彼は幼少期の頃に学校に通わず、一般的な教育を受けることなく育ったとされている。日本でいえば小学校や中学校に通うことはなく、ほぼ独学で自分の学びたいと思ったものを自発的に学んだとのこと。
彼は大勢の同じ年代の子供たちが同じ屋根の下で教育を受けている中、大自然の中で一人孤独に思考し、自分の好きなように、見たいものを見たいように、学びたいように学んでいたようだ。
彼は自発的な自らの動機で学ぶという行為をやっていたんだ。彼は自分の研究に関して膨大なノートを書き残していて、それは全部自分が何かに何かを見出して、それを観察した結果を残していた。
ただ黒板に書いてあるものを書き写して受験勉強のために勉強をする私たちの時代の学びの感覚からすると、とても遠い存在に感じられる。見習いたいけどなかなかに難しそうなことを彼は孤独に、楽しんでやっていたみたいだ。
誰も他人のやり方を真似すべきではない。なぜなら、真似をすれば自然の子供ではなく、自然の孫でしかない。我々には自然の形態がたくさん与えられているのだから、直接自然に触れることが大事だ。
– レオナルド・ダ・ヴィンチの名言集より –
彼は自身の学びの元、教えの元を自然から見出した。それによって自ら学ぶということが彼にとっての学びで、自然なことであるということを定着させることに至らせたのかもしれない。
誰かが用意した学びの体系をなぞる必要も彼にはなかった。ただ自分がしたいように学んだ。山に登り、洞窟を見つけて散策し、自然現象を観測してそれについて思考し、まさにレオナルドの冒険だった。
そこにはきっと学校教育にはない自由と興奮があったに違いない。
教師や学校からの押さえつけもない。成績という義務も課せられない。
きっと彼の学びはまるでゲームに夢中になるがごとくのような、そんなおもしろいものだったんじゃないだろうか。
目次
自発的に学ぶということ
自発的な学びは孤独の中で行われる。彼が言うように、教えてくれる人、という他人が存在がいない、必要がないから。
人間が最も自身の思考を研ぎ澄ますことができるのは孤独である時だ。むしろ孤独になると嫌でも思考せざるを得ない。他人に気を使おうとすることすらもできなくなるのだから。となるとやることなんてのは、自分の手や頭を動かしてできることだけになる。
ましてや、彼には旺盛な知的欲求があったようだから、思考しない理由などなかったのだろう。
学ぶということは本当は自分で決めていい自由で面白いもののはず。誰かに決めてもらわなくても、カリキュラムを用意してもらわなくても、そんな自分の知的好奇心で自由に何かについて考えることなんて誰でもできる。遊びの一種と言ってもいいほどに。
他人に誇るようなものでもないし比べるようなものでもない。その必要もない。自分の遊びを他人に誇って何が楽しい?そんなことをしてる暇があるなら、もっとその遊びに時間を使っていたほうがずっといい。
成績がいいことを自慢することが学びの面白さなんかじゃない。そんな承認欲求を満たすことが学びの面白さだなんて言ったら、学ぶこと自体はただの手段で、それ自体は何も面白くないことだといっているようなものだ。
彼はただ楽しんでいたんじゃないかと思う。もちろん周りと違う自分に不満や疑問がなかったわけでもないだろうとはしても。そうでなければ医者の家庭の出身でもなかったレオナルドが誰に頼まれることもなく自らの手で死体解剖までして人体の内部構造を確かめたりするようなことはできなかったはずだ
画家は孤独でなければならない。なぜなら、一人なら完全に自分自身になることができるからだ。たった一人の道連れでもいれば、半分しか自分ではなくなる。
– レオナルド・ダ・ヴィンチの名言集より –
彼の目的と欲求
彼は世の中に存在するあらゆるものについて、自分自身の手でその本質に迫ろうともしていたように思える。それは彼が”万能人”と言われるように、あらゆる分野に手を出していることからも読み取れる。彼は主に芸術的な側面で有名だけど、他に科学、医学、軍事の分野など様々な点においても功績を残しているみたいだ。
時には数学的に、時には科学的に、時には美術的な観点から…多くの異なる観点から対象を観測することによってそれを成り立たせている”何か”を彼は見ようとしていたのではないのかと思う。
それは当時の、いや、おそらく今生きている多くの人々にとっても、それが価値あることだといわれるようになるまでは興味すらもたれることのないどうでもいい事柄に対するものだったのかもしれない。
自分の脳がどのような仕組みで意識を作り出しているのかについて不思議には思っても真面目に考えて研究まで行うような人なんて、それを自分の都合だけでやろうと思う人というのはそんなにいないんじゃないだろうか。
医者になるためだとか将来の自分のためだったらやろうとしても、自分の知的好奇心だけでやろうと思うだけでも、それはなかなか難しいように思う。
多くの人にとって、教育を受けたり学んだり、知識を得る目的の多くは社会的な成功や、或いは競争社会の中で落ちこぼれないための武器を取得するというような、誰かや何かからの見返りを求めることなのが主であるとうことを考えると、彼の目的が自身の知的欲求を満たしたいという好奇心によるものであるということとは、まるで違うように見える
実際彼の成し遂げたことについて、多くの人々が”偉業”と認識していて、それによって彼が有名になっているあたりがそれを証明している。多くの人々は彼が生産した成果物とそれに対する世の中の評価、”結果”に興味を示しているのであって、その一方で彼の思考、何を考えていたのかなど、彼が生前どのような人物であったのかについては興味を示す人はそれほど多くはないと思う。
そもそも彼のことについて私自身が考察しているのだって、彼が有名だったから彼を知って興味を持つことができたというだけの話。何の誰かからの事前情報もなしに。自分で自然の世界だけで直接レオナルドのことをたまたま見つけて興味をもって、彼について考えてみようとか、そんな経緯で考察しているわけじゃない。
彼はそういうのをすごく嫌うだろうけど。他人の誘導で、有名だから、偉人だからという、”自然の孫”軽油でそれに興味をもつなんてことは。
彼が全くの無名の人間だったとしたら、そんな無名の人間のことを草の根をかき分けてまで探し出してその無名の彼に思いをはせ、あれこれ考えたりしなかっただろう。無名の誰かに思いをはせたことなんか、私は一度だってないってことを今こうして書いていて気づいた。
でも彼はそれをやったんだ。全部ではなかったかもしれないけれど。自然という当たり前にありすぎて疑問すら持つことがなかったものに、彼はそれをやった。それに時間をたくさん使った。自分の気持ちを、情熱をそこに燃やしたんだ。
自分の意志だけで、自分の欲求だけで、自分が純粋に興味をもったことに取り組んだ
そんなことを彼は生涯続けたんだろう。
彼の本質
彼に対する”万能人”という評価は、表面的な見かけ上のものじゃないかと思う。「あらゆる分野において成功を収めている」という表面的な結果に着目し、そこにわかりやすい言葉で”万能人”というラベルを貼っているだけなんじゃないか、と思うことがある。
おそらく彼の本質は、義務教育のような受動的教育を受けず、自立的に育んだ型にはまらない思考を持っていたことと、物事の本質を理解しようとする強い知的欲求を持っていたということによる、何かに対する本質理解という目的がコアであった、ということがその本質だったのではないかと思う。
その本質によって彼は様々な行動し、なんにでも興味を示してはそれを基礎的なところまで理解しようとして、その基礎と別の基礎を組み合わせながら考えを発展させ、様々なアイデアを思いつき、結果様々な分野で功績をのこしたのではないか。
時々、機会を見つけて外出しなさい。そしてリラックスしよう。外から帰ってくると、あなたの判断はより確かなものになります。いつも仕事にへばりついていると、あなたは、判断力を失ってしまいます。
– レオナルド・ダ・ヴィンチの名言集より –
>私事だが、私は学んだことをいちいち他人に評価してもらうというシステムそのものが嫌いだ。あんなものなくなってしまえばいいのにとよく考える
僕もそう思います…まぁ僕は今受験生だから特別その思いが強いのかもしれませんが……。
なんか嫌ですよねぇ競争とか評価とか。まぁ、人間が社会で生きていく為にはしょうがないし、必要だと思って割り切るんですが………。
コメントありがとうございます。
競争とかになると必ず敗者と勝者が出てきますもんね。その敗者になってしまった人がその烙印を背負って生きていくような人生を送ってしまったとしたら、それはすごく不幸なことです。多分個人ができることとしては、他人にどう評価されようと、どう見られようと、そんなことは気にせず信念を持って目標にむかって突き進んでいくしかないんだなぁと最近思います。
他人はそう簡単に変えられるものでもありませんから、自分が変わっていった方がずっと早いですし、なにより確実ですもんね。