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「善悪」に「真実」なし
人の作り出す善悪という概念には、真に正しいことや真に間違っていることがあるわけじゃない。
人間ができるのはその主観的な世界で現実をとらえて思い込むことだけ。つまり人のあらゆる信条や文化は突き詰めればすべて宗教であり、かつ、個人の主観にすぎないことから個人的な宗教観に基づいたものしか見出すことができず、ゆえに善悪というその捉え方、考え方でさえも個人の宗教観の域をでることはありません。
別にこの世が生まれた時からある普遍的真実とかそういったものではないわけです。どこかの誰かが思いついて、それに賛同し続けた人がいて、それが今まで引き継がれているだけ。
それらはすべて人間が勝手に決めたルールで、もし人間がいなかったら存在すらしなかった概念でしかありません。
人間は自分の思考という世界をもっているからこそ、そのようにいろんなものにいろんなものを、自分の思いたいように見出してきただけ。それを文字に残すことができるようになってからは、それを読んだほかの人にもその人なりの想像で似たような想像をすることができるようになり、それを引き継いできただけのこと。
世界というとらえ方すら、人間の作り出した概念でしかないわけです。
人を殺すことが悪だとされているのは、人間が存在したから生まれた概念。人に親切にすることが善だとされているのも、人間が存在したからこそ生まれた概念。
人間がいなかったら全部存在していないのです。ただ何の意味もなく理由もなく、ただただ存在し、動き続けている世界、人間の思考、つまり思い込みが存在しない現実がただあるだけなのが、この世の姿なわけですね。
何も考えずただ目の前の世界を見てみてください。そうすればいかにこの世界が静かで、重荷も何も存在しない世界であることがわかるんじゃないかと思います。
だから人間としての本質的な正しさみたいなものがあるわけでも、人間としてのあるべきありかただとか、人間であれば当然すべきことというようなものもあるわけじゃない。
「お前は悪だ、おかしいやつだ、人間として間違った存在だ」と言われたとしても、それは世界でそう決められているこの世の理のようなものでは全然なくて、その人の個人的主観の中ではそうだというだけの話しであって、それ以上でも以下でもない。
ただその人が「お前のことが気に食わない、嫌いなんだ、どうして俺の思い通りにならないんだ」という個人的要求にすぎないことをを大げさに、”善悪という虎の威”を借りて言っているだけのことでしかないのです。
善悪が利くのは法律くらいのもの
人間にとって善悪という概念が有効に働くものがあるのだとしたら、それは法律による裁きの場くらいのもの。
法律は法治国家での国レベルのルール。それにはどんな人間でも従わざるを得ません。
紛争や内戦が続いている地域はまた別の話だけど、この日本という治安が安定している国にとっては、一部の例外を除けば法律というのはほぼ絶対のルールだといえる。
だから法律を守ることが善で、破ることが悪だ、という理屈なのであれば、一応筋は通ります。
ただ、それ以外の場面、法律に関係ない個人の人間関係のもつれややり取りで善悪を持ち出すというのは、やはりそれぞれの個人ごとの価値観、宗教観に左右されるものでしかなく、ただのその人の感想にすぎないのです。
だから例えば、私情で人を善悪で裁くというのは、「裁く」という意味においてそもそも全然できていないんですよ。
法の裁きの元以外で人をジャッジしようとしても、法律のような大きな後ろ盾を背にしてやれるわけじゃない。法的拘束力があるわけでもないし、自分がむかつくからという欲求不満が解消をしたいがためにしているだけのことだから誰の役にも立つということでもない。
たとえその行為に誰かが賛同したり同調したりしても、国の全員が賛同していることを意味はしないし、仮に多くの人が賛同するからといって、それが真に正しいとか間違ったことであるかなんてことにはならない。別にこの世界が民主主義で成り立っている世界だ、なんて事実があるわけでもないし(動物や虫、微生物たちが民主主義で生きているわけがないのだし、そもそも民主主義じゃない国もあるし)。民主主義を実行している国に自分が生きているという話なだけです。
それにその法律でさえも所詮は人が作ったルールに過ぎないことは変わらない。だからもし法律を破ったとしても、それでその人間が完全に間違った存在である、だなんてことは言えない。悪魔で人間が決めたところの法律を犯した犯罪者には違いないが、それが完全な「純粋悪」であるなどということは意味はしないし、できない。すべて人間が勝手に決めたルール上での取り決めでしかないですからね。
ただの自分の私情、自分の思うルール、価値観で人を裁くのは、ただ私刑を実行しただけ。ただその人がその人の価値観で、個人的理由でその人を裁き、否定した、攻撃した、人格攻撃したというだけのことでしかありません。
個人で人を裁いてもただの攻撃になるだけ
個人では法の番人にはなれない。当然神でもないから、真に人を裁くことなんてできない。
みなただの人間ですからね。
ただの人間が人を自分の思う善悪で裁いたところでどうにもならない。裁判はただの仕事で、社会や誰かにとって必要なことだから行われているというだけ。
それを私情で実行してもただの攻撃にしかならない。それ自体何の役にも立たないわけです。
私情で人を裁いたところで、その人の気持ちはそれで晴れるかもしれないけど、それで社会がよくなるわけでもない。
それで言われた相手がネガティブになったり他人を恨みを持つことになり、将来新たな犯罪を起こしてしまう人になる要因になってしまうかもしれない。実際ここ最近の大量殺人を起こしている人の中には、過去にいじめにあっていたことや、家庭環境によって他者からの支配や攻撃によって人格をゆがめたという経緯がある人は良く見られます。
となると、そのような人たちをただ攻撃しても逆効果でしかない可能性の方が高いですよね。
他人にイラつくのだって気持ちのいいことじゃないでしょう。他人に腹を立てて他人を裁きたくなる気持ちっていうのは少なくともいい気分じゃない。それにいくら他人を裁いても、自分が気に食わないと思う他人、つまり自分の思い通りにならない他人という存在は、自分がそう見ようとすればそれこそ世の中ゴロゴロいるわけで、それを相手にしていてもきりがありません。ただただ自分がイライラして、イライラする他人に気を取られて、人生がイライラでいっぱいになってしまうだけです。
善悪をもって人と接するという行為は幸せになることよりも不幸になることの影響の方が大きいと思うのです。
だったらそんなことをするよりも、もっと自分が気持ちがよく、健やかになれることをした方がずっといいんじゃないかと思うんですよね。
善悪の概念を捨てて、ほかの楽しいことを考えた方が、自分にとっても社会にとってもいい影響はあるんじゃないかと。善悪の判断の仕事、裁きの仕事は立法機関にまかせていればいいわけだし、今の法律で足りないというのならその法律を改訂し続ければ済む話。
プライベートの時間、自分の仕事の時間、望むならすべての時間に他人にイライラしなくて済むし、他事に目が向けられるようになれば自然と自分も明るくなる。その方がずっと世の中に何か役に立つことを自然に考えて、楽しく生きていける。
世の中を良くしようと自分から思えるのって、自分自身が満たされている必要があるんですよね。それがないと、他人に不満を感じて、他人を屈服したくなったりする。
ひょっとしたら善悪を他者に振りかざすのは、自分が満たされていないからという理由があるということもあるのかもしれません。
であれば自分を満たしさえすればぜなくにとらわれる理由もなくなるということになります。
そのためには自分で自分の人生を明るくしていく必要があるわけです。それができる人が増えていく形にした方が、世の中が明るくなれば活気も出ていろんな人がもっと気楽にいろんなことをやってみたくなるようになるだろうし、自分を否定せずに素直でいられるようになれば人を憎む人も減っていくから、私怨で犯罪を犯す人も減っていってそっちの方がいいように思うのです。
人を私情で裁くことが、人を善悪をもって接することが自分自身を、誰かを、世の中を生きづらいものにしている要因に一役買っているかもしれないんですよね。
だったらそんなのはやめた方がいいと思うんです。そんなことをしても、別に面白くもなんともないわけですしね。
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