづけてはじき出した答えは「精工かつ丁寧にかけた絵」でした。ひねりもおもしろみもない答えです。やっぱり凡人ですね。
写真のように見間違えそうになるような絵。それがうまい絵だろうとおもいました。実際重厚感のあるリアル絵が好きなので、私の思ううまい絵の定義がこうなるのは別におかしいことでもないですね。
「では、世の中にあるうまい絵は皆評価されている絵なんだろうか?」
ふとそう考えて…それからいろいろ分析しました。うまい絵、つまり精巧なリアル絵は全てにおいて評価されているのか、と。
で、こちら記事にしたところかなり長くなってしまったので別記事に分けました。
「うまい絵」を描くのは想像以上にずーっとバァチクソに難しく、何より「不毛」だった
さて上記分析後、私が想像していた「うまい絵」というのはとんでもなく難易度が高いというか、そもそも初めから実態すら存在すらせず、仮にうまい絵であるといわれてもそれが自分が思っているうまいという形で評価されるという事でもなく好きになってくれるとも限らない、ひどく曖昧でよくわからないものであったということがわかりました。
今まで思い込んでいたうまい絵という概念はせいぜいエタフォ「僕が考えた最強の絵」でしかなかったというわけで、すべてが私の個人的な思い込みで成り立っていた妄想の産物に過ぎなかったということですね。
それでも本当に、仮に本当に万人の関心を完全にフックするような「うまい絵」なんてものがあると仮定したらそれはどんなものになるんでしょうね。例えば聖書に出てくる天使を忠実に再現しようとするようなもんなんじゃないでしょうか。キリスト教の信者は相当数いますし、数の問題で説得力はあります。聖書に書かれているのですから少なくともその宗派の人にすべてが認めるであろう天使像になると思いますが、そういうものならひょっとしたらありえるのかもしれません。
で、絵ではないんですけど聖書に書かれている天使像を忠実に再現しようと3Dモデルで試みたという動画があるのですが、これどうでしょうか。神々しく見えます?これぞ万人が認める天使だ!って。
これこそ「人に依る」って感じな気がしますが…私はキリスト教信者ではないのでわからないだけなのかもしれませんが神々しさよりも人間の認知のいい加減さと不完全さ、歪さみたいなものを感じてしまいました。
もううまい絵なんて描けなくていいや!
なんというか、もうがんばなくていいやって吹っ切れたんですね。頑張ることに夢というか期待を持っていたんですが、それはどうやらそれはほとんどかなうようなものではないようで幻だったらしいことが腑に落ちて以来、つきものが落ちたというか無理をすること自体が馬鹿らしくなったんです。
頑張るのをあきらめたんですよ。頑張っても苦しいだけでつらいことばっかりだったので。もういいかなと。十分試したしと。何よりまた絵を楽しみたかったですしね。もう我慢して絵描くのは嫌だったので。
無理をしてもどうにもならないことはどうにもならない。なら無理をせずに続けられることを考えたほうがいい。
なら、もっと無理なく楽な動機で絵を続けられるようになった方がいいんじゃないか?
そう考え、考え方を変えていく取り組みを始めていきました。
描きたいものを描く。これだけ
そしてうまい絵を描くという目的をゴリゴリにそぎ落としていくと、結局の残ったのはこれだけでした。他人からの評価という余計な妄想の産物をすべて取り除いていくと、そこに残ったのは自分の「描きたいという欲求」だけになりました。
残ったというよりは、他人からの評価を求めることによって隠れていたといった方がいいかもしれません。他人の評価を求めるがゆえに自分が描きたいものを常に押し殺す形になっていたから苦しかった。他人に無理やり書かされているというような構図を無意識に自分の頭の中に作りこみ、それに対する反発が絵を描きたくないという嫌悪感につながっていたことがわかったのは、別記事で描いている承認欲求を捨てることで初めて気づきました。

↑※オリジナル
思考のぜい肉を落とすことで自分の描きたい欲求を感じられるようになると、もともと描きたいと思っていたこと、もとい作りたいキャラクターモデルのことを想うようになり、愛しく感じるようになってきました。
おそらくこれは愛着というやつだと思います。承認欲求が消えていくと、見えてくるのは愛という感情なのかもしれません。
しかしオリジナル絵に関して全くセンスがないという現実が変わったわけではありませんでした。なので私にとってはここからもまた苦悩の日々になっていくわけですが、うまい絵を描こうとしていたころとは比べ物にならないモチベーションをもって挑むことができるようになっていったのです。

↑※オリジナル
モチベーションだけでなく取り組み方も変わっていきました。これまでのただ闇雲にうまい絵を描くために何でも書くという考えなしに書くことをやめ、描きたい対象のイメージをより具体化し、説得力を上げていくために必要な絵を描くようになっていきました。軍服だったり、銃器だったり、着物だったり刀だったり、描きたいキャラクターに関連するものですね。


↑※模写 侍の女の子が描きたくて和服、着物などを着た女性を描くようになった。
そして描いていると、「ここをもっとちゃんと描きたい」と自然に思えるようになりました。これはうまくなりたいという欲求とは種類が違うというか、単にも自分が欲しいと求めているというか、後述でも書いているんですけど、うまくなりたいっていうのは自分の中では強制的な感情だったんですよね。やらされてる感、やらなきゃいけないという苦しくてすぐやめたくなってしまうような、強迫感情だった。
そういうのとは全くの別種。他人が求めているからではなく、やらされているからでもなく、しょうがないからでもなく、単に自分が純粋にもとめている「もっと」という感情、欲。そういうものが増していってそれがまた新たな着眼点になったり新しい絵の練習やモチベーションにもなっていきました。

↑※オリジナル 2023/08/12 「愛」
結果として表現できることも増えたと同時に足りないこともたくさん増えていきました。構図や背景、服や物体の動きの流れ、仕組みなど、まだまだ知らない、やっていないことはたくさんあります。
しかしそれはいいニュースでした。大きくそびえた一枚岩の巨壁が、段差のある階段に変わったからです。目標のとらえ方をかえることがモチベーション継続のキーでした。
うまくなりたいという目標は実はとても曖昧なものでした。曖昧だとそれを目標として掲げてもどこを目指せばいいのかわからなくなってしまう。あまりにも複雑かつ矛盾だらけでぼやけた達成不可能な目標になってしまうが故にその大きさをはかれず、大きな跳躍を要するかのような巨壁、無理難題な目標に見えていました。
一方で自分の個人的な描きたいものを描くというのはそのための目標をコンパクトに無理なく現実的なものへと具体化でき、段階を追って自身のペース、都合で少しずつ目標へ近づいていくことができるわけで達成、継続が容易になることがわかりました。他人からの批判や要望、世論や流行などにも免疫が付きますし、そういうものによって目標がぶれたりすることもなくなるので安定もするようになりました。
結果、楽しくかつ向上心をもって絵に挑むことができるものに変えることができたのでした。
今では毎日4時間以上は絵を描くようになりました。相変わらずデッサンやクロッキー、模写などが中心ですが、必要な題材を探しては学びながら絵をかいて楽しくやっています。もう「うまくなる」と考えること自体正直しんどいくらいです。改善点しかないミミズカワハギの爆裂へたくそだったころはともかく、ある程度かけるようになってからはどんどん苦しくなっていくだけでしたからね。
しかし描きたいものを描いているとよりよくしたい、もっとこういうものが見たい!という欲求が自然とわいて試行錯誤につながり結果的に絵をうまくするようで、
うまくなりたいという欲求を捨ててしまった方がかえってうまくなるというような皮肉みたいな結果になるようでした。
「うまくなりたい」と「向上心」は別物だった
ちょっと間際らしいんですが、少なくとも私にとってうまくなりたい(褒められたい)っていうのと向上心(よくしたい)っていうのは似ているようで全然違ってたんです。
というのは、うまくなりたいは「他者からもたらされる結果」を重視しているのに対し、向上心は「自身が達成する目標とそれを目指そうとする過程そのもの」を指していたからです。
単に向上心をただ一人もっていても、それが結果につながらなきゃ無駄、他人に認められなければ、金にならなければ何の意味もない労力だからどうでもいいことなんて思ってましたけど、向上心を持っていること自体が実は面白さのすべてだったんですよね。
自分で目標を設定してそれを追いかけている時が一番楽しい。考えてみれば自分の人生の中で数少ない本当に楽しいと思っていた瞬間って「小学校の頃校庭で夢中で野球ボールを一人追いかけてた時」でしたからね。ボールを追いかけたい、強い打球のボールを必死でくらいついてキャッチしたい、それを体感したいという自身の欲求があって、それを追っている時が一番たのしかった。気づいたらレギュラーになったときでもなければ試合に勝てた時でもなかったのです。そういうものは皆自分の意思とは関係なく勝手に他人からもたらされたもので、元来の自分にとってはどうでもいいことだった。もちろんうれしくはありましたが、それまでの仮定の楽しんでいた時間に比べれば一瞬の感情にすぎませんでした。それと同じことなんだと思いました。
うまくなれるのかどうかだとか、何かで一発当ててどうのこうのとかこれで食ってくために努力するとか、他人に与えてもらうことを期待して何かをすることじゃなくて今自分がこの絵をかきつづける生活をしたいから、そのために続けるためにできることをする、というのが何よりも大事だったことがわかりました。
結果、「無理をせずしかし日々向上心を持って何かに取り組み生きる。」という風に趣味だけでなく、仕事、生活習慣すらも変わっていきました。今まで以上に健康面までも気を使い、より健やかに生きていくことをかんがえるようにもなりました。
何を目的とするか、何を軸に考えるか。自分に軸があるかどうかで向上心になったり、その逆にもなる。全ては自分の認知次第というところでしょう。
もし目標の在り方を変えられなかったら、今も悶々とした日々を送ってストレスをため、壁か胃にでもまた穴が開いてたんじゃないかと思います。
本当にその通りだと思います、今私も同じような状況で止まっています。
しかし理屈はわかってるのですがなかなか承認欲求を捨てることができません…
評価がないなら絵なんてただの苦行をする意味がありません
コメントありがとうございます(^^)/
よろけしればその思いの丈を語っていただくことはできないでしょうか?参考にしたいです。( ´∀`)
冒頭付近で何回も何回も頷きながら読みました。 自分の見たい気持ちと描きたい気持ちをもっと大事にしたいな、と思うことが出来て大分救われました。ありがとうございました。
絵は自己満足で全然描けますね。書いている時が一番楽しいです。
お役に立ててよかったです(^^)/