人が本当に他人できること。それは自分が思っているよりもずっと少ないのかもしれない。なにせそれは大雑把に言えばたった二つしかないから。
ここでは他人にできそうで実は全くできてないことをはじめに紹介したうえで、最後にその二つについて書いていこうと思います。
目次
他人のことを理解することはできない
他人の頭の中を人は除くことはできない。そのような感覚器官や機能を、人間はその脳や体の仕組み的に持っていないからです。
他人の言っていることと思っていることが同じであるとは限らない。
つまり他人の発する「言葉」と、それに紐づいている他人の「解釈」が、自分が思う形で一致しているとは限らないということです。
言葉に対する解釈は人によって差があるでしょう。というのは、その人の人生という積み重ねが自分とは、いや、皆違うからです。積み重ねが違うなら価値観も考え方も異なり、とらえ方も異なる。解釈も異なる。幸せの定義が皆バラバラなのはそんなところから来ているのです。
他人のことを支配することはできない
他人の心を自分の思い通りにしたり、自分の期待した通りに他人を動かしたりすることはできません。それは単純で、人間にはもともとそのような機能がないからです。いくら自分が他人に自分の思いを期待しても、他人はそんなのどこ吹くかぜで他人の勝手に行動します。自分に念動力のようなものでもあれば別でしょうがね。
他人を自分の思い通りにすることはできない
「どうしてそんなことを言うんだよ」「どうしてこんな仕事もできないんだ」
「なんでこんなバカなやつがいる」「どうしてこんな人が政治家になる」
現実の世界は自分が思っているよりもずっと違う他人であふれています。探せばいくらでも見つかるでしょう。その他人に自分の思う理想的な他人の姿を願ったところで、それがかなうことはありません。
自分の思う理想の何かと現実に存在する何かは常に食い違うものです。
そうである以上、他人に自分の思い通りになる何かを求めても大抵の場合は裏切られる。それに対する執着が強ければ強いほど、その裏切りは強烈になるだけです。
他人をわからせることはできない
自分の思う価値観やルールを他人にわからせようとしてもそれはできません。
いくら他人を論破したり、誹謗中傷して攻撃しても、そもそも他人は自分の発したその言葉に対して、自分の期待する解釈とは関係なく他人の好きなように解釈するだけだからです。
人は他人を理解できないのと同じ理屈です。言葉を交換してもそこに相互理解は存在しない以上、わからせるなんてこともできることじゃないんですね。
他人に好きになってもらうことはできない
いくら他人に自分のことを好きでいてほしい、嫌いでいてほしくないと思っても、それを自分はコントロールすることはできません。
いくら他人に好かれようとしても、他人の気持ちや感情はその他人の気まぐれ次第でしかないからです。今まで自分のことを好きだといっていた人が、あることがきっかけで突然嫌いだということもあります。(私の経験上)自分から他人の望む何かに自らを寄せようとすることはできるけれど、それで相手の気持ちをコントロールできる、というわけじゃない。たまたまその他人にとって都合がよかったら振り向くというだけだし、そうでなければ関心を持たないというだけ。
他人の心ははあくまで他人のものです。自分のものではない以上、どうしたところで他人の気持ちを常に自分に振り向かせることはできません。
他人の心は見えませんし、手に入ることもありません。
他人に自分の人生を生きてもらうことはできない。
他人に自分の人生を選んでもらって、その通りに生きたとしてもそれで自分の人生が保証されるわけじゃありません。
他人の言うことさえ聞いていればすべて保証されるかといえば、その他人が常に正しさを知っている人であることが保証できない限りはできないでしょう。そしてそんな人はどこにもいません。誰も先のことなんかわからないからです。
親がいくら「絶対こうしろ、こうしないと絶対後悔する」といったとしても、親も自分と同じ人間です。先のことはわからないし、そもそも親の思う幸せと自分の思う幸せは異なる。親と自分では生まれた環境と育った環境も違うのだから、価値観も考え方も異なるわけで、幸せの定義も全然違うんです。
だから親や他人が自分の幸せを決めたり、導いてくれるなんて言うことはないわけです。
人に他人の心を救うことはできない
人が救えるのは自分だけです。できるとしたらそれは医療などの外的、物理的なものに対するアプローチくらいのものでしょう。
自分の心の問題は自分しか解決できないように、他人の心の問題は他人自身にしか解決することができません。
だからいくら誰かが精神的に地獄のような状態にあったとして、それを助けてあげたいと思っても、自分はそれに対して何もできません。精々助言を「言うことだけ」が限界であって、「言ったことで相手を自分の言葉で梨花祭さえ手その人を救う」みたいなことはできない。
つまりここで私が書いていることもそうです。私は私がそうだと思うこと、自分を救えることを書いているわけです。それが自分を変えたいと思った人にひょっとしたら何かの役に立つかも、そいうくらいで書いているのです。
それが限界なんですね。
心を救うというのは、その当人が自分の心を救いたいと思わない限りできません。それを望まない人は、その地獄の状況が必要だからなのです。複雑な思い込みによって執着している何かがあり、それにすがってどうにか自分を幸せにできる考えている。あるいは変えることが怖く、踏み出すことができないからなのかもしれません。
例えば承認欲求で他人の目が怖くて苦しいといっている人がいたとしても、その人がその承認欲求を捨てることを望まないとしたら、その人にいくら承認欲求を捨てれば楽になれるよ、といったところで効果はないでしょう。
むしろ自分の触れてほしくないところをつかれた気分になって、不快になったりするだけかもしれない。
承認欲求を価値あるもの、捨てることはできないからしょうがないと正当化したいと思えるうちは捨てることはできないと思いますし、捨てようとすらも思えないでしょう。それくらいに人の心というのは人によってさまざまな事情を抱え、根の深い問題である以上、そこに他者が立ち入ろうとしても不可能な話です。
だから人に他人は救えない。救えるのはいつも自分のものだけなんですね。
本当に人が他人”と”できること二つ
では本当に人が他人に対してできることは何になるのでしょうか。
1.他人に自分のしたいことをすること
自分が他人としたいことや他人にしたいことを考えてすることです。
他人と何かをして遊ぶこと。他人と何か話すこと。他人と付き合うこと。他人と一緒に働くこと。他人に贈り物をすること。という感じです。
しかしこれは他人との同意がないとうまくいかないことがほとんどでしょう。例えば彼女になってほしい、彼氏になってほしいと誰かに対して思ったとしても、相手からの同意がなければ成り立たちません。
聞いた話だけれど電車の痴漢行為というものは、この段階がすっとんでしまっていて「触っている相手も気持ちいいはずだ、痴漢されてうれしいはずだ」という勝手な思い込みをしていることが原因の一つだということだそうで。
だから他人とは会話をして、自分のしたいことをしてもよいかどうか取り決めをする必要があるということです。他人と何かをするのなら、会話は必須だといえるでしょう。
2.他人と取引すること
そして会話を通じて、自分のしたいことをしてもいいかを聞いたり、自分が欲しいものやしてほしいことをお願いして、相手に判断をゆだねること。その結果他人がどう返答するかを自分はどうにかすることはできない。できるのは、あくまで尋ねることだけ。
話を持ち掛けること。提案すること。そのように「取り引きすること」が人間のできることの二つ目。
商売などはその典型でしょう。他人と約束事をして協力し、何かを作り上げたりすること。何らかの取引をすることで自分のしたいことをすることが、他人とできることにになります。
友だちと遊べるのは、その他人もこちらと遊ぶことに合意をしているから。
恋人がいるのは、その恋人もこちらを恋人とすることに合意をしているから。
このようにして他人と関係を作ることです。取引によって関係を作って何かをすることなんですね。
この二つを基本として社会は成り立っているとも言えます。お金という存在もお金を払う側ともらう側が、何らかの取引を行うことでそれを可能にしているわけです。
皆これを基底にして成り立っているわけですね。
「自分のしたいこと」「取引」。それを超えたことは人は他人に対してできない。
逆に言えばそれだけしか他人に対してやれることはないんだから、複雑に考えることもないということです。
自分がしたいことをすること、そのために時には相手と話し合いをして約束したり、調整したりするだけ。
たったそれだけのことだけを考えるだけでいいなら、他人のことで悩んだりする必要も複雑に考えたりする必要もないのだから、ずっと楽に接することができるようになるんじゃないかと思います。
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