Life is Strange 2は前作Life is Strangeの続編で、ある兄弟の物語を体験するゲームなのだが、
このゲームの最大の特徴は自分が選択したことが後のそのストーリに影響を強く及ぼすという、「プレイヤーの選択」に重きを置かれているゲームデザインであることだ。
選択の結果で大筋のストーリーが”分岐”するようなことはないが、“体験する内容”は十分にバラエティに富んだものが用意されている。
選んだ選択に対しての結果だけでなく、その時に選んだことが後の結果に影響を及ぼしてくることもあるような、結果の分岐に対する作りこみがすさまじい。
そんなこのゲームを遊び終えて最初に感じたことは、人の「選択」とは何なのかということ。
あの時何気なく選んだ選択、あの時迷って選んだ選択、あの時真剣に選んだ選択。
あの時自分はなぜ、あの選択を、あの時の感覚でしたのだろうかと。
その疑問について考えていくうちに、選択というのは単に選択するという単純なものだけでは終わらない、何かとても大きな”積み木”のようなものの上にあると思うようになった。
目次
プレイヤー自身の”在りよう”で印象がまったく違うゲーム
このゲームは、プレイヤー自身がどのような人なのかによってその体験が大きく変わると思う。
それは、プレイヤー自身が自分のことををどうとらえているのか、自分が今どう在るのかというところにある。
「世界の歯車として役目を果たす自分」
「社会に対して模範的であるべきという自分」
「自分の都合で他人を使い倒す自分」
「調和を理想とし、誰も傷つけない自分」
「社会に不満をもち、居場所を求めている自分」
「愛と絆を信じている自分」
「家族こそが自分の宝という自分」
「周りを気にせず自由を求める自分」
他にもきっと、いろんな、様々な形の自分の在り方があると思う。
そしてそんな自分の捉え方、在り方によってこのゲームは姿を変える。
ショーンを通じて自分は何を選択するのか。
主人公であるショーンを通じ、道中で様々な選択をしていく。そこには、ショーンを通したプレイヤーの様々な思惑、想定をこめたものだった。
弟のダニエルに何を望むのか。物語の中で様々な形でかかわる人物たちとどう接するのか、様々な環境で、どう自分(ショーン)があろうとするのか。
立ち向かうのか、説得を試みるか、許しを請いひれ伏すのか、分かり合おうとするのか。
そういった何かを選択するということが、自分にとってどういう意味を持つのか。選んだ選択の結果を受けて、何を感じ何をどう思うのか。
例えば相手に謝るという選択をしようとしたとき
人に嫌われたくないから選択したのと
相手を悲しませたくないから選択したのと
人としてあるべき姿とはこうだと思って選択したのと
単に先のことを見据えた投資として選択したのとでは、
その選択に対する解釈も目的も違うし、それを選んだことで得られる結果、受け取り方だって変わってくる。
ゲームで用意されたプログラムが変わるということだけではなく、そういった自分の在り方、バックボーンによって、たとえ同じ選択、同じ結果を得られたとしても、
その時に感じることや考えることといった、見え方、”描いた情景”は人によって大きく違うのではないかと思ったのだ。
人生の選択に保証はないということ
前作よりも増した選択の重み
前作は主人公マックスの能力「時間を巻き戻せる」という能力によって選択をやり直すことができるという「あの時もしあの選択をしていたら…」がもしできたらどうなるか、というところにフォーカスされていた。
しかし結局の所人は常に一つしか選択できず、どちらを選んでも何かを得る代わりに何かを失うということが大筋にあって、プレイヤーはそのどちらも見たうえでも選択を迫られる、因果律を避けることができない、というようなものであったように感じる。
それに対して今作は時を操る能力ではない。つまり、一度選択したことをやり直すことはできない。現実と同じように、一度選択したらそれを撤回できない。
それが今作をより一層リアルで、より重みのあるものに近づけていた。より差し迫った”選択そのもの”をテーマにしたような内容になっていた。
前作よりも慎重に選択していたが、それでもいつも想定とは違う結果をこのゲームは見せてくれた。
そんなゲームの作り込みに驚かされっぱなしだった一方で、それは現実だって同じだった。
現実でも保証のない選択を繰り返している。
明日がどうなるかは誰もわからない。明日どころか数時間、ほんの次の数分後だって、自分や他の周りが何をしているかわからない。
わからないけど、選択はすることになる。
何もわかっていない未来に向かって、現実で選択をしている。それを人は現実で日々繰り返している。
なんてことはない、朝いつ起きるかとか、起きた後何をするかとか、何時発の電車にのろうとか。人は起きてから寝るまでずっとそんな選択の機会の連続をしている。
平和な国で生きている私にとっては日常は全て小さな選択だし、他愛もないものばかりだが、そんな小さなものだってすべて常に想定している結果が保証されているわけじゃない。
目覚ましをかけても起きれないことはあるかもしれない。電車が遅れて乗れないかもしれない。実際そんなことが起こることもあるし、それがいつ起こるかなんてわかりもしない。
自分が日々何となく行っている選択すら、何も実際には保証されていない。
その想定が外れたら、それをどうにかするために緊急で別の選択をする。顔も洗わず服だけ着替えて出るとか、タクシーを使うとか、
そうやって選択をし続けていく。
そしてこのゲームも、そんな何気ない日常の中でも相手に対して何を返答するか、何をするかを選びながら、彼らの日常を通じてそれを体験することになる。
結果ももちろんそれによって変わっていく。現実に近い生々しいやり取りまでが細かく作りこまれ、”何気ない選択”を体験していく
選択という”積み木”によって人は作られていくということ。
選択は今の日常だけじゃなくて、自分が生まれた最初の瞬間から続いている。
自分が今日の自分に至るまでの、様々な選択の数々。その日に何をしようと考え、実際にしてきたか。
何かに必死に取り組むことを選んだのか、何もしなかったのか。
困難が目の前に立ちふさがった時、立ち向かっていったのか、逃げたのか。
それと同じようなことを、劇中の自分(ショーン)を通じて体験していくと共に、弟のダニエルに対して行う選択によっても、ダニエルの成長を見ていく中で感じ取っていくのだ。
ショーンは兄としてしっかりしなきゃ、ダニエルを守らなきゃという責任感を持っている。だから弟には常に兄として接し、何かを教えようとする
その内容は社会規範にそうべきだというものだというものだったり、そんなの関係なく自分に素直になれというものだったり、道徳心に訴えるものだったり、様々だ。
しかしそんなショーンが、プレイヤーが期待する「こうなってほしいダニエル」とは裏腹に、ダニエルはダニエルで、「ダニエルがなりたいと思うダニエル」へと成長していく。
ショーンの選択したダニエルに教えることにダニエルも影響をうける。しかしそのままこちらが思ったように影響を受けるわけじゃない。
ダニエルはまだ9歳、知らないこともたくさんある子供ではあるが、一人の人間だ。
ダニエルも何が自分にとって大事なのか、何が嫌なのか、そういったことを感じながら学び、成長していく。
そんな中で若い二人は時に衝突を繰り返しながらも互いに日々何かを学んでいく。ショーンを介して選択をしているプレイヤーもそれを感じていく。
このゲーム全体を通して行うプレイヤーへの選択のさせ方がとても巧妙で、何気ないやり取りの選択をするなかで慣れてきたところで、突然差し迫った状況化で選択を強いてくる。
自分が置かれている環境や状況が変わっても自分の選択を貫けるかどうかを試してくる。
そしてその選択をするたびに、予想外の結果を突き付けられたりする。それでも自分は今後も同じ選択をするのか。心を入れ替え、別の選択をするのか。
そんな自分の在り方をまるで試すかのようなドラマを体験させてくれるのだ。
そして物語の大詰めで、その積み重ねの結果が華を開く。それはまさにショーン、プレイヤー自身の選択の積み重ねに対する、ふさわしい内容だった。
積み重ねられてできたそれぞれの人格が作り出した結果の集大成。
「積まれた”積み木”の姿」が、そこにあった。
人の人生は選択の連続だということ。
このゲームは「何かを選択すること」、人生の上で何かを選択するという、生きていれば当たり前にいつもしている”人の日常”について、多くの気づきをくれるゲームだった。
何かを選択して生き続けること。それが人の人生。
その積み重ねが人を作る。
このゲームは、自分という存在は今まで自分が積み重ねてきた選択たちで作り上げてきた”積み木”だ、ということを気づかせてくれる。
自分は今までの自分の人生で、何を積み上げてきた?
何をいつどう選択肢してきただろうか。
そのしてきた選択たちに、今自分はどう捉えているのか。
後悔しているのか、満足しているのか、納得しているのか、
楽しかったのか、悲しかったのか。誇らしいのか、情けないのか。
そしてその選択は、自分が選んだものだったのか。自分の本心で選んだことだったのか。
誰かに選んでもらっていたのか。「誰かがそれを選ぶから自分も…」、と周りに合わせて選んだだけだったか。
その選択の在りようが、その積み重ねたちが。これらから今自分が何をどう積み重ねようとしているのか。
それが、まさに今ある自分自身の在りようになっているのだ。
様々な状況下においてプレイヤーに選択の機会を用意しているこのゲームは、他者に対する自分の在り方や、自分の選択について自分がどう考えているかを本当によく反映してくれる。
自分という人格、価値観、考え方、行動規範、感じている様々な感覚たち。
そういったすべての自身の内面を形作っているもの。そういうものをこのゲームを通して感じることができる。
自分は今人生をどう生きているのか。今まで自分が何をどう選んできて、これからもどう選ぶつもりでいるのか。
そこにすべてがある。自分という存在が何なのかという答えがそこにある。
そしてこのゲームはそれさえも見せてくれる。最後にショーンたちは一体どのような結末を迎えるのか。どのような自分を作るのか。
それを最後まで見せてくれる。
“自分”とはすべて自分がそう作ってきた結果だということ
他人に選んでもらおうが、最終的な選択をするのは自分自身だ。
自分が自分を作るのだ。それは変わることはない。
その選択の”責任”をおうこと。自分が選択したその結果が得られることは避けようがない。
自分の選択を”受ける”のは自分しかいない。
ショーンやダニエルもそうやって成長し、作られていった。エンディングを迎えてみればそれがいかに作りこまれているかがわかった。
選択に正しいも間違いもない
しかし選択と、それがもたらす結果、その積み重ねたちに、正しさや間違いなんてものはないのだ。
どんな選択をしようと、どんな結果がもたらされようと、
今目の前にある現実はただあり続けているだけだ。今を否定して消してしまうような選択は存在しない。死なない限りは。
ゲームがエンディングを迎えた後も、それをたっぷりと匂わしてこのゲームは幕を閉じていく。彼らのストーリーも語られないだけでそれは続くし、彼らが死ぬまでそれは続く。
人は命続く限り現実と対面をし続ける。現実は自分の選択がどうあるかどうか無関係に、ただ無意味に流れ続けている。
そしてそう在り続けている現実に対して、人は選択を繰り返す。
つまり生きるということは、何かを選択し続けるということなのだ。
積み木を積み続けることなのだ。
だから積み重ね続ける。それが人の摂理。その命が尽きるまで。
——
このゲームはそんな「選択をする」ということが何なのかということを、ショーン達の物語を通して語ってくれた。
いや、体験させてくれた、といったほうがより適切だろう。
その語りをどう受け取るか、どう体験するかというのは、本当にプレイヤー次第で、それはプレイヤー自身が自身の人生でしてきた選択たちの積み重ね方によって大きく異なる。
こうしたゲームはなかなかない。プレイヤー本人の現実の積み重ねによるというのは。
ゲームどころか、映画やドラマ、小説だってなかなかこのような体験をさせてくれる物語と仕組みをもつものはないだろう。
「ゲームなんて大体みんな同じ」なんてそんなの大間違いだ。
このゲームは一点もの、ユニークな体験をもたらしてくれるゲームに違いない。
遊び方によっては、自分の人生に強い影響を与えることすらあるかもしれない。そんなゲームだ。
だから、ゲームにそれほど興味がなくても遊んでみる価値は十分にあるはず。操作方法も簡単で、複雑なアクションもほとんどない。直観的に遊べるように作られているから、ゲーム初心者でも遊びやすい。
本当におすすめのゲームだ。
■Steam
https://store.steampowered.com/app/532210/Life_is_Strange_2/
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