誹謗中傷は弱虫の証。そんな人間だった私が思うその心理とは?




どういう人たちが誹謗中傷をするのだろう?

そんなの想像すらできないよ!と思う人も結構いるのではないかと思う。

なぜなら学業、仕事、友達やサークル仲間と遊ぶ、恋人を作ること‥

釣り、登山、ゲーム、絵、本を読む、などなど…

他にもやれることはたくさんあるはずなのに、と。

わざわざ自分の自由な時間を使って人をたたくことに精を出している人々なんていうのを不思議に感じるのは、きっと自立した健康的な心を持っている人からすれば少しも共感できることじゃないと思う

もちろんそんなこと共感しなくていいし、共感しない方が幸せでいいのだけど、でもやっぱりなんでかなぁなんて知りたいと思う人もいるのではないか?

昔、私自身は誹謗中傷をやってはいなかったものの、”行動に移さなかっただけで”、心の中ではずっと他人を見下したり嫉妬して、「なんでこんなやつが幸せになるんだよ」なんてイライラしながら生きていた人間だった。

心の中ではバリバリ誹謗中傷をしていた人間で、他人に嫉妬したり憎しみを燃やしたりしてばかりの日々を送っていた。SNSや2chまとめサイトはよく見ていたし、誰かが不幸になった記事を見てはにやにやしているような人間だった。

そんな風だった自分でも行為に及ばなかったのは、そうしたら反撃にあうのが怖かったから。要はヘタレだったからそれすらできなかっただけであって、そうでなければ自分も誹謗中傷に費やしていたんじゃないか、と思う。

そんな私だから、誹謗中傷を行う人々の心がなんとなく透けて見えるような錯覚に陥るくらい、彼らの欲求には共感を感じるところがある。

多分彼らも私の過去に抱いていた他人に対する嫉妬心と似たような心理があってやってるんじゃないか、と。

そんな私が考える、誹謗中傷をする人の心理は一体何なのか。

それをここで書いていきたいと思う。

自分に自信がないから、自分を証明するために。

その正体は、自身のコンプレックスに対する反応の一種。

自分に自信がない。それに対する反応。自分の自信のなさを補うために、自分の考え方を押し付けて仲間を増やそうとしたり、自分の方が上だと思うために他人を見下してまわったり、自分と違う他人を排除することで自分を証明して、

それによって、自分を安心させたいからやっていることなんだ。

自分のことが嫌い 自分のことが許せない

そうなってしまうのは、まず自分を独りの人間として自分が認めていないから。

自分の存在を許してないから。許していないというか、許すことができない。自分という”個”を。なんで許せないのかは下の方で書いているけど、とにかくそれができないんだ。

だから他人にも同じように他人を一人の人間として認めずに「”自分と同じダメな人間”になれ」とか「自分と同じ考え方になれ」とか「わからせてやる」とヒステリックになってまでそうしてまで迫る。

「自分を許せない自分」とは”違う”、全く罪の意識のかけらも感じてなさそうな「勝手な自己を許している他人」がどうしようもなく嫌いなんだ。

つまり嫉妬なんだ。自分にはできないことを平然とやっている人に対する嫉妬。自分と違って気楽そうで、自由で楽しそうで、幸せそう、そういうものに対する嫉妬だ。

そういう人がまるで「バカ」にみえる。「こいつらは何もわかってない」なんて思ってしまう。全部嫉妬の裏返しなんだけどね。

もし他人を認めちゃったら自分がみじめになる、負けてしまう。だって自分はこんなに苦しくて不満だらけで苦しいんだもの。そんな自分とは正反対の他人に自分の存在がまるで否定されてしまう気がして、怖いんだ。

自分が他人に”影響を及ぼせる”と本気で思い込んでいる

そして、自分が他人を叩いたり批判したり説教をすれば、その他人に直接影響を及ぼして自分の考え方に染め上げることができる、支配することができると本気で思っている。

実際はそんなこと誰一人としてできないのだけれど、そう見えているんだ。相手を叩いて論破できたとき、まるで自分のいったことで相手が自分にわからせられた、支配された、そんな風に見えている。

でも実際に起こっていることはその論破した相手がその相手の解釈した伊藤にこちらの言葉を解釈して反応をしただけ。それが自分から見ると論破した=わからせた=支配できた、なんて風に見える。

でもそれはそう見えているだけ。支配なんかできちゃいないし、わからせられたこともない。それでその人がずっと自分を慕うこともなければ言うことを聞くわけでも何でもない。

“誰かに影響を受けさせられている”人なんてどこにもいない。みんなその当人の意志で、「当人の望む形で何かを思い込もうとした、納得しようとした」だけ。

言葉なんて言うのはその人の受け取り方でいくらでもかわる。それは自分が思うとらえ方とは限らない以上、自分の思う「わからせた」も「影響を与えた」もない。

影響を与えようとしたその自分の意志と価値観も意図も、相手からすれば少しも関係ないし、感知もしていないどうでもいいことなんだ。

「わからせること」なんてこと自体初めからできない。

言葉は人によって解釈がバラバラ。だからそもそもわからせるっていうのはできない。もしそれが可能な状況を考えるなら、自分と全く同じ価値観や考え方を共有してない限り無理。自分と同じ言葉の受け取り方、解釈の仕方を刷り人でなければ、そんなことはおこらない。

でも人間は実際のところ、それぞれ独自の人生を生きているわけで、体のつくりも生まれた環境も育った環境も違うわけなのだから、最初から誰かと同じ考え方を持つなんてこと自体誰もできっこない。

初めから人生の積み重ねがバラバラなわけで、そんな根っこから違う他人を、ただの言葉だけで自分の価値感や考え方をわからせようだなんて土台不可能な話なんだ。

屈服できた、わからせたって思えるのはあくまでそう自分に見えているだけの話。相手の反応から目で見える態度や耳で聞こえる言動から、そう自分が解釈して思い込んだだけにすぎない。相手の頭の中を確認できない以上、本当にわからせられたかどうかすらもわからない。

本当にそれを望むんなら、自分の人生をその人に生きなおしてもらって自分と同一の個体にでもなってもらわない限り無理な話。

そんな無茶苦茶な妄想を、本当にできていると思い込んでいる。それに執着するレベルで。

不安に”駆られて”

誹謗中傷は楽しんでやっているから、というよりは、落ち着かないからやっている、といった方が近いのだと思う。

他人に対する恐怖がそれをせかす。駆り立てる。自分に対する自信のなさがそれを駆り立てる。

まるで”何かに駆られるかのように”、”あらがえないかのように”、衝動的にやっているんだ。

慢性化した無意識の不安感

そして多分当人はそれを不安感や恐怖とは思っていなくて、

むしろごく普通の日常の感覚になっていて無意識になってしまっている。それについて何の疑問も考えも持っていない

ずっと悶々とした不安感、恐怖が、自分の体全体を覆うような感覚で覆われているかのような日常を送っているのだけれど、それが当人の中で普通になってしまっていて、それが異常であることにきづかない。

でも不安や恐怖はそれ自体には違いないから、それを解消するために他人をたたくことを日々繰り返している。

それを気持ちがいいことだと錯覚して、誹謗中傷を自分にとって楽しいこと、いいことだと思ってやっているんだ。

だからそれ以外のことが関心に入っていかない。そんな余裕がない。

だって必死なんだもの。どうにかして自分のコンプレックスを解消しないと落ち着いていられない精神状態だから。

不安で自分を動かす習慣

自身の無意識的なコンプレックス、自分に自信がないことからくる不安、不快感。

その感覚を、普段何気なく行動しようと思ったときの動機、感覚として無意識的に使ってしまっている

恐怖や不安で動くのが普通になっている。その感覚から他人の都合や義務感や個人的な正義感で動くようになっていて

例えば「これをやらないと叱られるから」とか、

「こうしないと変だと思われるから」とか、

はじめに自分を外のなにかを使ってそれをやらないといけない、やらないとまずいことになる、という恐怖を作り出して行動しようとする。

ようするに、普段の生活がすべて他人からやらされているような、やりたくないことでできてる。

まるで常に他人に自分のやりたくないことをやらされているかのような気持ちで生きているんだ。

他人に嫌われるかもしれない、他人に怒られるかもしれない、他人に見下されるかもしれない、他人に自分を否定されるかもしれない。

そんな風に、「他人に迫られる、駆られるかのような、せかされるような感覚」でそれに従ったり、逆に反発するかのように何かをすることが日常になってしまっている。

だから誹謗中傷を止められないんだ。ずっと抑圧されているような感覚で生きているんだもの。

そう感じて生きるように育ってしまっただけ。

ではなんでそんな風に彼ら彼女らがなってしまったのかといえば、

それは家庭環境、学校生活、職場の人間関係の中で歪んでいってしまったからなのだと思う。

支配的な親から支配的な教育を受けてとか、全く愛のない冷たい家庭で育ったとか、学校でいじめられて人格を否定されたり、仲間外れにされてしまった。

その経験から、常に他人に気に入られないといけないと思い込んでしまった。本当はそんなことないのに。自分のことをおかしいとか間違っている言う人がいても、その人に屈服なんかせずに、自分のことを信じて、そのまま楽しく前に行けばそれでよかったのに。その上で仲良くなれる人と仲良くなればよかっただけだったんだから。

結果、社会の中で素直な自分自身でいることが怖くなってしまった。社会に所属するために、コミュニティに所属するために、自分に嘘をつかないと生きていけなかった。周りの目を気にし、時には屈服させないと攻撃されるからすべて叩いてつぶさなきゃいけない。

やがて他者に畏怖と敵意をもつようになってしまい、他人のことばかり考えて自分で自分の思ったように自分で生きて、自分のために自分のことをいたわったり、成長したりすることができなかった。

自分で自分の人生を楽しんで、楽しいものにしていくという最初の一歩を、常にくじかれ続けた。

他人を巻き込まなくてもいい、自分が何かのヒエラルキーに所属してなくたっていい、そんなただの自分自身でいること。ただ一人の孤独の自分でいることが怖くなってしまったから。

そうやって、自ら恐怖に駆られるように他者に対して勝ち続けなければならない、上でなければならないという自身の在り方を作り出すことに至ってしまったんだ。

それを引きずったまま大人になってネット上で爆発させている、ということなんじゃないかと思う。

彼らは怖い存在じゃない。むしろとてももろく、弱い存在

彼らは一見言動が支配的で攻撃的だから強くて怖い存在のようにみられがちだけど、実際蓋を開けてみるとその本質はとても虚弱的で脆い。

たとえるなら、アカギという漫画に出てくる鷲巣巌みたいなもの。

「本来鷲巣はそれだけの男…!鷲巣のあの大物然とした気配風貌はあくまで金が前提…!その金という前提…『着ぐるみ』をはがせば、もう何物でもない。そこから出てくるのは一匹の狂ったネズミ…!異様にぎらつかせた目の…醜悪なネズミが…一匹いるばかり…!」

鷲巣というキャラクターは若者の若さというものに嫉妬するあまりに、その若者本人の血液と大金をかけた高レート麻雀に若者を招待しては、血液を致死量まで抜き続け殺し続けて愉悦を感じるという趣味をもっていたものすごい金持ちの男。

アカギと自身の大金とアカギの血液、つまり命をかけた麻雀で戦って、結果自身の持っている金をすべてアカギにとられそうになって追い詰められたときそんな化けの皮がはがれる、というシーンがあるんだけど、それに似ている気がする。

鷲巣のそんな弱さが露呈したとき、そこにいた鷲巣はアカギという今まで自分が見下していたその辺の若者にただおびえ続ける老人でしかなかった

それと同じように、誹謗中傷を行う彼らがあれだけ強がっていて高圧的で、攻撃的で否定的に他人に絡むのも、その演じている強い自分着ぐるみの自分を他人に認めてほしいから。認めさせたいから。他人を屈服させて、自分は強いんだ、強者なんだ、他人は間違っていて自分は正しいから教えてやって納得させてやった、って思いたいからそうしている。自分こそが真実を知っていて、それを分からない人間を救おうとしてやっているんだ、とメシアコンプレックスからそうしている場合もある。

そうやってどうにか自分に自信をつけようとして気持ちよくなろうとしている。安心しようとしている。

そういう着ぐるみをきたがる心理、強がろうとする心理っていうものの正体、つまり自分に自信がないから、自分という個が嫌いだから、自分という孤独が怖い、嫌いだからそうしているという心理が露呈してしまえば、そこにはただ他人におびえて狂ったように目をぎらつかせたただの小さなネズミが一匹いるだけ。

自分独りで自分を認めることができないばかりに自分を苦しめて自分を素直に感じられない、寂しさを抱えた哀れな狂ったネズミがそこにいるだけだ。

だから彼らは実はとても臆病で、他人の目が怖くてたまらない、むしろかわいそうな人たちですらある。

この時代のある種の犠牲者ですらある。村社会的な気質の大人たちに囲まれて、他人の目に抑圧されなきゃいけない環境で必死に生きることを余儀なくされてあのようになってしまったんだと。

そういう意味ではそんな村社会的気質をよしとして、それにならように生きてきてしまった私も(そもそもそういう人間だったということを別にしても)全く責任がないわけじゃない。間接的な加害者といえばそうだし、多分そんな日本人全体の風土が生み出している負の側面的なものなんだろうと思う。

多分いじめをする人も同じなのだと思う。自分よりも弱い人をいじめて支配欲を見たいしたい、そんな心理は、やはり自分に自信がない脅迫的な意識から来ているんじゃないか、そしてその空気を作っているのは家庭だったり社会だったり、日本独特の村社会空気からくる様々な抑圧の連鎖によるものなんじゃないかと。

結果そんな自分にとってとてつもなく大きな脅威。親や社会、クラスメイト、同僚など、そういうものたちに対してどこかで心が折れて闇に落ち、他人を憎んで他人を苦しめることを自分の快感だと錯覚してしまった。

そんなあまりにも哀れで苦しい存在。

そんな風に自分のことを考えなくていいのに。他人に許されなくてもいいのに。

他人なんて関係なく自分自身に素直になっていいのに。他人のことを気にせず、他人のことをまきこまないで、自分自身のまま、たった一人のそのままの自分でいていいのに。

そうしたら他人を憎む気なんて起こらなくなるのに。

それをしようとしないから、気づく機会がないから、たとえだれかに注意されても、世の中の風潮が変わったとしても、相変わらずそのまま誹謗中傷を続けてしまう。

だから私は、彼らのことを怖がるくらいなら、そんな風に人生を歩んでしまったんではないかと憐れむくらいがちょうどいいのではないか、と思うんだ。彼らは別に怖い人達じゃないから。むしろ、あちらからずっとこちらを怖がっているといった方が近い。

もちろん彼ら彼女らの行いを許せ、だなんてことは言わないし、その必要もない。彼らをいたわる必要も別にないと思う。彼ら彼女らとは関わることを避けた方が一番だ。

仮にその人たちを憎んだとしても、それでは自分が不快感を感じるだけ。彼らと付き合っても、自分にいい影響はないだろう。カサンドラ症候群みたいに、自分も彼ら彼女らのようになってしまうかもしれない。

彼ら彼女らはきっと変わることはないと思う。私はその中ではレアケースだったのかも。「これじゃ自分が苦しいだけだな。何も変わらないな」ってそんな自分のことに客観的に気づく機会があって、必死で自分を変えてようやくそんな自分を変えることができたから。

気づく機会を得ること自体、多分そんなに多くない。それに足る気づきを得るっていうのはなかなか難しいんじゃないか、と個人的に思う。よほど追い込まれたりよほど心を打つ気づきでもない限り、そんなことにはならないんじゃないかと。

きっと彼らは誹謗中傷することが気持ちのいいこと、自分の人生を面白く愉快に、安全にすることだと思ってやっているはずだから、多分辞めようだなんて思えないはず。

人が変わろうとするタイミングって、「この先自分を変えないとまずい」って自分で気づいたときだけだから、彼らには多分そんな機会が訪れることはなくて、だからそれを期待しても意味がない。

だからいくら腹を立てても、あまり意味がないんだ。

だったら、もう気にしないで、かわいそうな人が愛されたくて泣き叫んでいるのかとちょっとだけ憐れんで、後は関わらない。それでちょうどいいと思うんだ。彼らがこの先変わろうと思うかどうかがあったとしても、それは自分には何も関係はない。それは彼ら彼女らの課題。

自分の人生の方が他人の人生よりもずっと大事だ。だから自分の人生を楽しく生きることに集中して、彼らのことは世界から外してしまった方がお互いにとって一番いいんじゃないかと思う。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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