執着心を手放したいなら、その正体を知って捨てよう!




執着=現実に対する歪み

何かに執着するというのは、何らかの結果に対して執着をする、ということだと思います

例えばお金、人からの評価、人を思い通りにすること、仕事の成績とか学業成績でいい成績をとることとか、就活でいい会社に就職するとか、何らかの結果に対して「必ずこうじゃないけない」と思う気持ちのことです。

それをヒステリックに求めてしまう気持ち。場合によってはそれで窒息でもするかのような苦しい気持ち。それが執着ですね。

でもこの執着って、実はただの現実に対する歪み、乖離でしかないんですよね。

なぜかというと、現実と自分の想定する未来や結果に対する期待っていうのは何も関係がないからなんです。

いくら自分が何かに対して期待して願掛けをしたところで、その結果には何ら影響を与えませんよね。自分の外の現実の世界には何も影響を与えません。それによって変わるのは、自分の精神や行動だけですね。

そして行動をいくら変えたとしてもそれでも想定する結果、願掛けしている結果になることを保証することはできません。

自分の手を動かしてできる範囲だけなら達成は容易に可能です。例えば「手を叩く」とか。「絵を描く」とか。「楽器を弾く」とか。それ自体はすぐできます。誰でもできますね。

しかしそれを超えたものは難しくなります。例えば「上手い絵を描く」「上手に楽器を弾く」などです。それにはある程度の技量がいりますし、技量の習得には練習や鍛錬が必須です。そもそも「上手い」という物差し自体が不明瞭で、しかもそれは大抵誰かが描いた絵や誰かが演奏した何かという結果、つまり他人の尺度との比較をもとにした目標しかありません。さらにそれで「誰かに褒められる」といった、他人を巻き込んだ何かであるとすればそれはますます達成不可能なものになっていきます。

自分がしたことで望むある結果が自分ができる範囲を超えれば超えるほどコントロール不可能かつ達成不可能になります。

目標に潜む歪み

自身の目標の立て方の中には多くのこうした歪みがある可能性があります。他人や外の何かをコントロールできるのだと思い込んでいることによる目標の立て方、つまり「上手い絵を描きたい」とか、「誰かに褒められたい」といった他人を巻き込んだ目標を元に何かをしようとすることは、実はそんな歪みを抱えているのです。

自分や自分がした何かが、誰かの求める何かと合うかどうかというのは「相性の問題」という偶然の機会によってで決まるものでしかありません。いくら自分が馬家をかけたと思っても、誰かの思ううまい絵という基準が同じかどうかはわかりませんし、自分はその他人の価値観をどうこうもできまえん。だからそれに対して執着しようがしまいがその相性を決める尺度の問題をどうにかできるわけではない。

例えば就活の面接で受からないか受かるかとか。それはその企業が、その時に欲しいと思う人材像と自分のスキルなどがあっているかどうかでしかないわけですす。それにいくら期待して願掛けしてもどうにもなりませんし。合わなければ合わない、合えば合うだけの話しでしかない。

既に終わってしまったことなんかは、執着したところで何の意味もありませんよね。面接に行ったその結果をくよくよ気にしても意味がないし、友だちに後で自分がいったことがおかしなことだったんじゃないかとただ後悔しているだけじゃ何も意味がないし、仕事を頑張ってもそれで自分が思った通りに評価されるかどうかを気にしていてもそれ自体には何も影響を及ぼさないわけです。

ゆえにうまくいったかどうかをいくら気にかけてそれで自分の行動を決めようとしている限りは、ただ自分が不安になって自分が苦しむだけなんですよ。

何かに執着するっていうのは、自分を苦しめているだけなんです。というか大抵の場合、執着してしまうものの大半が自分がコントロールできないものなんですよね。だって手を叩くことも、楽器を自分ができる範囲で引くのも、すぐにできることですから、執着のしようがないからです。

何かに執着すると、それを確かなものにできそうな気がするように感じるんですけどね。でも実際はただただ自分が苦しくなるだけで疲労はたまり、むしろ現実と理想との乖離がますます深くなって、後で後悔する気持ちが大きくなるだけでしかないわけです。

結果=ゴールじゃない

いくら何らかの結果に執着して偶然それを得ることができたとしても、それで「ゴール」というわけじゃないんですよね。

ある仕事を必ず達成しようとその結果に執着して、自分に無理をし続けて無事達成できたとしても、「それですべて解消されてゴールです、もう苦労しなくてもいいですよ」とはならないわけです。

救われないんですよ別に。

仕事だったら次の仕事があるし、学業だったら次の学校だったり、就職だったりがあって、何らかの続きがあるわけです。それが苦役だとしたら、まだ全然続くんですよ。

大金を手にしたとしても、次に自分のやることを考えないと、ひまでしょうがなくなってしまうだけです。

つまり、いくらある結果を得たところで楽になるというわけじゃないんですね。

むしろ何かに執着をして自分を苦しめている限りにおいては、ずっと苦しい状態が続くだけなんですよ。

ある結果はただの自分のやることを考えるための判断材料

何かを達成しても現実は終わらないし続いていきます。次は何をするか、という別の仕事とか、やることがまってるだけです。現実はただ無情に何の救いもなく続くだけです。

現実というのは結果ではなく過程の連続なんです。その連続は自分が死ぬまでは終わることはありません。人生がよくマラソンに例えられるのはそういうことなんです。

そんな現実の世界において結果というのは、人間にとっては次に自分が何をするかを考えるための判断材料でしかないわけですね。結果というのは、自分を救ってくれる免罪符じゃない。何もしなくてもいい状態を作り出すためのものじゃないんです。

生是自分が次に何をやるか考えるための材料でしかない。それが結果です。

執着しても「手を動かすことでどうにもできない問題」ばかり考えるから苦しくなる

つまり、結果と自分が今何をするのか、というのは関係あるようで実は何も関係がないんです。関係があると思い込んでそれをもとに何かをしようとすることが「執着の思考構造」なわけです。

執着すればするほど手を動かすことがただの手段になっていってしまいますし、何かをすることを楽しむこともできず、集中もできなくなりますから、ただただ我慢だけになりつらさがましていくだけです。

やがては義務や結果にとらわれた脅迫の意識で自分を強いて無理やりやる以外に自分を動かすことが出来なくなってしまうでしょう。そのまま無理して続けても、いずれはどこかで壊れてしまうかもしれません。そうなってしまったら多分その人生はかつての私のように相当に悲惨なものになってしまうでしょう

そうなったら何かにチャレンジしたり、仕事をしたりすることが怖くなってしまいます。また、義務や結果による執着がなければ何もする意味がないとも考えるわけですから、自分で何か新しいことを始めようとしても生理的できなくなります。

だからその執着を手放していくのです。手を動かすことで”本当にできること”だけでいいんですよ。

何の理由も結果もなく、ただ今自分が決めたことをやっていいのです。それを何か理由をつけて否定して台無しにしなくていい。

そうすれば、何かに執着して脅迫的に行動しなくてもよくなる。息苦しさはずっとなくなっていきます。

結果に対する執着をすてて、今を生きられる

何かに執着することをやめるということは、必然的に未来や結果にこだわっていきなくなるため、今あるものですることを考えて実行に移す以外することがなくなります。

後はそれを自分の意志でやるだけです。何かやらされてではなく、

今自分がすると決めるんです。

何も理由なく、結果も必要とせず、自分がやると決めてただやる。

続ける。習慣化する。全部自分の意志だけでこれを行います。

これができればもう結果もくそもなくなります。

結果と自分がやっていることを切り離せれば、後は自分の意思決定だけで何かをすることが出来る自由が手に入ります。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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