記事サムネ; pho-to-coさんによる写真ACからの写真
他人への依存とは、「この人無しでは生きられない」というような思い込みのこと。
その人がいないと自分は生きている価値がないとか、意味がないと思いこんでいる状態のことである。
なぜ他人がいないと生きられないと”思う”のか
ではなぜ、他人がいないと生きられないと思ってしまうのか。
他人がいなかったら心臓が止まるわけでもないのに。
人はその身体機能的に、他人がいなければ死ぬようにできてなどいない。
つまり、ただそう思っているだけなのである。
ではなぜそんなふうに思うのかというとそれは心理的な要因で、他人がいないと不安でしょうがないからである。
「生きられない」というのは、些か誇張した表現であり、死にそうな感覚になる、といったほうが恐らく正確で、その人がいないと怖くてたまらない、不安でたまらないというような、自分を殺すかのような苦痛の感覚である。
だから、生きられない、と感じる。
つまり、他人がいないと生きられないと“思う”のは、他人がいないと自分は安心できない。気持ちよく生きられないと“感じる”からである。
そういう思考と感覚の思い込みが根底にあるということだ。
孤独を否定している。
他人がいないと不安。
一人では不安である、という思い込みをしていることの裏にある、ある思い込み。
それは「自分一人でいることはダメなこと」だとという、自己否定の思い込みである。
人と違うことをすること、違う考えをもつことなど、一人になる可能性のあることについて否定的な考え方をもっている。
そして、その行けないと思いことを怖いことであると認知しているのだ。
結果「自分一人は怖いこと」とも思い込むようになり、恐怖に駆られる形で他人を求めることになって、この思考に囚われてしまう。
孤独への否定は、依存への肯定と同義なのだ。
恐怖は人を最も苦しませ、迷わせる原動力
こうして自身に生まれる恐怖という感情ほど、自分を脅迫的に駆り立て、それ以外に考えることができないようなことになるものはない。
恐怖という感情ほど、自分を支配し、縛り付け、引きずり込むものもない。
それだけ強烈に、強固に思い込みを作り上げて出来上がる思考形態が他人への依存なのである。
だから依存は抜け出すことが難しい。
一度そう思い込んだら、自身がこれまで構築した恐怖の思い込み達が抜け出すことを許さない。
「孤独は怖いだろう?周りから相手にされない人生に何の特がある?誰からも愛されないなんて寂しいじゃないか」
と、自分を脅して恐怖を感じさせ、それに引きずりこまれていってしまうからだ。
他人に自分を同じを求める前提意識
他人に心理的な依存しているということは、他人に自分と同じものを求めている前提意識がある
それはその「いてほしい他人」というのが、「自分と同じ考え方、価値観をもつ人」であるからである。
相手の思考や価値観が自分と同じでないと、自分の心理的安全が得られないと思い込んでいるから、これを求める。
なぜ自分と同じ他人だと安心するのか
ではなぜ、他人と同じだと安全が得られると思いこんでいるのかというと、
“自分と同じなら、その人は自分に危害を加えることはない。”
“自分と同じなら、自分がされて嫌なことは知っているはずで、自分がされて嬉しい事も知っているはず”
“自分と同じなら、自分のすべてを理解してくれて、自分を安全に、幸せにしてくれる“
というような感じで、自分のことを理解し、守ってくれる保護者のような存在を求めているから。
これは逆に言えば、孤独をタブー視していることも相まって自分一人では安心することも幸せになることもできないと思いこんでいるということでもある。
要は他人が自分をコントロールしていて、その制御化でしか自分は何かを感じることができない、と思いこんでいるのだ。
日常を不安の中で過ごしている
この自分と同じ他人を求めて生きるこのあり方は、日常的な不安を抱えて生きるあり方ということでもある
というのは現実的に、「自分と同じだと”思える他人”」なんていうのは、普段の生活の中で見つけることが相当に難しいからである。
街でただすれ違う多くの他人たちをみて、自分と同じだと思うことなどはっきり言って無い。
会社や学校でも、自分と本当に気が合う、それも自分のことを理解してくれて守ってくれる人だ、なんて”思える人”など相当に少ない。
つまりそうでない他人を恐ろしいものとして見ているということは、その大多数である「自分とは違う人間という恐怖の存在」に囲まれて生活をしている、ということになる。
つまり「不安に囲まれて生活すること」が日常、ということになるのだ。
愛されたい、好かれたいの本質は、他人の加護が欲しい、である。
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つまり「他人に守られたい」のだ。
そして守られたいと思うということは、ある何かが脅威だと感じている証拠でもある。
そしてその何かというのが、自分とは違う他人、ということだ。
ゆえに、自分と同じだと思えた人間というのは、そんな”辛く恐ろしい現実”の中で唯一の心理的安全性を感じられる”避難場所”になっているのだ。
「自分と同じ他人」が唯一の”セーフゾーン”
だから依存してしまう。中毒性が高いのは一重にこの特徴、セーフゾーンという希少性である。
日常という巨大な世界、自分と違う他人という存在で埋め尽くされた世界の中に、点のように小さく貴重な、自分と同じだと思えた人。
「この人だけは自分のことを理解してくれている、愛してくれる」
と、感じる人。
そう自分に”見える”人。そんな滅多にいない存在であること。
依存とはそれに加え、自分と違う他人という存在への恐怖の思い込みからくる、恐怖が駆り立てるこの2重奏によるものなのだ。
例えるならあたり一面が猛獣だらけで、そんな中たった一つの区画だけセーフゾーンがあるような状況である。
そこにしか自分が生き残るすべはない。そこしか安全な場所はない。
だとしたらすることなんて一つしかない。
そんな風に生きている。大げさに感じるかもしれないが、まさにこんな感じだ。
私自身が…
というのも、著者の私自身依存的な人間であったのだが、振り返ってみるとまさにこんな感じだったのだ。
他人というセーフゾーンの確保に神経質になる
そんな風に他人達をとらえているので、他人という存在は自身に危害をもたらす害獣、敵、またはその予備軍か、
自分に心理的安全を提供してくれる奉仕者、または加護者、神のように映っている。
2極化した他人に対する見方への囚われ
中間、グレーが存在していない味方をしている。
なんでもない他人のような存在や、他人が味方か敵かといったことに興味を持たずに気楽にしておくことができる余裕がなく、なんでもない存在、無関心の存在として”放置しておける他人“がいない、少ない。
故に、常に他人の目を気にしてしまう。
会社や学校だけじゃなく、道端ですれ違う赤の他人すら、自分を好きかどうか、変だと思われていないかなどと気になってしまうこともある。
愛されない自分も否定する
誰も自分を好きでない孤独な自分も否定しているので、上記の他人達が全く存在していないという状況も苦痛になってしまう
だからこそ後者であるセーフゾーン、自分を理解し、自分を愛してくれる他人という保護者をなんとしてでも確保し続けなければ怖くてたまらない。
故に相手に自分と同じであるということを神経質に、強烈に求めて続けてしまう。
常に自分の思ったとおりの考え方や行動をしてほしいと求める。
愛されること、好かれることといった他人の都合に由来するものを強く、脅迫的にその相手に求めてしまう。
そしてその真逆の嫌われることからは必死で逃れようとし、相手に好かれようとして、他人が求める自分にもなろうとしてしまう。
相手に自分と同じを求めたり、維持させようとしたり、逆に自分が相手と同じになろうとする。そしてその度に思い通りにならないこと、自分を否定することに苦しみを感じてしまうのだ。
それはもう、まるで窒息でもするかのような感覚で。
“もしできなかったら死んでしまう”。それくらいの感覚すらあるかもしれない。
依存という恐怖に駆られるこの思考は、これほどに強烈にもなりえる。神経をすり減らし、憔悴しきってしまうほどに。
心身ともにボロボロになりながら、しかしその依存の中毒性故にやめることができず、ズブズブと依存の傷を深めていってしまうのである。
あるいはこんなケースも
相手が自分の知らないだれかと仲良くしていたりすると、自分のセーフゾーンが奪われたかのような気がして、激しい嫌悪感、不安感を感じたりすることもある。
裏切られたかのように感じ、恨みを抱いたり、激しい嫉妬心を抱いたりいて保護者であったはずの人すら敵になってしまったかのように見えたりする。
他人に支配され、支配したくなる心理
そのあまりにも強烈な感覚で求める欲求は、他人に自分の正しさを強烈に押し付けたり、逆に他人の正しさを自分に強烈にならわせようとする。
それも前述の他人に自分と同じを求める心理からで、他人との同化を図るためである。
他人を思い通りに支配しようとするか、自分が他人の思い通りになって支配されるかのどちらかをすることになる。
依存とは、「支配」というキーワードを軸にして他人と関わり、「他人に生きる心理形態」である。
他人に依存しているということは、この2面性を兼ね備えていると言える。
根本は同じ自分と他人の同化の欲望なので、あとはそれを達成するための方法が違うということだけ、原動力を同じにして何をするかという方向性が違うだけだからである。
だから人によって”使い分け”たりすることもあるかもしれない。
例えば、自分よりも”上”だと感じる人にはおとなしく支配されることを望み、”下”に見えれば見下すなどして高圧的に支配する、というように。
そうやって支配されたり支配したりする関係性、義務を強いたり強いられたりする関係性を様々な他人と構築していくこととなる。
依存を捨ててその呪縛から自身を解放できる
依存とは自身の他人に対する恐怖と、それをごまかそうとするための他人との同化の欲求にふりまわされ、自分の人生を見失ってしまう心理状態だ。
心の路頭に迷い、どうしたら苦しみから解放されるかがわからなくなってしまうほどに。
しかしそれでも、それを捨てさえすればその苦しみから自身を解放することができる。
中毒性の高い思考形態ではあるものの、結局は自分のただの思いこみが種。
自分の恐怖の源泉が何なのか。その源泉、思い込みに気づいて捨ててしまえばいいだけのものなのだ。
自分の心の安全に他人は必要ない。他人と同じになる必要も、他人と同じなにかを他人に求める必要もなくていいのである。
そんな”ルール”は、全部ただの思い込みに過ぎないのだから。
だからその思い込みに気づいて捨てる。これが依存からの脱却の第一歩。
その捨てる思い込みとは孤独を否定していること、自分は一人で生きられないということなどのことである。
つまり、これまで否定してきた「他人が存在しない自分」を肯定するということ。
自分と同じ他人などいない。いたところで自分の人生には何も関係がない。
そもそも本当に同じかどうかを確かめる術なんてないのだ。同じに”見える”だけ。それは前述で何度も強調して書いてきた”自分に見える”、”自分が思える”という、個人的な印象の域をでないものでしかないからだ。
誰も自分をコントロールしてはいないし、そもそもできない。
あらゆる苦痛も快楽も、恐怖も全部自分が感じようとして感じているだけ。
他人を怖いと見ようとして、感じようとしているだけ。
他人ではなく、全て自分が自分の体を支配しているという事実に気づいていく。
セーフゾーンというのは他人が作り出すものでも、他人そのものでもない。
自分が作り出すもの。安心感といったその感覚は自分が感じようとして感じるもの。
セーフゾーンは自分そのものであったということに。
必要のない考え方や価値観を捨てること。やめること。そう感じようとしたり、求めようとすることをやめて、一人の自分という本来の自分をちゃんと見てみる、感じてみる。
一人で何かしてみたり決めてみたり色々やってみると、他人という存在が、自分の生きる理由には全く必要ないことがわかる。
自分が必要だと思いこむから必要だと感じているだけということを。
そうやって他人を自分から切り離し依存をすてて一人で生きていくことができるようになれば、これまでの依存的な関係をすべて捨てることができて、自由になることができる。
そうして得られた人生の景色はずっと明るく、安全なものになるはずだ。
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