「日本の政治家は頼りにならない」
考えてみるとずいぶん前から政治家はそんなことを言われてしまっているように思う。
汚職や不祥事などの信用の欠如もそうだけど、その大きな要因は圧倒的なリーダーシップ不足にあるのではないかと思われる。
どこか頼りないし、国会などの壇上での演説を聞いていても、どこか他人事で言っているかのように聞こえる。
本当にこの人は政治の仕事のやる気があるんだろうか、大丈夫なのか、と心配になってくる。
ただ、「どこか他人事的な気質」というのは政治家以前に日本人全体の気質でないかと思う。
リーダーシップの欠如は、そんな「日本人の思想、気質」に根差している問題なのではないかと思うのだ。
出る杭は打つ、村社会的価値観、個人の価値観や目的よりも全体の和。
他人に自分と同じを求め、同じでなければ仲間外れ。個人を否定して全体化しようとする「みんなと同じになろうとする思想」が、自分に対しても他人に対しても足をひっぱりあっていて、結果新しいことが生まれづらく、かつ育ち似にくい環境を作り上げていることが、その大きな要因ではないだろうか。
目次
消極的な民主主義
他人に合わせることが当たり前、普通。
そんな空気の中で人々は教育されて社会を作るわけだから、政治家に選ばれる人も、政治家を選ぶ国民も、そういった思想の中で人を選ぶということになる。
無難そうな人、問題を起こさなそうな人。これまでと同じような人。そういう「保障された、安全そうな人」という消極的な理由で人を求めるし、そういう人たちに同調しようとする。
問題を起こさない、まじめで言われたことだけをやる人間を日本は義務教育で育てる。
個人の特性を伸ばして新しい何かを生み出す人として教育するなど、積極的な目的では育てない。
消極的な目的で人が教育されるから、消極的な人に育って社会にでる。
その中で政治家が選ばれるから、消極的な政治家が選ばれて、消極的な政治が行われる。
消極的な価値観の人が社会を形成するから、何事においても「みんなが賛同しそうな無難な選択」しかせず、冒険なんてできないし、それを許さない。
結果新しいことが生まれづらく、周りに合わせなきゃいけない価値観の中で生きるから、生きづらく、生産性も上がらない。
消極的な価値観、消極的な考え方、消極的な暮らししか生まれず、既にこのままでは立ち行きが行かない仕組みをなんとか「現状維持」するだけ。
それでここ最近の日本は低迷し続けているのではないか。
学生やって卒業したら就職する、なんてことが「普通」になっている、「みんなやっているから」が普通で、それ以外を許さない空気だから誰も挑戦しようとすることができず、
新しい産業、需要が生まれづらくなるから既存の産業にぶらさがって利益を薄めて取得するしかなくなり、
既存サービスでの「競争」が激化するばかりで「新しい価値」が生まれず結果全体の利益が上がらないから給料もあがっていかない。そんな社会が作られたんじゃないだろうか。
自分の意志を持って生きようとしてこなかったことが、何かを変えようとすることができずに、ずるずると問題を先送りにし続けてきてしまった要因なのではないだろうか。
リーダーシップなんて生まれるわけもない。リーダーシップはある何かを強く実現したいと思った人が、周りの人たちを率いて何かをしようとしたときに初めて生まれるもの。
それを邪魔する環境が日本には整ってしまっているのだから、そんな中でそんな人が生まれてくるのは至難の業だ。
誰も自分の意見をもてない。誰も自分のやりたいことを持てない。
そういう空気がない。それがごく普通であるという空気がない。
それで民主主義だなんてやろうとしてもできない。社会主義なのか民主主義なのかよくわからないダラダラした社会にしかならない。
民主主義と日本の思想、価値観が合ってない
民主主義は、自身の価値観に基づいた積極的な動機、目的を持って生きている国民が運営するということを前提としたものだと私は思う。
しかし日本人の思想、気質、価値観は「みんなと同じになって、無難で普通な問題を起こさない良い人」であることを推奨し、「誰かの期待に応えるだけで、自分自身の目的は何も持っていない人」を求めてる。
あまりにも窮屈すぎるんだ。そんな人を求めるなんてこと自体が。
その人のやりたいことを否定して、周りに奉仕することが当然だからと、みな一様にそれを求めている。それを背負うのが政治家だなんて知ってたら、誰もやりたがらない。
そんなことできるわけがない。全員の要望を実現するために自分を犠牲になんて誰もできやしない。
それを求めている思想だから。だから合ってない。他人に求めすぎる思想のおかげで自分の目的をもつにはあまりにも窮屈だから、そんな無理なことを買ってでもやろうとする人なんて現れるわけがないんだ。
「誰が政治家になっても変わらない。」
そりゃそうだ。だってそもそも政治家云々の前にみんな同じだもの。政治家だけじゃない、自分だって、周りだって他人の目を気にして同じになろうとしている。自分の目的を持つなって言われて育ってきたから。周りに合わせて自分は押し殺せ、目上に従え、社会の常識に従え、人に褒められる人間になれ、と。
だから”みんな”そんな印象になる。そんな印象の人であふれる。
何かを本気でやりたいと思ってそれに打ち込むことが自然であるという土壌がない。それをあざ笑う風潮の方がずっと強い。みんな承認欲求の塊で、人に褒められたい、嫌わたくない、他人に使われて安全に生きたいという気持ちで生きているから、そんな勇気も意思もない。。それじゃ自分だけで何かに打ち込んで生きるなんて、自分のやりたいことなんて持てない
自分の意志や野望をもって政治家になろうだなんて思える土壌なんてあるはずがないんだ。そりゃ誰でも同じに決まってる。
明確な目的をもつ人が出てきても「異常者」「異端者」としか扱われない。
「他人は他人、自分は自分」と考えて育つことは、この国ではとても難しいことであると思う。
なにせ、子供のころに親や学校から「こう考えることが普通です」「こうすることが普通です」「みんなやっていますよ」などといった、外の普通や常識といった概念に当てはまる人間なければならないとか、他人と自分は同じでなければならない、というような全体主義的教育を施されるから。
結果他人と自分との距離感や境界線が曖昧となって大人になり、自分の考え方とは違う人間や、自分の価値観に従わない他人はみんな異常者であり、あってはならない存在だ、と無意識的に思い込んでしまったりする。自分と違う人をみると嫌悪のまなざしを向けてしまい、異端者として排除したくなってしまう。
自分と他人は同じはずだから同じ人しか認めない。そのような判断基準をもとに人を選んでしまう。
これでは自分の目的をもった”個”をもった人がいたとしてもそこに票など集まるどころか、煙たがられて見向きされる前に追い出されてしまう。
「人は違って当たり前」が否定されている価値観だから。その人が具体的に何をするのかということを判断する以前に、そのフィルターで既に追い出される。
実際、市長選挙でもなんでも、新しいことをやろうとしている人を選ぼうという風には皆人を選んでいないようにみえる。当たり障りのない人か、そもそも関心がないか、そういう個としての人をたたく風潮の方が強い。
トランプ大統領みたいな人が当選するなど、万が一にもありえないだろう。
消極的かつ全体主義的かつ保守的かつ排他主義的かつ村社会的。
守りの姿勢。現状維持。
そこに民主主義の自由はないように思える。
長らく民主主義の歴史がなかった日本
日本人は大昔から民主制とは程遠い封建的な政治体系を築いてきた。日本型社会主義ともいわれ、集団主義、全体主義といった価値観で運営されてきた。
しかし近代において唐突に日本は民主主義を取り入れた。
しかし今までの価値観が突然それで代わるわけでもない。いくら政治形態を変えても教育を変えていない、価値観を変えていないのなら、機能するはずがない。
突然何の教育も施されもしないままに民主主義をやろうとしても無理な話で、付け焼刃的なものにしかならない。
みんなと同じじゃ民主主義の意味がない
国民一人一人が、周りに合わせて同じになろうとして生きているという価値観が根底にあるということは、この価値観からすべての物事が始まるということ。
何かをするにしても、何かを決めるにしても、何かを考えるにしても、この価値観が根底にあって繰り出されたものになる。
例えばなぜ大学に行くのか、といえば「みんな行っているから」と答える人は多い。
そんな「周りと同じになろうとする」価値観から生まれた意思決定というのは、普段の生活から仕事、政治的なところまで、おそらく様々なところで無数に、無意識的に行われている。
そしてそれが意味するところはつまり、国民一人一人が自分の目的や目標ではなく、周りに合わせるために、自分の本当の気持ちに嘘をついて何かをしたり選んだりしていることを意味する。
政治家を選ぶのも嘘で、政治家をやるのも嘘。周りに嫌われないように無難に立ち回るためにそうしているだけで、そこには自分の自立した明確な意思、目的がない。
これでは新しいものは生まれないし、問題も解決していかない。問題提起すらされないだろう。
ただひたすらずるずると現状維持することしかできない。
一人一人が平等な権利の元に自分の意見を持ち寄りながら意見ぶつけ合い、それをマージしてよりよい政治方針、政策を決めていくことというようなことは起こりえない。
あってもせいぜい「正義の押し付け合い」だけ。どちらが正しいのか。どちらが正義か。自分と他人は同じはず。だから自分の考えていることは他人も考ええているはず。自分が正義だと思っていることは他人も正義だと思っているはずだ。それを否定する奴はみな頭がおかしい、と。
そんな”話し合い”しか生まれない。”たたき合い”しか生まれない。
まさに出る杭はうつしかできず、互いの意見を尊重することなんてできない。
民主主義なんかできなくて当たり前なんだ。それを扱うための土台がない。文化がない。価値観がない。知識がない
原始人にプログラミングをやれと言っているようなものなんだから。ただの宝の持ち腐れだ。
一人一人が自己を確立し、自分で決めれば民主主義を実行できる
つまり、民主主義を効果的にやろうとしたら、既存の価値観や思想のアップデートが必要なのではないか、ということ。
これまでの全体主義的な価値観、思想から、一人一人が違って当たり前で、他人を気にしない独立した意識をもち、自身の価値観や考え方を持って生きているということを前提とした価値観、思想に。
自分と同じはいない。自分自身という存在は自分だけ。そんな「孤独という自分」を受け入れること。
それをベースとした自意識の改革。そして教育システムの改良、社会通念の改良…と。まずは自意識の改革が最初の一歩なのではないか、個人的には思う。
まずは基盤から。基礎から。人から。人の考え方、価値観から。
根本から一人一人変わっていけば、そこから成長する茎も葉も、咲かせる花も、やがてみのる新しい果実も変わってくる。
周りに合わせて嘘をついて生きる生き方から、自身の目標をもって生きる生き方が自然の風潮になっていけば、他人に余計な気を遣う必要もなく、一人一人が自然に生きられる社会だって実現できるかもしれない。
一人一人が違って当たり前。他人の価値観に従わなくてもいい、他人に合わせなくていい。
他人を背負わなくて当たり前。合わせなくて当たり前、
その方がずっと自由だし、ずっと気楽だ。
せっかく民主主義の国なんだから。せっかく言論の自由が許されている国なんだから。せっかく職業選択の自由の権利がある国なんだから。
だからそういう仕組みをフル活用する。民主主義の国で、民主主義をやる。
そんな当たり前すぎることをやれるようになることが、今一番大事なことなのではないか。
供託金や選挙周りもそうだけど、請願も整備されてないしな、インターネット請願の導入どころか、請願には議員の紹介がいるとかいう民主制とはとうてい思えないシステムやね。国政進出の参入障壁+一般人の請願無理&無視+24時間ニュースメディアなし+文化的にデモ無理とか数えてもきりないね。
供託金というシステムの存在すら知らない人がほとんどだからね・・・大半は民主主義の本質を理解していないというのはその通りだと思う
原始人にプログラミングの例えは言い得て妙で面白い
日本は政治制度からしてエセ民主主義だから
中産階級が選挙で勝って国政に進出する事が出来ない
国政どころか地方の首長になる事すらハード
供託金と選挙法を改正するか国民が一様に賢くなるかしないと無理だから詰んでるかなぁ