人生が「クソ」なのは他人に期待しているから




「人生なんてホンマくそ」

そう思うとき、一体何をもとにクソと思っているのかというと、それは他人の人生であると思います。クソであるということはクソでない存在がいなければなりたたないので、例えば金持ちだったり、恋人や家族がいる人だったり、フォロワーが大量にいるSNSの有名アカウントだったりを引き合いにしているのだと思います。

そんないろんな自分よりも幸福な人生を送っている他人を無意識的に比較しては「自分の人生はクソ」だと感じているのだと思います。最近はどんどん日本も貧乏になっているといいますし、SNSや動画サイトを見るといくらでも自分よりも幸せそうな人たちが見つかりますから、そう思うのも別に変なことではないと思います。

しかしその一方で、自分よりも不幸な人間もいるという事もまた事実ですよね。それも幸福な彼らよりもずっと大勢いると思います。

よく引き合いに出されるのが海外の貧困や戦争に苦しんでいる人々。治安の悪い国で起きた悲惨な事件に巻き込まれてしまった人、珍しい奇病を患ってしまった人などなど、ほかにも枚挙にいとまがありません。そのような人たちを見て「あぁ日本に生まれてよかった、健康体に生まれてよかった」と思ったりします。「北朝鮮みたいなやべー独裁国家で生まれるくらいなら、自分の人生の方がはるかにマシだな」「こんな風にうまれたらきっとつらいだろうな」と。

このように人間の幸福や不幸というのは、常に他人との比較で成り立つという事ですね。そこに実態はなく、すべては当人を取り巻く環境をもとにした主観的な問題、モノの見方の問題が根本であるということになります。

他人をどう見るか、自分をどう見るか。何をどうとらえるか。何を目的として生きるか。その形と目的によって自分の人生はクソにもマシにもなる。一種の魔法みたいですね。

何故自分の人生をクソだと思いたくなるのか。

ではなぜ他人と自分を比較して、いちいち不幸だクソだとしたくなるのか。自分を自ら見下げるようなことをするのでしょうか。主観的な問題にすぎず、思い込みにすぎず、考え方次第の問題にすぎないのなら、そんなことをしていても何の意味もないし、わざわざ自分を否定するような苦しいことなんてやらなければいいはずです。

この行為で得しているのかかどうかで考えてみるとそうは見えないと思います。そうしていれば何か手に入るわけでもないですし、誰かが見かねて施しをくれるわけでもない。誰かがそんな自分をわかってくれてなぐさめてくれるというわけでもなく、精神的な観点からみればネガティブ思考にしかなっていないので、自身の精神衛生上いいとは思えない。精神的にネガティブになればそれに伴って行動も消極的、否定的になっていきますから、チャンスがあったとしてもますます手に入れることは難しくなるような気がします。人間関係もよくなるとは思えません。暗い顔をして、ネガティブなことばかり言う人と友達になりたい人は少ないでしょう。

となると、利益どころから不利益を被ることの方が多いんじゃないかとも考えられます。

実際、「人生はクソ」と嘆いていて何年たったのか、なんて考えてみると何も手に入っていない自分がいたりします。何なら友人も恋人も離れて孤独になってしまったという事すらある。

それでもなぜかやめられない。振り返ってみればそんな証拠はいくらでも見つかるのに。なぜなんでしょう。

安心するから

おそらくこれは「自分の人生はクソ」とすることが、何らかの安心感を得られるからだと思います。

自分の人生はクソだと嘆くと、自分の人生をある種そこで確定させることができるかのような妙な安心感のようなものがあるというか、ある種の諦めの境地にいけるというか。

「クソなんだから頑張ってもしょうがない、もうどうでもいい。みんな地獄に落ちて全部終わっちまえばいい。」

クソであるとすると、いろんなことにあきらめがついて、楽になるような気がします。全部何もかも終わってくれたらどんなに楽か…そんな破滅的な願望すら快楽にかんじます。

つまり、楽になりたいから自分の人生をクソだと嘆く。何かを成し遂げたり、何かになるために、何者かになるために努力したり我慢したりしたくない。努力したくない、我慢したくない。がんばるのをやめたい。解放されたい。

そういう自身の欲求に素直になるための一種の儀式のようなものではないかとも思います。

嘆きというのはこういった自身の本音を吐き出す一種の癒し効果もあります。もやもやした自分の気持ちを吐露し、発散することでストレスが解消されるという役目もあるのだと思います。

本当に彼らは幸福か?

ではその比較対象である他人は、そもそもにおいて本当に幸福なのか?

自分が想像するように幸福な人生送っていて、何一つ不自由もなければ失敗もなく、常に成功し続け苦労のない人生を送っているのか。

たとえば金があり家族がいて持ち家もあって立派な職に就いている人がいて、その人を幸福な人として、本当にそうなのでしょうか。

金がある一方で自分のやりたいことがわからず「このままで自分は本当にいいのか」日々悶々と悩んでいる上場企業勤務の会社員であったりとか、結婚してみたものの毎日が平坦で変わり映えのしない日常に違和感と絶望感を抱き、家族を維持しなければならないという板挟みの中で悩みながらも生活を続けている人、子供が育ち切った後に熟年離婚して独り身になってしまった人、ママ友や親戚づきあいなど交友関係に問題を抱えている人、子供との関係性に問題を抱えている人、散財癖があり家庭問題になってしまった人、激務で働きすぎで体がボロボロになり病気になってしまった人など。

成功者といわれる人ですら、ずっと今後も成功し続けられることを約束されているわけでもなく、それを維持する労力は必要ですし最悪うまくいかなくてまた一から振り出しになってしまったり、常に結果を出せばならないというプレッシャーやストレスで病み酒や薬、ギャンブルにおぼれてしまう人もいるくらいですからね。

それに金の価値だって変動するんですから、金を持っていたら生涯安泰とも言い難い。実際円安で物価も上がりましたし、税金もあがりましたしね。極端な話ジンブバエのように金の価値が消失してしまうこともありえなくはない。不動産を持っているから大丈夫かといえば、その不動産価値がさがってしまったらどうしようもない。結局何をやっても問題は見つけようと思えば見つけられてそれに対して考えたり悩んだりすることは絶えないわけで。

それに人には良くも悪くも慣れというのもあります。いくら贅沢な暮らしができても、それに慣れてしまえばただの日常になる。刺激的な生活というのは案外長く続かず、何ならそれを維持するための苦労の方が多くなる。そういうものばかり追い求めていても一向に満たされない人生、ということもあります。

いくら自分の思う幸福の条件を満たしている人がいるかのようにみえても、それはその上辺、そう見えたある瞬間、一面だけを切り取って都合よく美化したものにすぎず、一人ひとりのいろんな実生活、実体験を聞いていくと本当に幸せなのかどうかといえばそうとは言い切れないということがわかってきます。

人生は選択といいますが、トレードオフであるという事も意味しています。金を得るためにきつい仕事、難しい仕事をすれば、その分勉学にも労働にも励む必要があり、自由な時間は減り、逆をとれば得られる金は少なくなるが自由に使える時間は増える。家族を作れば安心を一定の得られるかもしれませんが、それに対するコストも当然あり、それが不安要因となってしまうこともある。自分の時間を持つことも難しくなります。では孤独が素晴らしいのかといえば、孤独が耐えられない人にとっては苦痛以外の何物でもないし、自分の体が壊れてしまったりしたらバックアッププランも立てづらい。

どちらをとっても何を選んでも、それによって得られる結果のパターンは数多く存在し、常にメリットとデメリットは存在し、いくらでも見つけようと思えば見つけられる。正解などなく、何をやろうが後悔したりすることもある。

そんな中で「自分の人生はクソ」とするのは実際の他人ではなく自分の妄想上に存在するある1パターンの完全な人生を送っている幸福の他人像と自分を比較し、自分は不幸だと嘆いている。という構図であるということになります。その人の人生を自分が勝手に想像している点、その人の人生を自分は経験していないという点は変えようのない事実です。。

つまり、他人にその妄想、理想を期待しているということになります。他人が自分の妄想した幸福な人生を送っている人であることを、憎らしいほどに切望しているわけです。

他人の幸福という偶像が、自分の定義したクソな人生の証明として機能している。

では、なぜそんなことを切望しているのかというと、それが自分の人生の免罪符、偶像として機能しているからと考えられます。

つまり、「自分の人生はクソ」ということを正当化するためのものとして機能している。自分の人生が「許されるための「不条理、不公平な証拠」として機能している。

「あんたは俺と違っていい人生を送ってていいよな、どうせ俺の気持ちはわからない」「あいつはなんであんなに幸福で、なんで自分ははこんなに不幸なのか」と、悲観的になったりこともあれば、それが「許せない」とエスカレートして攻撃的になることもある。他人という偶像に対する当てつけ、願掛け、逆恨みで、そんな「自身の欲求不満を他人にぶつけて甲斐性する行為」を正当化するための偶像としても機能しているように思います。

他人は幸福な人生を送っているに違いないのだという一種の願掛けを担保に、自分の人生はクソであることを肯定しようとしている。自分の人生はクソだという事に確定的な自信をもつために、他人の幸福像に頼ってる。そんな構図があるのではないかと思います。

またこれは逆に他人を見下している場合もまた同じなのだと思います。自分よりも不幸な人間、下の人間がいると思うのも、不幸な他人、劣等の他人という偶像を作り出してそれを根拠に自分の人生は素晴らしいのだと肯定しようとしている。たとえ貧困な国や独裁国家といわれている国であったとしてもその人たちの暮らしが実際にどうなっているのか、本人が自分の人生をどのように見て、どう感じているのか、どう暮らしているのかを自分は知りませんから、結局ただの妄想ということになります。

何れにせよいえるのは、何らかの形で他人を偶像にして、「各々が何らかの形で崇拝する」ことで自身の人生を肯定しようとする構図があるということですね。

他人に期待しても他人は何もくれないし、関心もない

いくら自分の人生をクソだと定義しようと、他人は自分の人生のことなんかどうでもいい

その理由は自分に聞いてみればいい。そもそも自分が他人の人生のことをきにかけているかを。

他人の人生に嫉妬はしても、他人の人生の世話などしたいと少しも考えてない。他人の人生を許そう許そうだなんて思いもしない。そんな自分であるのに、他人がそんな自分の世話をしてくれて、許してくれて、救ってくれると考えているというのはあまりにも非現実的な話です。

全ての自分のための自分の人生を肯定するための信仰なのであって、誰かのためでなく当然その幸福な人間のためなんかでもない。

故に自分の人生は救われない。存在しないものに救われたがっているから。存在しないものをただ待っているだけ。存在しないものに必死にポーズをとって気付いてもらおうとしているだけだから誰からも気づかれず関心も持たれず何からも何も与えられず、何も変わらない。

つまり他人に期待する、自分の人生はクソ、としているのはただひたすらに虚無なんですよ。

精神論ではなく、単なる現実です。唯一の現実はその信仰によって自身がただネガティブになっていくだけ。ただの負のスパイラルが現在進行形で着々と自信に侵食しているというだけの話でしかない。

もちろん嘆くこと自体はある種の癒し効果もあるのでただ吐露するのはよいのかもしれませんが、それにすがってただ待っているだけの人生を送るのは消極的虚無であり、待っているのは破滅でしかありません。

こういう習慣は長い目で見ると自分をむしばみます。

若い頃はよくても、そのまま続けていると歳をった頃に一気に自分を襲ってきます。なぜなら若いころは同じような人が周りにいてなれ合うこともできるのでごまかすことができるのですが、年を取るとどんどんいなくなるからです。

小学校の頃は仲良かった友達が、中学校、高校と進む中で少しづつ疎遠になっていくように、それは社会に出てからも進行していくものなんですよね。周りも時間とともに変わっていきますし、結婚したりいろんなイベントがある中で付き合いも関心も変わっていきます。そうすれば価値観すらも変わっていき、話も合わなくなって疎遠になるなんてこともざら。さらには老化するということ。自身が衰え、おっさん、おばさんになり、しまいには老人になって…と、身体的な機能の衰えからくる精神的な感覚の変化も大きい。そしてそのころにはすでに決している。自分の相手をしてくれる人が誰一人いない、なんてことに気づいたとき。一体その時の自分はどう思うのでしょうね。他人への依存心はそのまま孤独に対する苦痛となって帰ってきます。

特に親が死んだときは最も堪えるんじゃないかとも思います。この意識の根底にあるのって幼少期の頃の人間関係の形であることが多いのですが、その関係の多くは親との関係性だと思います。多分親が支配的だったり過保護だったりするとこうなるんじゃないかと思うのですが、その元締め、根本ともいえる親が死んだときが一番つらいのかもしれません。

誰も自分に与えるために生きてなかったという現実を、唯一自分に与えてくれていた親が死ぬことで実感することになり、知ることになってしまうかもしれないので。

ネガティブな性格や価値観、考え方はこれまでの自身の行いが習慣化した自分でもあるので、いったんこの習慣がつくといざ変えようと思ってもとても時間がかかるものになってしまったりします。それはずっと放置し続ければするほど予後は悪いものになり、変えようにも何十年も時間を要するようなものにすらなりかねません。

というかこれ、「自分はどうせダメなやつ」とか「自分はなにもできない」みたいな自己否定タイプも同じようなものですね。

結局突き詰めれば全て自分の精神、心の問題でしかなく、単純に言うなら「勇気の問題」です。自身の心の弱み、依存心、逃げ癖。自分自身のコンプレックスから逃げ続けようとして生きていると、その先にあるのは袋小路なんじゃないかと思います。

いずれにせよこの負のスパイラルの渦中にいるとしたらなるべく若いうちに対処することをおすすめします。その方が苦労も苦痛も少なくて済み、楽しく生きられる時間が延びると思いますので。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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