「意味のない人生に生きている価値はない」
それが仮に本当なのだとすると、つまり「無意味な人生=死」ということになる。
では今生きている人たちがすべて「人生に意味を見出した人たち」なのかというとどうやらそうではないらしい
「自分の人生には意味がない」と嘆きながら生きている人はいるし、反対にその人の言うところの意味がない人生を生きている人を馬鹿にしたりする人もいる。
無意味な人生=死であるなら、その人生を生きているすべての人はすでに自らの死を選んでこの世に存在していないことになってなければ成立しない。
無意味な人生を嘆く人は存在しえないし、それを馬鹿にしようとするなら、それらはすべて死人に対して行っていることでなければならない。
でも現実はそうじゃない。明らかに矛盾しているのである。
目次
「人生の意味」の正体
では人生の意味というのは実際のところ何を指しているものなのだろう。
実際には破綻した理屈であるにもかかわらず、そう嘆き、自らを苦しめたり、他人を貶めたり執着していたりすることすらあるこの言葉。
一体何のために、なぜその人生の意味の有無にこだわり、執着するのだろうか。
その正体は実に単純で「人生には価値があるのだという思い込みをしているから」である。
「人生には意味がある、意味があるはず、意味がなければならない」
「そうでなければ生きている意味がない。価値がない。だから生きていてもしょうがない。死んだほうがましだ。」
そんな一連の思い込みを、その人自身がしているというだけの話なのだ。
あたかもそれがこの世に定められた物理法則がごとくの「真実」のように妄信しているというだけ。
ただそう見えているだけ、その人がそう見ようとしているだけというだけの話なのだ。
人生には意味があるという思い込みの根幹にあるもの
そもそも人生において意味があるといわれる行為は何なのかについて考えてみると、その内容のほとんどは「他人や社会の支持を得られる何か」である。
例えばいい会社で働くことだったり、金持ちになることだったり、ビジネスで成功することだったり、異性にモてることだったり。
勝ち組とか負け組というものも同じものである。
自身の人生が意味があるということの前提に、その対極、異なる領域にある、かつ他人の支持を得られなさそうにみえる他人の人生を意味がないこと、無価値だとした上で、見下げたりしながら退避しているわけである。
人間関係を自分より上か下かで見ている
ようするに、この思い込みはそのような人生の在り方にある「人間関係」の構築のあり方からくるものなのだ。
他人と自分を比較して、どちらが上か下なのかを考えて人間関係を構築しながら生きる人間関係の形を持っているからこそ生まれる価値観である。
人との比較に意味があると思い込み、それよりも上であることが価値ある人生であるという思い込み。それに執着して生きていれば、自分の人生は正しかった、素晴らしいものだったと、他人より上であったという、他人からの間接的なお墨付きをもらえる。
つまりは、自分の人生の保証を他人に求める生き方、承認欲求に起因する生き方からくる思い込みなのだ。
もし自分だけで完結しており、人間関係の構築が平等でそれぞれを個とみなし自立したものになっていれば、他人は他人、自分は自分であるというだけのことでしかない。他人との比較は存在せず、例えば「好きなこと」とか、自分の気持ちだけで完結している捉え方になっているはずである。
ただの思い込みである以上、必要なものなんかではない。
思い込みは思い込みでしかなく「真実」なんかではない。
もし真実ならそれはつまりこの世にたった一つだけ存在する正解であり、この世が当たり前に存在している事実と同じように、すべての人が何の疑問もなくそう考えて生きている、当然の法則としてある何かでなければならない。
だが実際には違う。全く人生の意味など考えず、気楽に生きている人もたくさんいるのだ。
つまり単なる生き方の一形態にすぎない、個人的な思い込みでしかないものであるのだから、そう生きなきゃいけないなんてことはないのである。
むしろ、そうやって人生の意味の有無のレッテルの中で人と比較して生きる他人軸の人生よりも、自分だけで完結している自分軸の人生の方がよっぽど気楽に幸福に生きることができてしまうくらいだ。
自分のやっていることに意味があると思ってやると、逆にそれが重荷になってできなくなってしまうこともあるし、失敗が怖くなってますます身動きできなくなってしまうこともある。
無意味なことはする意味がないとして、常に良い結果や成果が得られなければやる気がでず、結果何も続かなくなったりもする。
逆に、全く意味も必要とせずただ楽しんで気楽にやっていたほうが手が動いて、結果的に成果が出たりもする。
自分の人生は意味がある、価値ある人生であることを背負う人生よりも、案外背負わない人生のほうがかえってQOLが上がることもある。
とはいえそれは当人の思い込みの形次第でしかないことは変わらない。
そうである以上、人生に意味があるかどうかという問題は、「個人の思い込み」であるという域を出ることはない。
別に意味があると思っても思わなくてもどちらでもいいことなのだ。
全ては個人の自由。個人の思い込み。
意味があると思いたいならそう思えばいいし、そんなのめんどくさい、しんどいというなら思わなくていい。
重くなって、その意味がいらなくなったなら捨ててしまえばいい。
たとえだれかに「そんな人生のどこに生きる価値があるの?」などとマウントされても、その人は人生に価値の有無があると思い込んでいるだけのこと。
それに従う必要も納得する必要も、ましてや傷つけられる必要もない。それは言ってしまえばその人の性癖のようなもので、相手をオカズにしてセン〇リこいているだけの話なのだ。
誰かに決めてもらわなくてもいいし、誰かに決められるものなんかでは決してない。
すべて自分が決めていいこと。
だから必須ではない、必要なことではないのだ。
意味を背負わず、自分で決めて気楽に人生を楽しんでいい。
意味を背負って苦痛を感じながら生きたいのならそれもいい。
全ては「そう思いたいかどうか」というだけ。
そうしたいならそうすればいい。そうしたくないならそうしなくていい、それだけのことなのだ。
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