目次
孤独を恐れる限りは他人を支配することしか考えられない
孤独を恐れるということは他人と一緒にい続けることに対する執着心とも言い換えられると思います。他人に認知され続けていたい、他人に愛され続けたいと、そのために他人に何が何でも依存するためにあれこれする生き方になると思います。
他人の目を気にしたり他人の好きな自分を演じて気を引いたり、相手の気持を試したりして自分に興味があるかどうかを確かめたり引き留めようとしたり、他人を自分と同じ考え方に染め上げて自分の傀儡にしようとしたり、とにかく自分に対して関心を持ち続けさせるためにいろんな手段を講じます。
そこには必ず「自分を愛してくれるかどうか」「かまってくれるかどうか」という見返りを求める自身の心があり、他人の気持ちを自分の思い通りにしたいという目的があります。これは愛ではなくむしろその対極にある支配欲であり、その根源は孤独を恐れる恐怖感情によって突き動かされるもので自身を追い詰め続け苦しめている感情なのです。
故にいくらこれを求めても苦しいばかりで安心することが出来ず常に不安にさらされ続け、相手が少しでも自分から離れる気配を察知すればその不安は増幅しそれに耐えきれず感情的になって場合によってはヒステリーを起こし高圧的になったりすることもあります。自分も相手も不幸にすることになり、最悪関係が破綻して自身の人生までもが破滅してしまうというケースも少なくはないのではないかと思います。
孤独を受け入れると、自分が好きだと思う事を見つけられる
一方で孤独を受け入れると、上記のような感覚も欲求も行為もすべて必要なくなり、一旦それまでの関係性も全て必要なくなります。
つまり一旦は完全な孤独となり、ここからが自分の孤独との戦いになるんですが、その詳細は一旦ここでは置いておくとして、その戦いを経て孤独を受け入れること、すなわち孤独に対する恐れを解消し自分自身を受け入れることができると、残るのは自分の気持ちや欲求といった原始的なものだけが残ります。
これらの欲求って孤独を恐れている時は非常に見えにくいものになっているんですよね。見えにくいというか、拒絶しがちといいましょうか。自分の素直な気持ちや感情に他人の都合で蓋をしてしまうからですね。
自分から何かを好きになるのはおかしい、とか他人に褒められることじゃなきゃやる意味がない、とか、こんな立場の自分がこの人を好きになるなんておこがましい、とかとにかく他人を使って自分の原始的なそれらを否定してしまうので、そう感じること自体が無意識的に、感覚的にいけないことになってしまっているからです。
しかしその思い込みを解くこと、すなわちその抑圧のソースになっている他人という認知の歪みを捨て孤独を受け入れることでそれを否定しなくてよくなる結果、今度はこの欲求を感じたときそれを否定しないで感じることができるようになるというわけです。他人を使って散々せき止めてきた自分自身の気持ちや欲求を感じることを、もう止める必要がないからです。
そしてその欲求の先にあるものが、自分だけが本当に好きだと思う事や素敵だと思う事、美しいと思う事や素晴らしいと「ただ感じる事」なわけです。
それを大切にしたいという気持ち、感覚。それが愛という感情
ただ自分が素敵だと感じること、好きだと感じるだけの感情。それを持つことが出来ると、今度はそれを大切にしたい、もっと良くしたいと思う欲求が出てきます。
これが愛だと私は思います。「見返りを求めない愛」とも言い換えられますね。愛を自分で感じることやその対象に何かしたい、もっとよくしたいという自信の欲求、自己実現欲求”自体”が既にゴールで、他人をどうにかしたいなんて目的はない。例えばただ美しいものを美しいと感じたいだけで、もっと美しいものにしたいと思うだけでそれ以上でも以下でもない。
他人に対するポーズやフリではない、ただの自分の個人的な実現欲求。それが愛だと思います。。
愛というのは自立した心での安心感の表れであり、そこから出てくる向上心で自立できていなければ感じられるものではないのだと思います。
自分が感じることは間違っていることではないんです。それは自分だけの持ち物であり、外の世界に何も出ていかない現れもしない、自分の脳内で閉じた自分の持ち物、完全に自分だけが感じられるものであり自分だけの所有物です。
それに蓋をしなくていいんですよ。他人はそれに一切関係がありませんから。ただ、行動に移す時だけは違うというケースがあるだけです。その対象はやはりもっぱら他人で、例えば好きな人に何かをしたい、そう思った時そもそもそれを相手が欲しているのか、していいのかを言葉で確認しなければそれは身勝手なものにしかならないでしょうしトラブルの元にもなるでしょう。その点対象が何かモノであればほとんどの場合で自分の好きにできますから、最高の自己実現表現装置になってくれます。例えば創作活動が素晴らしいのは一重にそのようなところにありますね。
行動したいという気持ち自体を否定するひつようもありませんし、それで自分自身を否定して苦しめる必要もないのです。間違ったことでも正しいことでもなく、ただ交渉が成立するかどうかというだけのこと。それ以上の意味も何もないわけですからね。
もし交渉がうまくいかないのなら、さらに交渉を重ねてみたり、だめなら別の人、もしくは別の何かに切り替えて交渉、行動、発散、表現と、形を変えていけばいいだけです。もしくはその欲求が支配欲から来ているものだと気づいたら、それも捨てていけばいい。そうすれば自分の原始的欲求もまた見えてきますから。
そんないつどんな瞬間においても、自分の感じることだけは否定しなくていい、何も怖がることはない。せき止めず、ただ心で感じたいと思う事を今感じていい。
何度も言いますが、自分をせき止めないで、否定しないでください。自分の感覚や欲求自体は止めなくていいんです。
コメントを残す