おそらく個人差があると思いますが、私がやった承認欲求を捨てるための大まかなポイントをこちらで紹介させていただきます。
目次
1.まずは自分の承認欲求に気づく
なぜ自分は承認欲求を求めているのか。承認欲求を求める理由はなんなのか。承認欲求で何を得ているのか。
自分の無意識に気づいていきます。気づき方は、「なぜ自分はこの時人に褒められたいと思ったんだろう」とか「なんでこの時自分はこの人からこう言われてこう感じたんだろう」とか、他人の都合や気持ちにとらわれて自分が苦しんだり舞い上がったりしたときの自分の過去に対して気づいていくことから始めていくといいです。
思考だけでなく、その時に感じた体の感覚や感情がなんなのかも考えてみるといいです。胸が苦しい感覚だったり、窒息するかのような感覚を伴っていることもあると思います。
その場合は自分に苦しみを生み出している感覚である、ということがわかってきます。
2.自分の承認欲求の実態を知る。無価値であることを知る
次に、1.できづいた事についてそのメカニズムを自分の中で明らかにしていきます。
なぜ他人に言われただけで自分は傷ついてしまうのか。なぜ他人に褒められただけで舞い上がってしまうのか。なぜ人前になると緊張するのか、なぜ人に評価されないと不安になるのか、なぜ人に評価されないこととわかると悲しくなったり、これまでのことが無駄になった、と考えてしまうのか、などなど、これは私が過去に気づいたことについて考えたことたちの一部ですが、ご自身のものはまた違うものかもしれません。
その気づいたことに対して、今度はなぜなぜ分析をしていくんですね。
なぜ他人に悪口を言われて傷つくのか?→他人の言っていることを本気にしてしまっているから→なぜ他人の言っていることを本気にしてしまうのか?→他人の言っていることが自分にとって真実だと思っているから→なぜ他人の言っていることは真実だと思っているのか?…という感じです。
これは一種の哲学的思考でもあります。哲学的思考をしていくことで、自分の中にある承認欲求というものの実態をかみ砕いて正体を明らかにしていくんです。
その中には、そのなぜに対して「わからない」という答えも出てくると思います。その時は「いつそう思い込んだんだろう」ということについてアプローチを変えてみるといいです。
例えば、なぜ他人の言っていることを真実だと自分は思っているのだろう、そう感じてしまうのだろうということについて、「わからない」と思う場合、ではそう思うようになったのはいつなのかについて考えてみるのです。小学校のころ?幼稚園の頃?それは誰から言われたとき?
それが正確でなくても全然大丈夫です。自分がそう思う、それに近いものとか、アバウトなものでも構いません。なかなか正確に一回でそれを言い当てるのは難しいからです。あの人かもしれない、いやあの人かも、と自分の中で思い当たる記憶の中のいろんな人に照らし合わせていきながらそれを明らかにしていけばいいんです。
ちなみに私の場合は、最終的には自分の母親でした。母親に「人前ではきちんとしなさい!」と、多くの人たちが目の前にいる前で大声で怒鳴られて、それがとてもショックで強烈で、怖かったことだったのを覚えています。
人はいやなことをされたことはよく覚えているものだ、とよく言いますが、案外その覚えていることがきっかけになっている可能性もありますね。小さいころなのに私の中では鮮明に記憶としてあるんですよね。確か七五三の時だったかなと思います。
そのような過去の出来事がきっかけで、ある考え方や感じ方をする癖をつけた可能性があります。思えば私はそれを境に「他人の目を気にする」ということを覚え、その感覚と考え方を基底にして他人と接するようになったんです。そこからより他人の目を正確に気にするために「他人の気持ち」を想像するようになり、ひたすらに他人の目にかなうための自分を演じることだけを考えて生きていったわけですね。
そのような感じで、自分の中にある承認欲求の根の部分にたどり着き、最初に思い込んだその思い込みを「あの時あんなふうに感じなくてよかったんだな」と気づいた上で、捨てていくんですね。そうすると、それを基底にしてつっみ挙げてきたほかの思い込みや感じ方にも気づいていけると思うので、いろんな「あんなふうに感じようとしなくてよかったもの」が見えてくると思います。
他人に言われて感じようとしたこと、他人にされて感じようとしたことといった、受け身で何かを感じようとする癖自体が、実はそのほとんどがそう感じなくてよかったものだった、という感じに気づくことになることもあるかもしれません。
またある思い込みに対して一つだけでなく複数の思い込みがあることもあるので、とにかく気づいたときに、そう感じることが不快なものだったとしたら、それはいらなかったんんだ、としてそのたびに捨てていくと楽になっていけると思います。些細だと思うことでもどんどん捨てていっていいです。
すこしでも自分を楽にできるなら、それは十分に捨てる価値があります。
他人の都合で生きているだけで無価値であることに気づく
自分の思い込みのほかにも、実際にその承認欲求で自分が本当に得しているのか、価値があるものなのか、幸せになっているのかということについて知っていくことも大切です。
他人に合わせて、他人の都合で生きていて、それで本当に自分が幸せになっているのか。それを検証してみるんですね。
例えば他人や社会の推奨する自分になろうとして、それで自分は今幸せを感じているかどうかとか、そもそもそれは本当に自分の前向きな気持ちでなりたいと思ってなろうとしていることなのかどうかとか。
「なりたい」と思っているのか、それとも「ならなきゃいけない」と思っているのか。ここが判断基準になってきます。もし後者であれば、それは自分の素直な気持ちに嘘をついて、無理やりやらせている自分がいるということになります。その生き方は自分にとって楽なのかどうか、心地いいのかどうか、このまま続けていけそうなのかどうか、検証してみるんです。
また、基本的に幸せというのは自分が幸せだと思い込んでいるかどうかというのがすべてです。それを、外の何かによって幸せになれると思い込むこともできるんですが、外の何かに依存して幸せになろうとするということは自分のコントロールできない何かに対して自分の幸せの天平をまかせる、ということを意味します。
その結果、自分が幸せを感じていてそれでいい、というのならそれでいいのですが、そうしてしまっているが上に不満と不安を感じ、毎日が生きづらいと感じているのなら、その生き方は自分にとって幸せではない、と考えることができると思います。
そのようにして、承認欲求を媒介にして自分を幸せにしようとしている自らの試みと、それに対する現実の結果にどれだけ相違があるのかということについても気づいていくことで承認欲求に価値を感じなくなり、それを捨てることに戸惑いが減っていきます。
ほんの一瞬の安心ために我慢し続けているだけということに気づく
承認欲求を求めるのは、褒められる、評価されることで快楽を得ようとしているからですね。
でも褒められるって本当に気持ちいいことなのか?それについて検証していくこと、褒められるということのメカニズムを明らかにしていくことで実際に自分に起こっていることが何なのかを明らかにしていくんです。
それによっては承認欲求が自分にとって健康的なものではない、という風にも思うと思います。
承認欲求というものをどうとらえているのか、ということは人によって個人差があると思いますが、おそらく多くの場合は他人に対する恐怖があることが多いんじゃないかと思います。
例えば他人に褒められるために嫌なことを我慢したり、義務を背負ったり、怒られないために自分の意見を言えなかったりやりたいことができずに苦しんだりするのは、他人という存在が恐ろしいから、ということであることはあると思います。それが、褒めれられることで報われるとか、許されるとか、相手が自分を加護してくれる存在に見えて安心できるから求めている、ということなのであれば、その可能性はかなり高くなります。
仮にそうである場合、他人を恐れているから求めている承認欲求という欲求が、果たして自分にとっていいものなのかどうか、ということをここでいったん天平にかけて考えてみるんです。
人は基本的に思い込みで人生観を作っています。つまり、他人を怖いと思っているのもただの思い込みで、つまり自身の思い込みによって承認欲求を求め、その結果苦しんだり舞い上がったりしているだけの自分がいる、ということになります。
それは果たして自分にとって有益なのか、そう生きたいのか。自分の心と対話して、本当にこれは自分の欲しいものなのかを明らかにしていくことも大事です。
他人を使って自分を損させているだけだということに気づく
自身の承認欲求が、自分を他人を使った苦行に晒し、褒められたときにその苦行から自分を解放させて、つかの間の安心感を得るといういうだけの、他人を使った不安と安心を繰り返しているだけであると判明した場合、自分に承認欲求が必要かどうかという点についての判断材料になると思います。
この場合、承認欲求は自分に損しかさせていないことがわかります。というのは自分を恐怖と不安にさらして抑圧することで自分をマイナスにし、他人の課題をクリアしたときだけその恐怖から自分を解放して0に戻しているだけだからです。
さらに、他人の課題を満たして生きているということは、必然的に自分の好きなことで生きていない、ということでもあります。
他人の承認がないとやる気が出ない、他人に褒められることでないとやる意味がないと感じてしまう、という風に、自分の人生を歩むことを邪魔する思い込みをも自分に作り出しているということに気づいていくと、さらに承認欲求が無価値であることにも気づいていけます。
つまり、自分の人生を生きる、プラスで生きることができないようになってしまっているということでもあるわけです。
実際何かをやろうとしてもやる気が出なくて憂鬱な気持ちが合ったり、無気力で何もする気が起きずに苦痛を感じている自分がいるとしたら、そんな自分の心理について1.から分析していくと、最終的には承認欲求の問題にたどり着いたりします。となると、ますます承認欲求は自分にとって足かせでしかないという結論にたどり着いていきます。
3.承認欲求を無価値化する
1.2.を行ったうえで、最終的に自分の中で承認欲求を無価値化していきます。これは自分が心から納得するまで続ける必要があると思います。もしまだ納得がいかないならできるようになるまで繰り返してみるといいです。
ただ無理は禁物です。ご自身のペースで少しずつでもいいので進めていくといいと思います。
4.承認欲求の代わりに自己満足する生き方に変える
承認欲求を捨てると、これまで他人の都合を満たすことで自信の幸せを作り出そうとしてきた自身の義務の原動力がなくなります。つまり、新しい原動力が必要になるんですが、これはおそらく1.2.3.を繰り返す中で自然と芽生えてくるんじゃないかと思います。
というのは、これまでは1.2.3.で見つけた思い込みたちが本来の素直な自分を抑圧し、行動を制限させていたからで、その制限を捨てていくと、枷がはずれて自分の気持ちで自然と何かをしたくなるからです。
その気持ちを否定せず、素直に感じて「表現」していくんです。その気持ちが今後の自分の人生を生きる新しい自己実現原動力になります。
その素直な自分を否定しないまま、ただ気楽に、健やかな自分のままでいいんです。何かすごいことをやろうとする必要も、難しいことをやろうとする必要もない。ただ自分がやりたいように、学びたいように、何も背負わずに童心に帰って取り組んでみるんです。
そうすると、失敗することも怖くなくなります。怖くなくなるというか、失敗や成功といった結果に執着することがなくなっていきます。何かを気にして行動することもなくなり、生きづらさも感じることもなくなって気持ちよくいろんなことにチャレンジすることができるようになります。
手が動けばことは進むんですよね。手が動かないことには、生活も仕事も趣味もすべてまならなくなってしまうだけなんです。
つまり、自分が何かをしているだけで満足できてしまう自己満足の人生を送ることができるようになるうえに、とにかく手が自然と動くので嫌でも何らかの成果を生み出し続けるようにもなれるのです。
そう感じて生きられるようになってきたら、もうほとんど迷いはなくなってるんじゃないかと思います。
5.今だけを生きる。
4.が毎日自然にできるようになれば、もうほとんど承認欲求はなくなっているでしょう。
その状態は、まさに「今を生きる」です。ただ目の前の現実があって、そこに自分は今生きていて、その中で今感じていることや今やっていることが楽しくて、心地よくて、気持ちよくてたまらない。そんな状態になるんじゃないかと思います。
こうなったらもうほとんどゴールなんじゃないかと思います。あとはご自身の人生を好きなだけ楽しみましょう!
承認欲求に気づいて、それを知って、考え方と感覚の使い方を変えて、自分の心だけで今を生きる。
以上、上記5つを実践して、自分の人生の中にある余計な思い込みを捨てて楽に生きられる自分に変わっていきましょう。
人生を誰かに認められるために生きなくたっていい。
人生に意味なんてないし、意味自体必要なことですらない。
意味のない人生を生きても別にいいし、あってもどちらでもかまわない。
外の都合に会う自分でも合わないでも、勝手なそのままの自分を許して、自分の心で生きていいのだということに気づいて、自分を楽にしていきましょう!
他人からの”縛り”はもう終わりです
これからは自分が追いかけたいものを素直に追いかけていい。
今を生きていい。そう自分に許可をして、自由に生きていっていいのです。
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もし他にも1~4のことについて詳細を知りたい方がいらっしゃれば以下のカテゴリからご興味があるものがあればぜひご一読ください。
でわ(^^)/
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