「親」という信仰、思い込み




親は子供にとっては絶対のもので、いわば神のような存在だ、というのは結構言われていることだとは思いますが、この親に対する考え方が却って足かせになっているのではないか、と思う事があります。

確かに子どもにとって親は最も深くかかわる他人ですし、子供の立場の自分よりもはるかにいろんなことを経験していることは事実、さらに扶養する力もそれをコントロールする権力もあるわけで、それを持たない子供にとってはまさにそう映ってしまっても仕方がないと思います。

親という言葉に潜む歪み

親とは何か。その定義をいうと様々な定義が出てくるのではないかと思います。

「子供を育てる義務と責任をもつ人」

「子供を愛し、大事にする人」

「子供をサポートし、一緒に成長する人」

しかし実際の親がそのような定義通りかというとそうとは限らないと思います。

虐待やネグレクト、過干渉などで子供の成長の機会を奪ったり子供の自尊心を傷つけたり、子供よりも自分が優位であることを逆手にとって決して逆らえないように脅迫支配したり、気分で子供に当たり散らしたり、アルコール依存症やうつ病で精神が不安定、衣食住の用意もままならないといった様々な実際の現実の親の在り方というのは存在していると思います。

親という一つの特定の個人を特定しない曖昧な言葉で、現実の個人を定義などできない。子供が出来た瞬間からその人はその「親」という存在になるわけじゃない。子供を愛し大事にしサポートし一緒に成長できる全くの別人に突然変わるわけじゃない。スーパーマン、スーパーウーマンに変身なんかしない。進化なんて当然しない。「親という別人」に代わることなんかない。

ただ地続きのその人がいるだけ。子供を持っても、その人自身が瞬時に変わるわけではない。そんな劇的な変化を起こせるのなら、世の中毒親問題なんて置きやしません

であれば世間や他者、自身がイメージする「親」とは実態の存在しないただの妄想で、ただのラベルにすぎないのではないか。子供を持ってもただ地続きのその人がいるだけなのなら、その人ではない親という概念とは一体何なのでしょう。

そんな「親」という思い込みは、果たして必要なのでしょうか。親だからという理由をもとに生まれる思考、行動、文化は現実に即しているのか。自身の親は現実のその人自身に即しているのか。即してもいないのに、それを疑う事すら許されないような信仰するような形にまでしてしまうことは必要なことなのか。

自身の親を親だと思う事は果たして自分にとって必要なのことなのか。自分はこの子の親だと思うことは必要なのか。親という何かを背負うことは必要なことなのか。自分を親と思う事で自分は幸せを感じられるのか。自分の親を親と思うことで幸せなのか。親のことを、親であることを考えることで自分の気持ちが暖かくなり、安心し元気がもらえるような感覚を得られるのか。

それとも、考えるだけで苦しくなり、嫌な気分になってしまうのか。無意識的に自身の自由を制限してしまうただ鎖でしかないのではないか。自分はなぜ親の言いつけが守れないのか、なぜこんなダメなやつなんだ。自分はなぜ普通の親のようにふるまえないんだ。なぜ子供を愛せないんだ。そう自分を追い詰めてしまうだけではないか。息苦しさ、生きづらさを作り出してしまうものではないか。

もし後者なのだとすればそのような思い込みを伴う自身の「親」という概念は単なる足枷、呪いにすぎないのではないでしょうか。

もしその概念がなかったら。その概念を手放せたとしたら。親をただの人間に還元したら。親というラベルを手放せたとしたら。

親という概念が、ただの思い込みであったと自分の心の中から捨てたとしたら。

ほかの道端を歩いている人々らと何ら変わらない存在だったとしたら。自分のクラスメイトや会社の同僚のような横のつながり、上下のつながりのない感覚の存在だとしたら。その時自分はどう感じるのか。親という概念を持ってみた時と比べてどうなのか。

親の言っていたことは本当に正しい事なのか?

親に言われたいろんな言葉たち。教えられてきたいろんなこと、言いつけ。そういうものを子供は受け入れようとするし、そうすることによって家族の中で自分の場所を作ろうとします。

その親が言っていることが”歪んでいた”としても子供はそれに気づけない。子供にとってひたすら親は最も身近な大人。加えて現代社会ではほかの親に育てられる機会も持たない。親のようなほかの存在もいない。比較対象がない以上絶対的存在であることはほぼ避けられない。行ってしまえば神にも等しい存在です。

親の言うことを聞いてきたのはそんな構造から生まれた信仰にもあるのではないか。現実の人を神としてあがめてしまう、現人神が存在するのだと。

“親”はその一つで、ゆえに自分の上位者で神様のような存在。対して自分はいつも間違っている子供。無知で無力であり常に間違っている。だから親の言うことが絶対、従わなきゃ生きていけない、と。親も親で子供に対して何でも知っている存在であると思い込み、親という概念のような存在にならなければならないと世間体を気にし、親ではない自分を否定しているのではないか。

親というロールをを教祖として、その信者を自身の子供に求め作り上げてきた人間関係。それがこの信仰の構造ではないか。

親は自分のことを何も知らない

自分だけを見てくれて頼ってくれるかわいい子供であることを望み「あなたはダメな子」と何度も言い聞かせてきたのだとしたら、自分を良い親だと思い込みたい、自分の孤独を間際らしたいがための愛玩動物として仕立て上げられてきただけだとしたら。あるいはただの不満のはけ口として、弱い自分をごまかし、愚痴を正当化するための味方を作るための道具として利用されてきただけだったとしたら。

親の言っていた自分に対する「あなた」とは本当に自分なのか?親が言っていた自分が正解で、自分が思う自分は間違いなのか?

「親が言っていたことだから」という理由で通っていたことがもし、「親でも何でもない人」から言われたことだったとしたら。もし小さな子供から「あなたはダメな子」と言われたら?全く見ず知らずの他人からだったら?いきなり道端で出くわした誰かに親と同じことを言われたらどう思うか。

もしそこで感じる何かに差があるのだとしたらそれはなぜなのか。親だからなのか。なぜ親だからなのでしょうか。

与えられたいという信仰

親という信仰の根底にあるもの。それは「親から自分は与えられることで生きられる」というものではないか。

親から餌を与えられることで自分は生きていける。だから親の言うことを聞く。親の言うことに従い、親の言う通りに生きれば安全に生きていける。親から安全という餌を運んでもらい、選択や意思決定という餌を運んでもらい、こちらはただ口を開けてそれを待っていればいい。

しかし口をあけながら親から、あるいはその代わりから言われたとおりに生きても、自分の望む「与えられたい何か」は手に入らなかった。安心や愛、楽しさややりがい、人生のモチベーション、そして何よりも「勇気」…そういったものは与えちゃくれない。そういうものはすべて自分で手に入れるものだから

なにかから与えられるものというのはそこまで万能ではない。人生を豊かにしてくれてすべての問題を解決してくれるような自身を加護し保護し、すべて与えれくれるような代物なんかではない

その正体は単なる餌付けで、支配。親が都合よく子供を扱いたいがための手段であり、親が子供に自分の子供で居続けてほしいという欲望を達成するためのいびつな手段にすぎない。親という教祖が子供に自身の信者であることを望み、子供から自身を認めてもらいたいという承認欲求を得るための方法論にすぎない。

餌付けすることによって囲い込み、自分の支配下の外に出ないようにするための柵を作る。いつまでも自分を慕っていてほしい。こちらを見ていてほしいのだという願望を果たすために。自分の都合を果たすためにの道具として機能するように子供の自由意志を奪い、奴隷として仕立て上げているのがその実態。

この方法論は悪用されてもいます。例えばブラック企業はその典型。ブラック企業が消えないのはそのようにして餌付けされてきた人が親代わりに他者を求めて作り上げた人間関係によって支えているからで、日本という文化のある側面、すなわち「与えられるために生きる」を反映したものでもあるといえるでしょう。

与えられたい信仰は個人の能動的意思、自由を奪う信仰。

「与えてくれる親」という信仰。子供に「与えられたい」という欲望を植え付けてそれ以外考えさせず逆らうことができない信者にする。

これから脱信するのは本当に大変でその理由はずっと親の作った柵の中で生きてきたからであり、外の世界で自分で生きたことがないから。親の加護がない世界に一人足を踏み入れるのが恐ろしくてたまらないから。

「それが普通のこと」と親や類似した宗教観をもった周りから言われ続けて来たから。「与えられた加護、支配」を捨てられず、一人意思決定することをできないようにすでに何度も何度もいろんな何かから囲い込みを受けているから。親や周りの言う正しさを捨てることになり、正しさも間違いもない世界で一人決定することが恐ろしいから。

一人意思決定をすることができない人間として幼少期のころから作りこまれているからです。

与えられたいと望むということは、自分で手に入れたいということを望むことができなくなる思考回路を無意識に作っていること。

それが幼さであり、甘えであり、生きづらさのいったんを担っているのではないか。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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