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精神的苦痛を他人のせいにしても苦しみから解放はされない
これは悲しいことに事実で、いくら自分の精神的苦痛、生きづらさや不幸を感じていることについて他人や社会のせいにして自分を正当化しても、それで楽になれる可能性は低いです。その瞬間は楽になれるかもしれませんが、それで世の中の人々が考え方をあらため、こちらに理解を示し、懺悔し、これから自分の思い通りにふるまってくれる人間に変わってくれることなんてことはありません。相変わらず同じように何らかの形でその人の好きなように接してきますし、関心がなければ関心も示しませんし、そのたびに苦痛を感じることになる可能性は高いです。
人間みな自分の都合で生きています。自分の都合に合うか合わないか、くらいのことしかしません。変わるにしてもその人にとって何等かの利益があると考えられるものためにしか変わらず、こちらの都合なんてどうでもいい。こちらの都合のいいように変わってくれることはありません。
それに他人がそれで仮に変わろうと思ったとしても、そう簡単に人は変わることが出来るようなものでもないのです。
そんな簡単に人は変われない
「自分を変える」というのは言うはやすし行うは難しというやつで、そうおいそれと簡単に、すぐにできることでもないのです。
なにせ、これまで自分が生きてきた人生を少しずつ見直していくことになるからです。これまでの自身の人生の積み重ねを振り返り一つ一つ観察し、分析し、不要な考え方や価値観を捨て、新しいものに置き換えていくというような作業が必要になります。それには自分の触れたくない劣等感の本質に迫り、”恐ろしい他人”から自分の心を守るためにしてきた理論武装を、自らの意志で触れて明らかにして捨てる、つまり武装する理由という思い込みをみつけ、不要化して武装解除をしていく必要があるわけです。
そしてその武装解除がとてつもなく不快な気持ちや恐怖を感じながらもやるようなことでもあるんですね。
何せその武装はこれまでみな他人のせいにして自分を正当化しようとしてきたためにできた鎧や武器です。それをあえて捨てる。あえて解除する。つまり自らがその鎧を着ようと思う、武器をふるおうと思う他人に対する認知の歪みを捨てる、つまり他人のせいにして他人から身を守ったり攻撃しようとしてしまう自分の弱さに対して向き合い、他人のせいではなく自分のせいであったということを認めることをすることになるからです。
他にも、これまで自分を守るための虚勢として張っていた他人に対する様々な歪んだプライドも捨てる必要があります。
例えばルックス、学業コンプ、職業差別、地位、年齢差別、性別差別といったこれまで自分が「〇〇だから自分は優れている、普通、まとも、まし」というような様々なコンプレックスの盾であるプライドを捨て、武装解除していくことになることにもなります。
これが一番難しいのです。なぜなら自らの歪んだプライド自身が、そのコンプレックスとプライドを捨てることを許さないから。拒絶反応が心の中でおきるのです。
認めたくない。自分のせいだったなんて死んでも認めるものか。「なんでこんな人たちのために私がこんなことを…」「悪いのはみんな他人なんだから。なのになんで私が変わる必要があるんだ。変わるべきはあいつらだ」というプライドを捨てることが非常に難しく、それがずっと邪魔するからです。
つまり、そう生きてきたその人の人生が長ければ長いほど歪んだプライドもどんどん積み重なるわけで、時間がかかるものになり、年単位で時間のかかる非常に労力と気力、根気がかかるものになります。
それを誰かにちくりと何か言われたところで、自分を変えようだなんて思う事もなければ実行に移すこともないでしょう。むしろ思う存分にその武器をふるい、鎧で自分を守ろうとします。
よほど本人の中で「変わらないと自分は不幸のままでしかない」というような気づきや意識、そして「自分を変えて幸せになる」という明確な意思をもって、「変わりたい」と思う事がなければ実行には移すことはないのです。
だから他人にいくら変わってほしいと懇願したところで何も変わらず、変わるにしても本人の幸せのためにしか人は変わらないので、自分がいくら他人に変わってくれることを期待し、不満をため苦痛をため続けたところで現実は変わらない、ということなのです。
事実、精神的苦痛は自分が生み出している自分の感覚の問題
精神的苦痛とは不快感や不安感といった、自分の感覚の領域ですよね。誰かの感覚ではありません。誰かの感覚なんか自分は感じていませんし。それは他人も同じでしょう。
自分の感覚とは、生理的感覚などの何もしなくても自分が感じているものか、精神的感覚などの自分が自分の意志で感じてようとしている二つくらいのものです。
そして他人はその二つどちらとも直接自分に何かを感じさせる能力を持っていないのですよ。別に他人が自分の脳を直接操って無理やり感じさせているわけではないですよね。
なので他人はこちらを精神的に傷つけるなんてことは実はできていないのです。他人に感じさせらていることなんて何もない。例えば「他人に嫌なことを言われて傷ついた」というのは他人が自分を言葉で傷つけたのではないのです。
「他人が自分に何かを言った」というのは事実です。他人が自分をどう思うのか、何を言うのか、それは他人が考えることです。自分が考えることではありません。だから他人に何を言われようが、それは他人の自由ですし、その他人の都合に合わせて自分がそれを本気に取る必要はありません。受け取り方を自分は選べるのです。
つまり受け取り方、「何かを言われて傷ついた」という自分がその他人の言ったことを聞いて「精神的苦痛を感じた」というのが自分の問題なのです。自分が他人の言葉を使ってそう感じようとしたという受け取り方が自分の問題なわけです。
「他人によって苦しまされている」という思い込みが、精神的苦痛の根源
自分がどう感じているのか、どう考えているのか、自分の脳がやっていることは、みな自分の問題なのですよ
精神的苦痛とは自分の脳が感じていることなのですから自分の問題、つまり自分のせいで感じていることなのです。
他人に何かを言われて傷ついたのは自分のせいなのです。
そして、これを他人のせいにしているからずっと苦しい。他人が自身の精神的苦痛に関与していると思い込んでいるから苦しい。
「他人が自分の精神的苦痛の元凶であるという思い込み」を自分が変えないからずっと苦しいのです。
他人に対する恐怖に自分の意志でとらわれている状態
他人を悪だとしている限りにおいては、他人は自分の敵でしかありません。自分に精神的苦痛を与えてくる敵としてしか映らないのですね。
そして敵と認識しているということは同時に、他人のことを自分を精神的に脅かす「脅威」だと思い込んでいるということにもなります。
つまり「恐ろしい存在」としてとらえているのです。
だから他人が怖いのですよ。いつ自分を精神的苦痛にさらしてくるかわからないから。他人の言うことが恐ろしいのも、他人の目が恐ろしいのも、みなここからきているのです。
他人に対する恐怖の認知、自信に精神的苦痛を感じさせてくる悪であるという思い込みをしているからこそ他人に対して不快感を感じ、精神的苦痛を自分が感じているというわけなのです。
精神的苦痛を感じるのは他人のせいじゃなかった=他人は悪じゃなかった=他人は敵じゃなかった=他人は怖い存在じゃなかったと気づける=苦痛からの解放
つまり他人を悪だとする認知をやめること、自分の精神的苦痛の在りどころを他人に求めないこと。自分の心や感覚、感じ方や捉え方の問題を誰かや外の何かのせいにすることをやめるだけで、外に対するあらゆる精神的苦の思い込みは消える、つまり恐怖の根源が消えるため不安がなくなり、生きづらさも消えていく、ということなのです。
自分のせいだと責めることではないのです。他人のせいだと思い込むことをやめるのです。自分が作り出しているということに気づいて、今度はそれを自分の意志でやめていくのです。
そしてそれをができて初めて、現実で実際に起きていることの事実を受け入れることが出来るわけです。自分の精神的苦痛は自分が原因だったという現実をその時に客観的に感じられます。それを素直に受け入れる準備が整います。他人に対する歪んだプライドも必要なくなるでしょう。他人に対して見栄を張る必要も何もなくなるので、素直に自分の弱みを自分で認めることが出来るようになるのです。
一切の他人のそれを想像せず、自分が自分の感覚を感じているという事実だけを見るんですね。
そうなれば、後は自分と向き合って自分のを苦しめている思い込みたちに正面から自分で向き合い少しずつ解消していくだけ。もっとも、この時点で既に相当楽になっているかもしれませんが。それでもまだまだ自分の足を引っ張る余計な思い込みが隠れている可能性はあります。
そういう意味では精神的快楽も同じことが言えます。精神的不快感に対して精神的快楽は満たされた気持ちや安心感のことを指すと思いますが、それは別に他人から与えられているものではないのです。そもそも安心感なのですから、何も不安や恐怖のない、安静している気持ちのことで、それも自分だけで感じられるものなのですね。
つまり精神的苦痛の思い込みを捨てていけばいくほど、恐怖や不安はなくなって安心していき他人への精神的依存がなくなっていくため、他人から与えられる必要はなくなり、自分で何かを始めたり楽しんだりすることが自然にできるようになっていきます。
そうなっていけば人生はずっと楽しくなっていくのです。
自分の問題、つまり自分の感覚や思考など自分の頭の中で起きている問題を何かのせいにすればするほど人生は暗くなっていきますが、自分の生であることを認めて向き合えば向き合うほど人生や豊かになっていくということなんです。
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