[承認欲求?]「うまい絵」とは何か?





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→承認欲求は捨てられるもの

2022/04~現在、再度全体的に記事の見直しを行っています。修正したものから順次最新更新日で更新していきますのでお楽しみに(?)

 

ここではいったん、「うまい絵 = 評価される絵」という前提にまず立って説明していきます。おそらくうまい絵を描きたいと思っているのは、その先に評価されたいという欲求があり、それが通用しているとイメージしているからだと思います。なのでほぼほぼイコールであるという事を前提としてこの定義で考えます。

「うまい絵=人に評価される絵」は必ず真か?

先ほどの前提に対していきなりですが疑問をなげかけます。

世の中にあるうまい絵は皆評価されている絵なのかどうか、うまい絵さえかければ手放しに褒められるのか。

これについて考えてみると「うまい絵」というのが非常にバイアスのかかった言葉である、ということがわかってきます。

そもそもうまい絵って何?

結論から言うと、完全に人に依って違うとしかいえません。その理由を説明していきます。

例えば、まず絵を見る側がどんな絵に興味を持っているかという点。興味が違えば関心も違います。関心が違えば好き嫌いも異なります。好みでなければそれがどんなに精工であろうがそもそも見ようとすらしません。評価以前の話です。

アニメ絵を好むかリアル絵を好むかという点や、さらにアメコミや萌え絵など同じアニメ絵の中でも数多に存在するサブジャンル、さらに作者独特の”タッチ”、”癖(へき)”などによって好みはさらに分けられていきます。

絵を見て評価する人というのはなにも闇雲にうまい絵、あるいはあるきまった一つのルールや評価基準に基づいてより優秀なものを求めているわけではなく、絵の観測者である個人それぞれが各々独自のルールや感性、癖に従って気持ちよくなれたり何らかのほしい感覚を得られる好みの絵を求めていて、

つまり評価される以前にその個人的な好みというふるいにかけられちゃうわけです。いくら自分が思っているうまい絵、評価される絵という定義があっても、他人にとってはどうでもいいことで、関係のないことです。

なのでもし自分の絵が一般受けしない絵であってもそれ自体は別におかしなことでもなく、なんなら自然的ですらあるといえます。

人によって定義にぶれがあるというのはあるといはいえ、もう少し突き詰めて考えてみます。うまい = 精工、技術力が高い、と変換して考えてみます。つまりうまい絵 = 精工な絵であると仮定して考えてみます。単に精工かどうかで考えるのなら、解像度が高く現実を良く描写したリアル絵が最もなものであり、アニメ絵よりもそちらに軍配が上がる、と”考えがち”だと思います。

では精工に書かれた静物リアル絵とアニメ絵の美少女絵を並べた時どちらがうまい絵かと聞いたら聞かれた全員が前者を選ぶのかどうか。理屈だけで考えれば前者になりそうですが、はたしてどうなるのでしょうね?

思考実験:どちらがうまいか?

ここで思考実験をしてみます。モナリザと坂本アヒル氏のずんだもんの絵を並べてどちらがうまい絵か、というアンケートをしたらどうなるのかを考えてみます。実際やってみたらちょっと面白そうですね。

いわずと知れたモナリザ
坂本アヒル氏のずんだもん どや顔かわいいですね

どちらも比較的ジェネリック感のあるモチーフとして選んでみました。モナリザはともかくですが、ずんだもんを選んだのは動画サイトなどでよく目にする人気キャラクターだからです。とくに坂本アヒル氏のずんだもんは見ない日はありません。

さて、状況からイメージして考えてみます。人通りのある街頭で突然インタビューされ、2枚の絵を出されてどちらがうまいかと聞かれたらどちらを選ぶでしょうか。

多分モナリザを指す人が多いのではないか、と思います。

では次に日を跨いで、外出先ではなく自宅でずんだもんの動画を見ているときに偶然Web広告アンケートが流れてきて「モナリザとずんだもんを二つ並べられて「見たい絵」はどちらか」を聞かれた場合はどうでしょうか。

おそらくこれは坂本アヒル氏のずんだもんが圧勝するんじゃないかなぁと思います。

おいおい「うまい絵はどちらか」が「見たい絵はどちらか」にすり変わってるじゃないか!反則だろ!

と、思うかもしれませんがここでのポイントは「うまい絵は評価されるのかどうか」ということについてで聞かれ方はさほど問題ではありません。それを説明していきます。

この比較の総点は主に状況、環境因子の違いによる生まれる評価の差異についてです。バリエーションといった方が適格かもしれません。

人目があればそれを気にして選ぶということもあると思います。モナリザを選んだ方が知的にみられるだろう(決してずんだもんを選ぶ人はバカである、という意味ではありません。モナリザという著名に過ぎるものに対して比較されてしまったらほとんどの場合で世間的なイメージとしてはどのような絵であってもそうみられることもあり得なくはないだろう、という想像です)、という算段のもとに選ぶということもありえるともいます。プライベート空間なら気にせず好きなものを選ぶこともあるかもしれない。面白い、かわいい、好きだからという自身の感性で選択する傾向が強くなると、それに伴って選択する者も変わってくると思います。

また、それまでに何をしていたかという文脈もあります。街頭を歩いていた際と、ずんだもんの動画を見ていた時とではその時に抱いている関心に違いがあると思います。どこかへ向かおうとしている時に唐突にアンケートを求められた時、アンケートの内容と類似したコンテンツを視聴し、楽しんでいた時。全然違ってくると思います。

またその時点での体調、気分、聞こえてくる音などそのほかの多くの要素が異なります。アンケートの聞かれ方だってその一つで、あらゆる因子や要因が影響を与えて評価を下します。これはつまりスマホの向こう側にいる人がどんな気持ちや目的、成り行き、きっかけでいいねをしたかはわからないという話と同じです。

とはいえこのようなお膳立てをして考えなくとも、単純にモナリザを普段の生活の中で常々見たいと思っているかどうか、と考えれば少ないであろうことは容易に想像つきます。多くの人にとって一般的娯楽である動画サイトで大人気のずんだもんの方が確実に人気があるでしょうし、モナリザとずんだもんの二次創作絵のどちらが評価されるかを考えれば、圧倒的に評価の機会、下地があるのはずんだもんなのでずんだもんであろうというのは想像がつきます。

機会がなければ評価もありません。関心を持たれなければいくら精工であろうがどうだろうが、評価という点においては0と同義です。モナリザの2次創作漫画なんてそれはそれでおもしろそうですけどね。

別にモナリザが現代社会においてはすでに陳腐化したゴミである、ということを意味するわけではありません。モナリザは依然として有名な絵画であり、世界中の人に認知され、今でも生で見るには予約が必要ですし素晴らしいとされる絵には違いないと思います。(正直私も見てみたい)また全盛期にいたっては多くの人々を引き付けた絵画であったことは間違いなく、それが今でもこうして残っているというだけでもすごいことです。

しかしそれだけ「すごい絵画」であっても、その人気が今も昔も変わらないかといえばそうではない。現代社会で日ごろからいつもモナリザを拝むほど好きであるとか、モナリザにまつわるコンテンツを毎日消費しているとかいう事があるかといえばそうではない。現代社会の普遍的な価値観、日常的な習慣、娯楽などの中で需要があり評価されているかというとそういうわけではない、ということです。

でもモナリザは評価されている素晴らしい絵画である、と“されています”。社会通念上というか、聞かれたらそうだと答えるのは何も不自然なことではないという事に無意識的になっていると思います。一種の反射のようなものでパブロフの犬みたいな話です。街頭で「モナリザは有名で素晴らしい絵ですか」と聞いたら多くの人がYESと答えると思います。有名だけど素晴らしい絵画ではない、と答える人は少ないと思います。しかしその大多数のYESと答えた人が日常的にモナリザを見ているほど「好きか」というとそういうわけではない。

おそらくモナリザという絵画を「好きか」と質問したら、多くの人が「別に好きでも嫌いでもない」と答えるんじゃないでしょうか。

要はほとんど興味がないのです。興味がないのに、好きでも嫌いでもないのにモナリザは”素晴らしい絵画だと評している”というケース。自分の感性は違うと感じていても、何も感じていないとしても無意識的に社会的な空気、要望、目を意識したものに自分の意見を表層上でカスタマイズしてそう評する。平たく言うと、周りに流されて評価しているということになります。

うまい絵は別に求められてもいない

そもそもうまい絵自体に需要がないというのもある気もします。

というのは、現在もっとも絵が安易にかつ大量にもてはやされている場所はSNSでしょうが、そのSNSで共有されている絵は2次創作だったり漫画だったりネタ絵だったりと絵のクオリティ云々よりも何等かのコンテンツ的文脈を含むものであったり現場猫などのミームを使ったコミュニケーションツールとして使われているケースがより支持され人気であるからです。

うまさではなく、何らかの目的で使えるか、おもしろいかとか楽しめるかという点で需要、評価がある気がしますね。モナリザが生まれたルネサンス期に求められた写実性のように技巧的なものがもてはやされたのは、同じく時流の問題でしかなくはやりの一つであって評価される絵として確定的な要素というわけじゃない。現代社会であればその価値は少なくともメジャーなものではないといえそうです。

故に絵にほとんど興味がない人がみたらおそらく指すのはモナリザだろうとも考えます。

この場合は大抵絵の技巧的な部分をほめる傾向にあると思います。この傾向はそのコミュニティの基本的な価値観によって決定されると思います。

例えば日本という国で考えるならほぼすべての国民がうける義務教育の内申表的な価値観、共有されている社会的評価を念頭に置いた査定をベースとしたものの見方を用いるだろうと考えると、絵に対してありがちな感想としては「下手か上手いか」が真っ先に思い浮かぶと思います。ほかにも「社会的信用を得ている何か」など、優秀さという定規で測ることが絵に対するもっともコモンな認知だと思います。

「ネット上では評価されないが現実では「絵うまいね」といわれる」、というのは絵描きあるあるとしてよく聞く話ですが、社交辞令である場合を考慮してもその多くはそもそも絵に興味がないからで、結果としてコモンな優劣による感想をもつことになる、という事もあるのではないかと思います。

つまり。絵にほとんど興味はなくても「うまい」と評価することはできるわけです。絵に興味がない人に絵を評価される、というのは矛盾している感じですが、これの意味しているところはつまりこの人たちはうまい絵を描いてほめられたいと思っている人が欲しているうまい絵を描いてほめてくれる人たちではない、ということです。なぜなら、絵を見たいと思って絵を見ているのではなく、たまたま目にしてそう思っただけというただの「反射」にすぎないから、自ら出向いてまた見に来てくれるお客さん、定期購読者ではないからです。

何なら興味がないほどうまいという評価が出てくる、なんて感じかもしれない。まぁこんなこと言うと言葉狩りみたいになってしまうので、評価する表現は人それぞれ、としておいた方がいいですね。

そしておそらく評した本人は数分後にはそのことを忘れてしまっているでしょう。聞かれれば思い出すでしょうが、聞かれなければそのまま忘却のかなた。各自の別の関心事にすでに心を奪われていると思います。

と今自分で描いていて気づいたのですが、「うまい絵」というこの「うまい」の部分は義務教育の価値観からきているものなのかもしれないな、とふと思いました。

ルネサンス期に限ってみても技巧が称賛されたのはやはり文脈があります。宗教改革から始まった古典的なものを模倣して描くスタイルからより優れたものを生み出そうとするスタイルへの運動という流れがあり、旧来の形式的なのっぺりとした絵から生命力あふれるリアリティある絵を求めたという流れがあったようで、やはりそこまでに至る文脈があったのだという事が分かります。

ただ単にうまい絵(精工に描かれた絵)では文脈もコンテンツもコミュニケーションもクソもないため魅力を感じないのではないかとも思います。

オリジナル絵は基本評価されないもの

「どちら様?」

とこの絵を思うと思います。そりゃ私の描いたオリキャラなのでそう思うのは至極当然のことでございます。私からするとかわゆーてしゃーないどやちゃんんですが、子供は自分の子供が一番かわいいと全く同じ理論で他人様からみたらどうでもいいか、ぱっと見の「不気味」の一言に尽きると思います。

この温度差は至極当然の話でオリジナル絵は自分でキャラクター像や世界などを考えて描くので、それについて何も知らない他人からしたらなんも感じないのは当たり前のことだと思います。ここにも文脈が関係してきます。2次創作のキャラ絵などは、ベースである1次創作元に多くのファンが存在し、設定、歴史、魅力、思い入れなどその文脈を共有しています。そのモチーフたちに比べたらその文脈はずっと薄いものです。

もちろん見せ方や技巧次第で変わるところはあると思いますが、比較すればその差は圧倒的。分厚い本一冊の絵をはじめとしたさまざまな情報、文脈と一枚絵では、どう考えてもその積み重ねに差があることは明らかです。もしどうしてもオリジナルで評価されたい、というのならその本を作るしかなくコンスタントにオリジナルの絵、いや、「世界」を出力し続け、オリジナル”コンテンツ”として文脈の構築にいそしむ継続的な努力が必要かと思います。

とはいえ、それでも人気になるかどうかは運否天賦、とんでもなく確率の低いことであることは何も変わらないんじゃないかと思います。そもそも無名であれば宣伝もしなきゃいけないですしね。そういったPR活動なども含んで企業も有名作家もそうなるまでに多大な学び、労力をつぎこんできているあるいはたぐいまれな圧倒的な運をもっているわけで、そうしてようやく得られるかどうかの人気一次創作に自分も参入したいというのなら、労力、学びの継続、もしくは宝くじに当たるか当たらないかくらいの強運は必須でコンスタントにコンテンツも配布し続けなければ不可能であると思います。

また逆説的に言えば2次創作は比較的評価されるのが容易である、とも言えますね。文脈を1次創作が既に担保している分、PR活動も労力もある程度は簡略化できますし、1次創作では描くことのできないことを2次創作ではやれてしまうので2次創作自体に特定の需要があることも事実です。よって、1次創作の人気の度合いにもよりますが人気もでやすいのだと思います。1次創作で食べている人は少ないですが、2次創作で食べている人はそれに比べればずっと多いと思います。

まぁつまりオリジナルで受けるのはめちゃくちゃ大変で博打的だろうということです。決して楽な道ではなく、これで食っていこうなどと思うものなら多くの人にとって普通に働いて生活する方がずっと楽だし、いい生活ができるんじゃないでしょうか。

それでもやりたい人がやるものなんじゃないかと思います。

オリジナルとはいえ例えば2次元美少女の絵など、人気の「ジャンル」の絵であれば2次創作に負けないくらいの評価が得られる可能性はあると考えられます。

そういう意味ではジャンルを意識した絵を描くというのは版権の存在しない2次創作をしている、という風にとらえられることもできるかもしれません。しかもグレーな部分のある2次創作と違いクリーンです。客層の多い1次創作の2次創作をするのと同様の理屈で、客層の多いジャンルの絵を描けば評価の機会は増える可能性があるということです。しかしこの場合、同じジャンル、創作を行う他者の絵描きの存在がそれだけ多くいるということも考える必要があります。競合他社ならぬ他者の存在です。

この場合始まるのは技巧による競争なんじゃないかと思います。なぜなら同じようなものを描くのならよりいい方が好まれるから、です。そういう意味では技巧というのはこの競争の中で輝くといえるかもしれません。つまり、既存の2次創作、巨大ジャンルの中で絵を描いたとき、競合他者が多く存在すればするほど技巧に価値が生まれるというケースはあるんだと思います。

しかしこの場合勝てるのはごく少数になってしまうという点は避けられないと思います。一旦競争が発生してしまうと結局その中で生き残るのはトップのほんの少しなので、ちょっとうまいくらいでは全然歯が立ちません。技巧分野ならまさにプロ級の職人たちがごろごろいますから、やっぱりめちゃくちゃきついと思います。

とはいえ特定のジャンルの絵は既に描き方なども含め表現内容が確立した絵であることも多く描き方の学び方もある程度は体系化されているため、比較的少ない労力でオリジナル絵として評価されたいという希望を満たす方法論としては効率がいいものの一つになるのかなという気がします。

逆に言えばマイナージャンルの絵であれば当然評価の機会は減るでしょうし、やり方も自力で開拓していく必要もでてきます。教科書通りにやればいい、という事ではなく、自力で獲得するために探求する必要もあるので、また別の大変さがあると考えられます。前者が職人だとするなら後者は冒険者といった感じですかね。

どのジャンルに属していないのであればさらに少なくなると思います。いくら労力を注ごうが下手をすれば形にもならず、かつ未開拓で荒唐無稽な謎の何かを好きになる人はほぼ存在しないでしょうから評価云々の点において最も効率が悪いものになってしまうんではないかと思います。

PRの観点で考えると、最初は2次創作から入って徐々にオリジナルの制作、PRをしていくのも効率がよいかもしれませんね。無論、2次創作については1次創作のリスペクトがないとどうにもならないし帰って反感を買うだけというケースもあるので、まずは作品を好きになる必要はある、というハードルはあります。

この「何かを好きになる」というのは結構深いです。ただコンテンツを消費している程度では浅いだろうと思いますし、愛着の感情がわかないとなかなか難しい。この時点で既に結構ハードルが高いのです。何かを好きになること自体が難しかったり、好きになるとはどういうことかよくわからないという人もいるからです。

好き、愛とは何か、という事について考えてみると哲学的な内容へと発展していくようなそんな問題です。

むしろ、この愛着の程度でいかようにも化けるのが2次創作の面白いところなんじゃないかと思います。

愛着がなければキャラクターを愛するのも難しい。何を愛していてどこがどういいのか、という事が分からないのなら「癖」も生まれません。結果的に魅力的な2次創作をするのは難しいと考えます。2次創作も決して簡単ではなく、はっぱり大変なのは変わらないと思います。

とはいえこれはオリジナルを描くにしても同じようなことがいえると思いますが…

さて先ほどの静物デッサンと美少女アニメ絵の件に戻りますが、状況に応じて評価は下されるため、どちらが評価されるかどうかは未知数であるだと思います。精巧にかけているかどうかは評価の一指標にはなり得るかもしれませんがタイミングや時流などの文脈の方がずっと要因として莫大であり、これによって大きく左右されてしまうのではないかと思います。大きな波のような物が評価の根本で、自分はその濁流の中で流れている因子の一つに過ぎない、という感じかなと。

強いていうならその波にうまく乗れるかどうかの方が重要であると考えます。ありていに言うなら流行に乗れるかどうか、だと思います。

うまい絵=評価される絵とは限らないということ

まとめると、うまい絵だからといって必ず評価されるというわけではなく、何なら何の保証もない思い込みの一つにすぎない、ということです。

評価というものはそれ自体が主観的かつ個人都合的で無意識的なものであり、感覚的な判断によるところが大きく、かつ流行などの時流にも左右され、多くのお膳立て、文脈が必要であり、何ならようやく評価を得られてもその中身は大して関心もない可能性もあるなど常にブレまくっておりかなりいい加減で適当な一時的なものなんじゃないかという事です。

有名だとされているモナリザですら実際的な関心はこれだけ風化しているわけで、いかなるものにつけたどんなすばらしい評価もやがては風化し塵も残らなくなるのでしょう。ほかにも多くの数えきれないコンテンツが流行っては廃れるを繰り返ししていますし、人々はそういった「流れ」に反応しているにすぎない、文字通りの単なる流行にすぎないものに”真実”はないのだと思います。

結論:突き詰めると、うまい絵なんてどこにも存在しない

要するに誰もがうまい、好き、良い、優れている、素晴らしいと評価する絵なんて存在せず、あてにしたところでそれ自体は空虚なものでしかないという事です。

強いていうのなら評価とは「流れ」「偶然」「成り行き」「走り書き」「火花」というところでしょうか。つかみどころがなく、すがれるところもなく、逃げ水のようにいつまでも手に入らないような何か。そんな幻のようなものだと思います。人によってはそれが近くにある人もいるのでしょうが、それもいつまでもいることが保証されているわけでもなく、たまたま今はそこにいるというだけのことで、その人の力で得ているようで俯瞰的にみるともっと大きな流れによって生まれたもので個人の力では案外どうにもならないものであるという事もあるわけです。

なんなら「うまい」というもののとらえ方自体が教育などの外部的要因によるものによって作られた文脈由来の思い込みの概念に過ぎないかもしれないということも考えると、

もはや「うまい」「下手」という考え方、とらえ方自体が作り物であり妄想であるといった方がいいのかもしれません。

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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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