よく巷では「誰かのために何かをすることがいいことである」という風に言われていますよね。
それは私もそう思います。誰かの利益になることをすること自体は、私自身も好きなことなのでいいことだと思います。
でもかといって、「誰かのためになることでなければ何もしてはいけないのか」というと、そんなことは全然ないんですよ。むしろその考え方は最悪だすら思っています。
誰かのために何かをしたいと自分が初めて思えて、そこに価値が出てくるんです。
目次
まずは自分がしたいことが大事
例えばですね、このブログ。私は自分が書きたいことを書いてます。本当に純粋に書きたい、表現したいと思ったことを書いているだけで、「こんなのやくにたたねぇよ」「誰のためにもなってねぇんだよ」といわれようがどうでもいいんです。
そんな他人の都合よりも、自分の表現したいという気持ちの方がずっと大事だからなんですね。これがあるから人生は楽しいし、いろんなことをやってみたくなっていろいろチャレンジするんです。
それだけの話しなんですよ で、そんな私の都合とこれを読んでいる方の都合って全然関係ないんですよね。
「なんだよ、俺のために書いてくれてるんじゃなかったのかよ」とか「ブログで情報発信するんだから、誰かのための文章を描くことは当たり前じゃないか」といわれても、ただの個人的なその人の考えに過ぎないんですよね。それが間違っているっていうわけではなくって、その人の考えであって、この世の真実じゃないっていうことです。そうじゃなきゃいけないなんてことは全く決まっていないし、そもそも個人的な考え、意気込み”自体”がそれを使う人、ここでは読み手の方に影響を及ぼすことなんて別にないんですよ。
自分の在り方によって書く文章の内容は変わってくるかもしれません。ですが、書き手である私の思い”自体”が、読み手の方に影響を及ぼすなんてことはないわけです。だって私の頭と、読み手の方の頭って全然つながっていないわけですからね。
全ては読み手の方自身の解釈だけが影響を及ぼしてるだけなんです。
例えばですよ、あるハサミが売られていましたと。何の変哲もないハサミです。
で、そのハサミはある工場で作られていますと。でその工場では人が手を使って組み立てを行ってハサミを作っているとします。
その中には当然従業員の方がいるわけですけど、従業員の人って、当然の話なんですがそれぞれ意識や考え方、価値観が全然違うわけですよね
すごくまじめな人もいるし、不真面目な人もいるわけです。でもその思いとは裏腹に世に出回る出来上がるハサミはほとんど違いがないわけですよ
だって違うものだったら検品で落ちますし、世に出てきませんし、そんなものばかり作る人だったら首になっているか、仕事をさせないようにしますよね。だから大抵の従業員さんは首になりたくないでしょうから、意識が低かろうが結果を出すために仕事はするわけです。つまり、そのような考え方をした人が作ったハサミも、普通に流通しているわけですよ。
でもそれ、そのハサミを使う側からすればどうでもいい話なんですよね。
そんなの知らないし。関係ないんです。実際そうでしょう?はさみ使っているときに、作り手の考えていたこととか意識が伝わってきたりしますか?
しませんよね。そもそも求めてもいない。想像しようとも思わないでしょう。ハサミとして使えれば十分ですもんね。
ハサミ以外の様々な道具たちもみんな同じですよ。食料品、家、ベッド、扇風機、エアコンなどなど…
自分の身の回りを取り囲んでいる様々な人工物はすべて自分が持つ目的に対して使えているならもうそれで十分なわけなんですよね。
それと同じことです。自分の思いと、自分が作った何かに対する相手の解釈や、目的、思いは決して交わらわないし、伝わりません。すべては他人の解釈と使い方の自由でしかないわけです。
その人がひねくれていれば、どう書いても斜めに構えたような捉え方をしますし、前向きに捉えようとする人だったら、気に入った内容だったら自分の好きなように解釈して受け入れるでしょう。でもそれって作り手であるこちらの思った形ではないでしょうし、こちらの思った「誰かのために」の形でもおそらくないわけです。確かめようがないし、わからないですしね。
だから「誰かのために」とか思っていても思っていなくても他人に対する影響は全く変わらないんです。
だとしたらですよ、それって自分にしか影響がないってことになるわけです。自分の心の在り方や感じ方、思考、感情といったものにだけ影響があるわけです
となると「誰かのためになにかをしなきゃいけない」と思い込んで必死にプレッシャーと義務の意識で自分を駆り立てて無理やり仕事をして、自分を苦しめるのか、全部そんなのどうでもいいと捨ててしまって、自分がしたい、作りたい、表現したいという素直な気持ちで仕事をするのとどちらがいいか、という話になってくるわけです。
私は俄然後者でやってますが、こっちの方が全然楽しいですよ。自分に素直になれますしね。自分に素直になると、自分のやることもストレートになって、素直になっていくのですよ。
つまりその素直な自分で何かを書こうものなら、その内容はストレートになるわけです。自分の言いたいこととか、表現したいことを、制限なしに、その時の自分の気持ちや考え、感覚を総動員して気持ちよく描くことができるわけですね。
その生産性の違いたるや、前者とは比較になりませんよ。ずっと手が動きますからね。
なので、誰かのためになることをしなきゃいけないと自分に強いて何かするのは、自分に毒を仕込んでいるだけなので、やめた方がいいいですよ、ということなんですね。
そんなの気にせず、自分がやりたいように、感じたいように、表現したいようにそのままストレートに自分を使って表現したり何かを作った方が全然いいですよ。
自分のしたいことをやることができる心があって初めて、誰かのためになにかをしたくなるんです
自己満足ができると、今度は他人を助けたくなってくるわけです。自分が満たされていれば、これ以上自分を満たすために何かをする必要はなくなって、次の段階として誰かのために役に立つことってないかな、って”考えたくなって”やり始めるわけです。
「誰かのために」というのは、自分を好きでいる前提、自分に素直になっている前提、自分のしたいことを素直に実行できていて、自己満足ができている前提があって、初めてできることなんですよ。
さらにその「誰かのために」っていうのも突き詰めれば結局は自分がやりたいからやっているだけのことなんです。だって誰かのためにと思ってやっても、さっきも言ったように、それをどう使うかは他人次第なので、関係がないからです。
だからコアはいつも「自分がしたいこと」であることは変わらんのですよ。
だから他人のためなんて考えなくていいんです。考えたかったら考えればいいだけのことです。
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