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「人の言うことはちゃんと聞け」
そんな風に親とか教師から耳がタコになるくらい聞かされたことは?
「人が話してるんだからちゃんと聞いてあげないと失礼でしょ」とか
「目上の人の話はちゃんと聞かないと後悔するよ」とか。
それにこの「人の言うことを聞け」っていうのは、単に「聞く」っていう意味だけじゃなくて「人に言われたことはちゃんと”やれ”」なんていう、行動の支持の意味も含んでる。
なんで失礼なの?
なんで後悔するの?
誰に対してもそうなの?
なんでもかんでも「他人の言うことを“聞かなきゃいけない”」の?
そんなのまともに聞いてたら、他人ことばかりで自分のことがおごそかになってしまうのだけど?
自分がやりたいことがあっても他人の言うことを聞けってこと?他人が辞めろっていうなら、それをやめろってこと?
もしそうだとしたら、自分の欲求不満を抱えて苦しい思いをして生きていかなきゃいけないってことになる。
やりたくないことをして生きていけってことになる。
それを「それが常識、普通」だなんていった日には、一体自分が何のために自分の気持ちに嘘をついてまで、他人のために生きなきゃいけないのかわからない。
ろくな説明も理由もないまま、ただ「それが普通だから」なんていう自分ので考えないで周りの多くの他者に合わせなさいという数の暴力をちらつかせて。
一体なんなの?他人の要求のために、他人の世話をするために生きることが人生とでも?
そんなばかな。
本当は単に、「自分の話を聞いてほしい」ということを遠回しに言っているだけのただの建前なんじゃないのか?
そんな疑念すらわいてくる。疑念は不安に変わって、他人の言うことを聞くこと事態が億劫になっていく。他人とかかわるのが嫌になる。
なんだ、他人の言うことを真面目に聞いたって、苦しいだけじゃないか。
自分のやりたいことや気持ちを殺してちゃ、そんなの何の得もない。
だったら、別にしなくてもいいことなんじゃない?
だって自分が納得していないんだもの
自分が不快だと感じているんだもの。
自分のそんな気持ちを押し殺してまで、そんな人の話を聞く必要なんてある?
他人の言うことなんてみんなただの「個人的要求」にすぎない
他人の言うことは聞かなきゃいけないなんて、そんな風に思う必要は全くない。
だって他人のあれしろこれしろなんて、それがどんなに「もっともらしいもの」だったとしても、ただのその人の個人的な要求なんだから。
別に王様の勅令みたいな絶対的な権限が付与されているわけでもないし、法律で決まっているルールでもなんでもない。
勝手な押し付け。勝手なその人の思い込み。その人は自分の個人的な思い込みを、他人を巻き込んでしているというだけ。
その人が全体主義な考え方をもっているというだけ。それがこの世の真実でもなければ絶対的なルールというわけでもなんでもない。
その人がそう思い込んでいるというだけの話。
ただ他人を自分の思い通りにしたい。自分の支配下に置きたいだけなんだ。
他人は別に「神様」じゃないよ
日本で育つと、親の言うことを聞くのは当たり前とか、家族なんだから当たり前だとか、目上の人を尊敬したりするのは普通だとか常識だとか、そういう「当たり前のこと」としてなんでも押し付けられて、それに無理やり納得させられて育つことはそれなりにあると思う。
でもそんな事を言ってきた親とか教師とか周りの大人達とか、或いは友達だったかもしれない、そんな他人たちはすべて、自分と同じ人間だ。
神様なんかじゃない。自分より優れた存在なんかじゃない。
ただの人間。自分と同じ、何も知らない。何も完全なところがない、ただの人間だよ。
それを比較して、どっちが正しいとか、正義だとか、優秀だとかなんだとかやってみたところで、
そんなの無数に存在する不完全な人間同士のどんぐりの背比べにすぎないのだから。
他人を裏切っていい
だから、そんな他人のいろんな要求はあくまで個人的なものにすぎないのだから、それを別に裏切ったところで、間違ったことでもなんでもない。
全てはただのその個人の要求、それぞれの欲望なんだ。自分が他人のこと話なんか聞きたくないと思っているのなら、その欲望と同じ。比較なんかできるものでもない。
それぞれの欲望。そして自分の欲望が、結局のところは一番大事なんだ。その欲望で快感を得られるのは自分だけ。他人の欲望をかなえても、自分はその快感なんか得られない。
他人の欲望は他人の欲望。それに従う必要もないし、他人の欲望を満たさなきゃいけないなんて言う義務はないし、その義務感も必要ない。
だからそれを要求する「支配的な他人」は裏切ってしまっていいんだ。
その人は他人に依存した考え方を持っている、「甘えた人」でしかない。
そういう人と付き合っても疲れるだけ。自分が損するだけ。自分の人格や性格が歪んでしまうだけだ。
だったら、もっと自立した、自分の人生を生きている人を見つけて、そういう人とかかわっていった方がいいんだ。
自分が素直に好きだと思った人と関係を作る。自分が素直にいいなと思った何かにかかわる。
そういう自然な関係を作って生きていった方が、きっと人生は楽しくなる。楽になる。生きやすくなる。
…とまぁその、単純に言うと、他人の言う事よりも自分のやることを考えましょう、ってことです。この情報社会の中で滝のように流れてくる情報の中から正しいものを…なんてのはそもそもの話し、ということもそうですが、量的に考えて不可能な話。
人の話しを聞いていても自分の現実は前に進まない。受け身でただ聞いていても楽しめない。自分の人生を楽しみたいなら、もっと良くしていきたいなら今自分ができることから初めて、それを楽しんでいたほうがいいんじゃないか、なんて思います。
そうだ!!
人の話なんて聞く必要はない
もちろん自分が意地を張ってるのなら注意が必要だけど
そうでないのなら人な話なんて聞く必要なし
自分で聞きたいと思ったら聞く。シンプルですね。おっしゃる通り意地を張っている場合は自分の中に妙なプライドがある時だと思うのでその時は自分を見直すチャンスですね。
何れにしても自分に軸をもって自分の目的を通して話を聞くことが大事だと思います。
返信してくださり、ありがとうございます。
その通りですね。最近は私もほとんどの事象に対して、他人は理解できないと思うようになりました。しかし、なんとなく近しい距離にいる人の意味もわからなくなりました。孤独が楽しいのと、他人に期待してきた習慣から生じるギャップなんでしょうか。
elepanさま
こんばんは。
本気で疲れた時に、いつもこのブログにきています。私の癒しです。再びコメント失礼致します。
人というのは、自分の欠点がどんなに図星だとしても、自分の耳に聞き心地のいいように編集されたり、指摘してきた相手に遜られたりして、少し見下すことができない限り、話をきくことはないなあ
と思ったのですが、これに対しelepan様が思うことがあれば教えてください。
(もし意味がわかりにくかったらごめんなさい)
お役に立てていて嬉しいです^^
> 人というのは、自分の欠点がどんなに図星だとしても、自分の耳に聞き心地のいいように編集されたり、指摘してきた相手に遜られたりして、少し見下すことができない限り、話をきくことはないなあ
>
> と思ったのですが、これに対しelepan様が思うことがあれば教えてください。
ふーむそうですね…不躾ながら付け加えさせていただくと、何を欠点と思うかさえ、その人の編集次第なのかなと思います。
人の思い込みってかなり自由なので、それが罵倒でも、鋭い指摘でも批判でも、それをすごく前向きにも、すごく後ろ向きにも、完全に無視するようにも解釈できちゃうんですよね。
もっというなら罵倒という行為が何を意味するのか、指摘が一体どういう意味を持つかさえも、全部個人の思い込み次第なので、それ次第で全然変わってくるという。
全部「言葉」っていう記号で構成されてますから、その全てが自由に解釈できてしまうので。
なので他人は変えることも理解を求めることほとんど不可能で逆もしかりだなあ、と個人的には思っています。
少なくとも自分が感じたように、考えたように、自分が発した言葉を相手が同じように解釈するというのは、それこそ天文学的な確率なのだろうなぁと。
なので自分のすべての思い込みは全部自分の中で完結させてしまったほうがずっと簡単だなーと感じています。
思い込みで成り立っている人の人生というのは、すべて個人の創作の域を出ないものだなぁと。