思えば私の精神的な問題は、他人から何かを与えてもらいたがったことが大きな要因の一つだったように思います。
他人に跪いて両手を掲げて、必死でくださいくださいアピール。他人に愛されたい、認められたい。そのために他人の都合のいい誰かを演じる。こういう気持ちをもっているから苦しむ。他人にコントロールされて管理されることを望むから生きづらくなっていたわけで。
30年近く私はいかにして他人から与えられるかということばかり考えて生きてきました。でもすべての瞬間ずっとそうしていたわけでもなくて、確かにそうじゃない瞬間もあった。それが小学校の部活でやっていた野球。誰もいないグラウンドで独り壁にボールをぶつけてひたすら一人ノックをやっていたあの時。あの瞬間は全てが夢中で幸福に満ちていた。誰かからされることを全く想像せず、自分のしたいことだけを感じてやっていた、そんな瞬間でした。
そんなわずかな時しか本当に満たされた気持ち、安心した気持ちを感じて何かをしたことはなかったな、と振り返ると思うわけです。そしてその法則は、今も少しも変わっていないんですよね。
一人仕事にもくもくと取り組んでいる時。一人もくもくと絵を描いている時、こうしてブログを書いている時。今ではこの感覚が日常で、他人から与えられることはもう考えなくなりました。
考えようとするとただ気が重くなるだけで、たとえそれが大金を得られることであっても私は選びたくないですね。そんなのは全部地獄の中で必死にもがいているようなものでしたから。
目次
救ってくれる人なんていない。
他人の言いつけを守って、他人の目を気にして、他人に好かれる自分を装って自分を他者に差し出し我慢して待ってさえいれば誰かが自分を好きになってくれて助けてくれると思ってました。
でも違ったんですよね。その思いとは裏腹にこれまでいろんな時期にいろんな形でその期待に裏切られてきたんですよね。
その中でも一番多くてつらかったのがいじめです。
親からクラスメイトから教師から先輩から、いろんな時いろんな場所いろんな形でいじめにあってきました。でも助けてくれる人っていなかったんですよ。当事者以外の周りはただ見てるだけでした。あるいは気づいていないだけかもしれなかったし、見ないふりだったのかもしれません。
でもまぁそんなもんなんですよね、現実の他人というのは。自分の期待とはだいたい裏腹でみな自分のことが大事なんですから。
世の中の人は何か痛ましい事件やいじめの問題が起きても、かわいそうとは思ってもは自分では何もしない。「かわいそうに」「こんなひどいことが起きるなんて信じられない」「許せない」「いじめをなくそう!」と言うだけで終わり。実際に行動に移す人なんてほとんどいない。
そんな世の中、他人の矛盾した中途半端な日和見的態度を「誰か助けてあげなよ」なんて、期待させるだけさせて何もしない。なんて質の悪い奴らだ、と憎んだこともありました。どうせ周りによく思われたいからとポーズしてるだけだって。いいこと言って周りからいい人扱いされたいだけだって。ただの大喜利なんだろって。
でも今はそう思ってないんですよね。それが現実だったことを受け入れましたから。皆自分のことしか考えてないし、自分のために生きてる。自分の欲しいものを得るために活動してるだけ。いいこと言うのもみんなそう。周りにちやほやされるためだったり、よく見られたいためだったり、単に発散したいだけだったり。
要は自己表現なんです。自分がやりたいだけで、誰か自身のためなんかではない。
そこには何の責任もない。自己表現に責任なんてないんですよ。
当事者以外の他人は基本的にみなただの傍観者、見物人、よくやってもパフォーマーにすぎなかった。ただ見てるだけだったりヤジを飛ばしたり評論したり発散しているだけで、現実は周りからすればいじめなんていうのは一種のショーなんですよね。
そもそも自然界を見たらそれ以前の問題です。食うか食われるかの戦いの毎日で、仲間同士でも殺し合いしたり、弱いものを追いやって自分たちが食われないためのスケープゴートにしたりすることもあります。
そんなのは人間も大して変わらない。誰かからいじめられる前にいじめる、いじめられる対象から逃れるためにスケープゴートを作る。
いじめっていうのは自分がいじめられたくないという臆病にかられた人がやる行為なんですよ
親とか兄弟とか別の誰かにいじめられて、他者に対する恐怖を覚えた。他人は恐ろしいのだと。敵なのだと。家庭に居場所がなく居場所づくりに必死。そんな人間が手を染める行為。それがいじめなんじゃないでしょうか。
そんな人間の前にただいい子になろうとしている人がいたら、それは格好の獲物にしかならないんですよね。彼らは自分より弱く見える人間ならだれでもいいのですから。
無自覚な自身の他者への無関心
でも、そんな無関心さは自分自身だって大して変わらなかったんですよね。いじめというかずっとそれ以前の問題で私は大勢の殺された動物の死肉を食らってきてるわけですよ。
その彼ら彼女らの気持ちなんて考えたことすらなかったわけで。殺される瞬間にどれだけ怖かったかとか痛かったとか、そんなこと考えたことなんてありませんでしたね。
牛、豚、鳥、魚…そんなカテゴリに分けられて切り出された彼らそれぞれの確かに生きていた個々の肉。個々の感覚が、意思が、記憶が確かにあったであろう者たちの肉。それを何も知らずに、知ろうとすらせずにただ食べてる。それも単にお腹が空いたから、もっと食べたいから、美味しいからなんていうただの自分の欲求を満たすためだけに彼らの死を利用している。
動物からしてみればこれほど残酷な世界もない。いくら慈悲を請おうが関係ない。何も悪いことしてなくても関係ない、ある日突然殺される不条理な世界です。そんなのいじめだなんて比較にすらならない。
それを「かわいそうに」「むごい」と憐れんだところで、一体彼らに何の得があるのか。結局殺されることは変わらない。それを止めに行こうだなんて思っているかといえば全く思っていない。何なら今日だって明日だって彼ら彼女らが数日前には殺されたであろうその肉を食べるつもりでいる。
そんな偽善、嘘。自分の無関心さに対する圧倒的な自覚のなさ。
そんな矛盾だらけの自己中な自分がいじめにあって「自分は被害者なんだ。いじめられたんだ。これだけひどいことをされたんだから誰かが助けてくれて当然だ」なんて発想はどうかしてたんですよね。
いくら自分を不幸だって嘆いたって関係ない。現実はそんな自分の嘆きなんか無関心だ。いじめにあうときはあう。理不尽なことに合うときは合う。殺されるときは殺される。
ひどい事なら自分だってしてきた。ただ無自覚なだけ。一体どれだけの生命をクソに変えてきたのか?食べるわけでもないのに気持ち悪いからって虫を殺してすらいるじゃないか。
自分以外にいるであろういじめの被害者のことを助けようだなんて考えてもいないだろ。世界のいたるところで様々な不幸に陥っている人たちのことを自分が救おうと行動しているかといえば、全くしてもいないし思ってすらもいない。
自分だって十分他人に無関心なんだよ。
そしてそんな”罪深い自分”に世界は何のお咎めもない。何も罰してこない。
ほら、こんなものだ世界は。関係ないんだ。現実という世界は人間の思う事なんてどうでもいい。理不尽であり不条理なのは人間が作り出した正義や罪というものがただの虚構にすぎないからだ。人間社会の仕組みとして限定的に機能するだけで、それが利かないケースはたくさんあるんだよ。
だから”悪”は消えない。他人という悪も自分という悪も消えない。救いだなんてものは所詮はただの人間が描く絵空事にすぎなかった。自分だけが「救われるべき」だなんていうのは、あまりにも虫が良すぎた。現実を全くみてなかった。
現実の世界は「弱者」にひたすら過酷で残酷なんですよ。
いじめはなくならないし、この世は平等ではないことは依然として変わらない。今目の前で起きていることが現実。それ以上でも以下でもない。
だったらもう、いつまでもうじうじ他人の出方をまっているのも弱いふりをしてぶたれないようにしているのも、かないもしない理想を語る他人からの救済を必死に待って被害者ヅラをしている意味もない。
自分で行動する以外にないじゃないか最初から。自分で決めて自分で行動する。逃げる、抵抗する、力をつけてぶちのめす。みな自分でやること。最初からやれることなんかこれしかない。
「自分で自分の欲しいものを手に入れる。自分で決めて自分で生きる。「与えらえれる」「救われる」なんてのは虚構だ」
待っているから不安なだけだった
「他人からもらえれば生きられるけど、もらえなければ生きられない。」
そんな世界だったからこそ、ただ他人を待って他人から与えられることばかり考えることはただ不安を蓄積するだけなんだと気づいたんです。
自らの生きる糧の全てを他人にコントロールしてもらうことを選んだがための対価、ヒステリーからきた恐怖だったわけです。
他人から何をされるかが恐ろしくなった。その恐怖がガチガチに自分を縛っていたから苦しかったわけですね。
でも現実の世界は違っていて、他人からもらえるなんていうのは嘘。与えられているというのもまた嘘。他人は自分の上位者でもないし、世話人でもないし、救済者でもない。自分と同じ人間であり、自分の欲しいもののために行動して生きているだけ。
それをずっと捻じ曲げてみていただけでした。
その歪みに向き合わざる得なくなりました。どんな他人も私に与えるためなんかに生きてなんていなかったことに気づくことになったからです。
他人の言う幸せを目指して、多少成功してお金を得ようが幸せを感じることもなかったし、何より全然安心なんかできなかった。次は一体どんな無茶な課題を与えられるのか、次もうまくいくのか、そんな不安ばかりが募って自信もつかなかった。執着心と脅迫性だけが増していき、どんどん苦しくなっていくだけでした。
だから待つこと、もらおうとして何かをすることをやめた。網羅うためにヒステリーをおこすこと、必死に耐えて忍んで我慢することをやめた。自分で手に入れること、自分だけで追い続けること、そしてそれを楽しむことにした。それができるようになると苦しみはもうなくなりました。
ずっと被害者ヅラをしていたけれどあんなのただの弱者ロールプレイだったんですよ。所詮はフリでしかない。そもそも弱い、強いという定義自体が人間の作り出した虚構なのだから。明確な基準もなにもない雑な物差しにすぎないのだから。
そんな物差しのことなんて現実は何も気にかけやしない。
そんなロールをやっていてもただ疲れるだけでいいことなんてなんもない。奴隷やるのって楽そうで実は疲れる。必死に人に跪いて命令された労役をありがたがりそれに耐えて、たまに何か欲しいものが手に入ることがある。
そんな生き方を続けていれば何れは自己否定の塊になるわけですから当然だったんですね。自己否定する代わりに他人から何かをもらおうとする生き方になってしまう。
我慢して苦しんだことを対価として他者から謝礼をもらう、という生き方になってしまうわけで、生きづらくて当たり前です。
だからそんな奴隷をやめて自由になった方が、人生はずっと楽しいし、何よりも楽。自分自身だけでいること。自分自身だけでいることを肯定し、自信をもつこと。最初から最後までこれしかないということ。
野球にはまっていたあの頃みたいに、あの瞬間の自分に立ち返って自分のやることに夢中になるだけでよかった。自分の欲しいものを、自分が感じたいことを追い続けて、誰にも照らし合わせる必要もなくただ求め続けていればそれで充分だったんですね。
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