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すべては他人を理由に自分を否定していることから
生きづらさというのはもっぱら精神的不快感を感じて生きることを強いられている、というような状況に置かれてしまったときに感じるものだと思う。
経済的な理由だったり、人間関係だったり、何か自分では解決ができないような、どうしようもない問題があって、そのおかげでそれがとても苦しいことだと感じていて、それで生きづらいと感じる。
でもその「どうにもならないこと」っていうものは大抵「人間関係」に関するもんだったりする。
友人関係や職場の人間関係は言わずもがな、経済的なものであっても、「(他人と比較して)自分は貧乏でみじめだ」という風に、誰かを引き合いに出してきて自分を苦しめている。
他人を自分の幸福の条件として巻き込んでしまっているんだ。
他人を巻き込まないと自分を幸福にしちゃいけないと思っている。他人を使って自分を何かの基準で照合してから、自分が幸福か不幸化を感じようとする自分がいる。
だったらそれをやめれば、生きづらさなんて感じる必要はなくなるんだ。
不満や不幸に目を向けても苦しいだけ
不満や不幸というのは、自分がそれを見ようとしているからそう感じるというだけ。
外の何かと比べて、自分はどこか”いけない気がする”、おかしい気がする、間違っている気がすると、自分を卑下してしまっているから。
他人の目を気にしたり、社会の目を気にしたり、そうやって外に自分を否定する何かを見つけてきて、だから自分はダメなんだ、不幸なんだと思い込んで苦しめてしまっている。
期待しても苦しいだけ
いくら他人の目を気にしてもしょうがない、ただ苦しいだけ。いくら気にして、その目に気に入られたとしても、自分の人生がそれで変わるわけじゃない。
いくら他人が自分のことを好きだといっても、かわいい、かっこいい、すごい、といってきても、
自分が自分の人生を楽しんでいないと、楽しい人生は送ることはできない。
誰かや社会の都合を気にして、いくらそれに合わせても、それに対する見返りや保証が保証されているわけではないし、
いくら政治家に愚痴をいったとしても、芸能人の不祥事に腹を立ててSNS上で騒いでも、それで自分の不満が解消されることもない。
解消されないから繰り返してしまう。解消されないから毎回そんなニュースを見るたびにイライラしてしまう。
結局かなうことのない自分の期待と欲求を抱えたまま、義務や他人の目という苦役を背負っている自分だけがそこにいるだけになって、それをそんなニュースをみて発散しようとごまかすことしかできなくなる。
そしてそんな風に人をたたいても、たたかれた人はたたかれた人でそんなこと気にもしなかったら、それはきっと全然面白くないことになる。
そして多分大抵の人は、言われても気にしていない人達ばかりだ。気にしていないから今も生きてテレビに出続けることができているわけなのだから。
結局他人は他人の都合で、自分の都合とは違うことをして生きるということをやめることはない。それは自分自身もそうであるように、生物としての作りの問題だから、それが変わることはない。
期待して不満をため続けて、生きづらさは自分の中に作られていくんだ。他人に期待して、他人に不満を抱えて、その結果は生きづらさが自分の中で生まれるだけ。
損しているだけだ。
今自分に「できること」だけを考えよう
今自分ができること。それは、何かを期待したり待つことではなくて、今自分の周りにあるもので行動すること。手を動かすこと。
自分で動く。自分で考える。自分でやる。
何かを他人から「もらうこと」は考えなくていい。それが他人にとってどうなのかということを、考えなくていいんだ。
大したことでなくてもなんでもよくて、とにかく自分で何かに取り組んでいれば、不満はたまっていくことはない。外に期待することも見返りを求めて何かすることもやめて、自分を否定せずに自分の気持ちに素直になって、やりたいと思うことをやれば、不満なんて感じている”暇”はなくなる。
期待する”暇”も何かを待つ”暇”もなくなり、目の前の自分のやっていることで自分が忙しくなる。
それを自分の生き方にしてしまえば、生きづらさを感じる”暇”もなくなる。
怠惰は不幸の始まり。自分で自分の人生を生きないのが、生きづらさの始まりなんだ。
期待が満たされにくい時代。だから自分で決めて自分で幸せになろう
「生きづらい時代」なんて言われていう昨今、それは昔に比べて、自分の期待が満たされにくい時代になったと言い換えてもいいんじゃないかと思う。
実際それは多分事実で、みんな同じ事をしていれば幸せだと思い込めた過去の時代とはもう違う。
みんなと同じことをしていれば、社会が、会社が、他人が、家族が自分を幸せだと言ってくれる、保証してくれる。
そんな「幸福の至れり尽くせり」な時代は、もうとっくの昔に終わったんだ。
インターネットで海外の情報をいくらでも仕入れられて、もっと幸福な在り方というものもわかってしまったし、もっと自分らしくいた方が幸せなんじゃないか、と個人の幸福を追求する動きもある。
いくら働いても昔みたいに給料があがるわけでもなく、ただ自分を犠牲にし続けていればいい、なんて考え方はもうほとんどの場合で損しかしない、通用しない時代になった。
社会はすでに全員の幸せを作り出すものではなくなった。会社が人生の面倒を見るという、”狭苦しい価値観”はもう嫌がられているし、会社もそんな体力はもうない。
個人それぞれの幸福の定義が違うものなってきたから。画一的な幸福の価値観を提供するという過去の時代の遺物は、もう通用しなくなった。
そしてそれは、他人に勝手に決められずに自分で決められるということでもある。
もうなんらかのヒエラルキーにいないと自分を肯定できない、幸せになれないだなんて思い込まなくてもよくなったんだ。
勝ち組負け組、結婚と独り身、そういうもので二分化して、どっちになれば幸福でどっちになれば不幸だ、なんて、外が勝手に決めた幸福や不幸の定義に乗ってって自分の幸福を決めなくてもよくなったんだ。
自分で決めていい。そう思える世の中に、ようやくなってきたんだ。自分の幸福を自分で決めていい、そんな空気がようやく出来上がってきた。
だからそう思えるようになってきた新しい現代の価値観を存分に実践した方が、これまでよりももっと幸福になれるに違いない。
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