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「わかっている人」なんて存在しない
人は自分の見ている主観の世界でしか生きていません。自分の感じ方や考え方、価値観や宗教観など、様々な自分の主観の世界を構築しているそれが、この世の真理ということはない。
人が世界に対して見出すことは、すべてその人がそう見たいという目的意識があってこそのものでしかなく、最初からそう決まっているかのように見えているものでも何でもありません。善悪という概念はこの世に最初からあったものではなく、人が勝手に善悪という概念を作り上げ、思い込み、それを継承してきただけにすぎません。
もしそういうものがあるのだとしたら、それはこの世で本当に唯一無二のものになっている必要があるでしょう。
本当に皆が一様に同じ主観、世界の見方をしており、それ以外の世界の見方があり得ない、ということでなければなりません。真実は一つでなければ真実ではないでしょうからね。
つまりそれは「この世には全く同じ人格構造と主観を持っている人しか存在しかいない世界」でなければ成立することはない、ということです。
人間という限界は誰にも超えられない
でもそんなのはありえないでしょう。みな性格も価値観もバラバラであろうからです。先のことなんて誰もわかりえないでしょう。自分の人生のことすら、先のことなんてわからないだろうからです。
「あろう」というのは、筆者である私は私の主観でしか世界をとらえられないため、ほかの人の主観の世界を知らず、感じられない以上証明できないからです。精々自身の5感で、外から見える情報、五感や声色、身振り手振りなどをもとに、自分がこれまで生きてきた経験や価値観を元手とし、「自分とは違うな」と思うところを想像することが限界です。
しかし、そんな主観の世界であっても、人の思考というものの枠組み、ものをとらえて何らかの形でみなして記憶する、という形はさほど違いはないのではないかとも思います。そして自分と同じように、他人の頭の中をのぞいて理解する機能を持ち合わせていないだろうということも、他人もその点では同じではないかと思います。
そして、人は生まれてから死ぬまで自身の周りの環境によって自らの性格や価値観を作り上げていくのだ、ということについても、大体は当てはまるのではないか、とも思います。ゆえにそれぞれの生まれた場所も育つ場所もすべてバラバラであるから価値観や考え方もバラバラになり、かつ自身の主観という閉じられた世界であるために、ほかの人の人生すら実は全く知ってもいないのだろうとも。
そんな閉じられた主観という、自分の世界のことしか知らない世界を生きているだけの人間という生物の中で、外的に定義された不変の何かを「わかっている人」なんていうのは存在しないだろうと思うわけです。
この世の真理、この世の正解、それを知っていれば人生はすべてうまくいく、間違いのない、優れた、真実の人生を送れる何か。
「そんな知識をこの人はしっている」なんて言う思い込み。
そんな真実を知る人なんていうのは存在しないでしょうと。
それを踏まえて「この人はわかっていると思うこと」について考えてみると、
それは周りに無数に存在する無知な人間の中からある誰かを、それを枠組みを超えた存在、人間を超えた存在である「神」であると思い込んでいるようなものであり、
それはつまるところあるただの人間を神とあがめ信仰しているという、単なるカルトではないか、と思うわけです。
支配と依存の関係でなりたつ優生思想的カルト
そもそも人を神としてあがめる心理はどこからくるのでしょうか。おそらく神と信じたい側からすれば、それは神から真実を与えられること、絶大な力を持つ上位の存在から何かを与えられることで、自分は幸福になれるとか、わかっている人の意見を聞いて失敗とは無縁の正解の人生を歩みたいとか、その人と同じかあるいはそれ以上にわかっている存在になれる、そう思い込みたい、感じたい、ということを欲しているためなんじゃないか、と思います。
自分で何かを考えて行動する、というものではなく、「この人が言っていることだに従っていれば救われる、大丈夫」といった盲目的なものです。
つまりは自分で自分の人生を信じたり、自分のことを決めたりすることが怖いんじゃないか、シンプルに自分に自信がないからだと思うのですよね。
この考え方は依存的であるともいえます。その人なしには自分の行動を決定できない、ということでもありますからね。
つまり自分の自信のなさを、例えば今の世の中でいうところのインフルエンサーといわれるような絶大な支持やカリスマ性を持つ、「知っていそうに見える誰か」に担保してもらいたい、依存したいだけなのではないだけではないかと思うのです。
でも当然なのでしょうけど、彼らは神様じゃないんです。有名なYoutuberさんだったり、様々な活躍をされている方がいらっしゃいますが、彼らも私たちと同じ「ただの人間」でしかないんです。
むしろ彼らにそんな「重責」を勝手に期待すること自体、あまりにも重すぎことではないでしょうか。
人間という機能を超えた「全知全能」「なんでもわかってるなんでもしってる」「これから先のことが”わかる”」なんて人はいない。完璧な人、すべてに優れている人なんて存在しない。100%唯一無二の真実なんて人は知りえないのだから、それを人間という存在から得ようとしても得られるわけがないんです。
そのただの人間を「真に知っている人」「真に優れた人」とあがめるのは、オウム真理教など、日本で割と前からあるカルト信仰の本質とあまり変わらないのではないか、とも思うのです。
別に明確な宗教団体でなくとも、そのようなカルト的性質を持つ価値観というのは他にも割とたくさんある気がします。普通信仰、常識信仰、恋愛信仰、ルッキズム、正社員信仰、権威主義など…日本には何か特定の「外にある良い、優れているとされている「みんなが賛同する何か」を良いもの、良いものであって当然のことだとし、そうでない何の支持もないものは「ゴミ」としてみるカルト的価値観がたくさんあるように見えます。
それはみんなが良いと思わない、みんなからの支持を得られない、自分を独りにする何かには価値がない。そんな他人から村八分にされる、という孤独に対する拒絶の思い込みからくる価値観なんじゃないでしょうか。
そのような「外にあるもの」に自分に寄せることや、逆に寄せられないことをコンプレックスにしてしまって、そればかり考えてしまって自分の純粋な気持ちや欲求、感覚はおざなりになっているように見えるんですよね。
自分のことを自分で好きにならず、周りから支持を得ている自分になりたがるんです。独りの純粋な自分を好きになろうとせず、自分の価値を誰かや何かに保証してもらいたくて、つまりは自分に自信がなくて、外にある権威ある何かにすがる。自分の感覚や気持ちに嘘をついてでも大多数派と同じになることがいいことだと思い込んでいる人というのは、多分日本ではありふれた価値観なんじゃないかと思います。
優生思想という劣等感からくる思想形態
となるといくらあるカルト教団を解体しても、その風習や文化、考え方、価値観などの気質が変わらない限りはまた新たな形のカルト教団やカルト的価値観が出てくるだけなんじゃないか、と思うのですよね。
そしてそのような姿勢、思い込み、価値観が優生思想を作り上げるんじゃないかとも思います。
「みんなが支持しているものがいいもの。そうでないものはゴミ」
これはまさしく優生思想そのものでしょう。
そのような背景から考えてみると、優生思想とは自らのコンプレックスを解消するために「自分が優れた存在である」ということにすがり、それを担保する外の何かにすがって自分を肯定しようとする、つまり自分で自分に自信を持つことが出来ないという自身の劣等感を元手に行う思想形態といえるかもしれません。
自立した人間は「無知な人間」
もし自分に自信を持っている人であれば、ある人を「分かっている人」としてあがめることはないのではないかと思います。
あがめてその人に自分の行動や指針、価値観を決めてもらったり、評価してもらうことよりも、単に自分で決めて自分で行動することを選んで人生を生きようとするんじゃないでしょうか。
そもそも、自分のやることをいちいち他人に確認を取らなきゃいけないなんて、面倒くさいだけですものね。会社の承認プロセスじゃないんですから。
おそらく自分で生きるタイプの人は、誰かに決めてもらって生きている人からみるととても愚かで馬鹿に見えるのではないかと思います。社会の推奨する人間になることを意識せず、権威にすがらず、いわゆる「意識低い系」とまで言われてしまうような人たちというのは、ある何かを狂信的に信仰する優生思想的なカルト体質な人たちから見ればますますもっともらしくそう見えてくるんじゃないかとも思います。そしてそれは、おそらく本当にそうなのだとも思います。
「自分は何も知らない。何一つ先のことも分からない。だから自分で勝手なことを考えては失敗し続けて、何度も何度も失敗して、それで苦労もするだろうし、決して楽ではないと思う。でも人生で成功するだなんてそんなの知らないし、どうでもいい。」
「でも好きに自分のしたいことで生きていければそれで十分幸せなのよね。」
無知でバカで愚かであるというのは、本当にその通りだと思います。
でもそんな風に他人に何を言われても、どう思われても関係ない。結局誰も先のことなんて分からないですし、保証なんかもできません。
誰かの意見に従っていても苦しいだけで、社会の常識や社会の求める誰かになっても何も面白いことなんかなくて、ただただ苦しいだけ。
だったらバカな方がいいんです。自分で決めて生きた方がずっと自分らしく気持ちよく生きていける。無知である自分を受け入れて生きた方が自由で幸せだとして、そんな人生を生きることも選べるんですよね。
自分が無知であることを知っている人からすれば、自分は何かを知っていると思い込んでいること、外に何か絶対的な価値や真実があると思い込むことがいかに自分を「それを知っていなければ恥ずかしい人間」「その通りに生きなければダメだと思い込む人間」に仕立て上げ、そう他人から見られたくないという思いから他人の目や社会の評価を気にすることで自身を苦痛に晒し自身の精神的な自由を奪ってしまうこと、他人に依存し、自らの勇気をすて奴隷のような生き方をしてしまうだろうということを経験として知っています。
「自分に自信を持つ」、というのは、自分が無知であるという現実を受け入れたうえで無条件に自分に自信をもって、自分の選択を信じて前へ進み、生きることなんじゃないかと思います。
それが自立というものではないでしょうか。周りの目を気にせず自分の意志で生きること。誰かの意見にも思想にも左右されず、単に無知な自分に自信をもち、無知に自分で決めて生きる。
そうして初めて自分の意志で何かをすることができて、仕事をすることができて、学んでいくことができるんじゃないかと思います。
それだけのことです。別に難しいことじゃないんですよ。優生思想なんていりませんし、他人を見下すこともなければ拝む必要もありません。
むしろ、こんなに簡単な生き方もほかにほとんどないでしょう。自分で超えるハードルを選んで、自分の好きに調整できるわけですからね。
でもそう生きるのが怖いからと、保証されない人生を生きるのが怖いからと「わかっていそうな人」にそれを預けて「価値ある超えるべきハードル」を用意してもらいたいというのなら、それはやっぱりカルトなんじゃないでしょうか。
先日あったメンタリストDaiGoさんの炎上の件もそうですが…
自立していれば、「ただの人間という神」という存在もまた必要ではなくなります。ただの人間を神のように扱い、自分の人生を決めてもらおうと依存し続ける限りは、その他人が言っていたことが間違っていたとか、見当違いだったりとか、これまで行っていたことや態度、考え方を突然覆したりした場合、あるいは自分の周りが急にその人にそっぽを向いてしまった場合、その他人に預けていた信用を裏切られてヒステリーを起こす可能性を自らに植え付けるだけで、むしろつらい人生になることの方が多いんじゃないでしょうか。
先日あったメンタリストDaiGoさんの炎上の件もしかりですが、自分と同じただの人間が言ったことをヒステリックに騒げるのは、それだけその人の言っていることを「わかっている人がいっていること」のように、「真実を言っている神」のようにとらえているか、それを前提として考えている人が多い証拠なんじゃないか、なんていう風に見えてきますね。
「よくいってくれた」なんて、単に自分が個人的に言いたいこと、思っているだけのことを権威ある誰かに言わせたいだけなんてこともあるんじゃないでしょうか。それで自分は優れている、大丈夫と思い込みたい。それだけなんじゃないでしょうか。
影響力のある人はその発言に責任を持たなければならない、という声もききますが、それ以前に聞き手がただの他人に対して抱いている「ただの人を神扱いする認知の歪み」の方も個人的には問題かな、という風にも思います。
他人の言うことは真実でなく、多く見積もってもあくまで自分がしたいことを達成するために使うことができるオプション、参考意見でしかありません。自分の意見の代弁者でもありませんし、自分の意見をどこかの誰かに言わせたところで、その人も自分と同じただの人間でしかありませんから、ただの個人的意見、感想であることに変わりはない。そこには何の保証もありませんし、真実もありません。
何れにせよ、他人も自分もただの人間で、できることは限られていると受け入れた方が、自由に楽に、健やかに生きていけるんじゃないかと思います。だれしも神ではないのなら、自分の人生は自分で決めた方が楽、楽しい。そうすればそんな他人への関心持ち方も変わっていくのではないでしょうか。
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