孤独を受け入れて変わる「世界」




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2020年04月25日~:
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自分の心だけを人は知っている。

人は常に一人である。というのは、人は誰かと一緒にいても、どれだけ多くの人に囲まれていても、

常に自分を感じ取っているのは自分だけだし、他人の心を感じ取ってなどいないからだ。

人の心は生まれたときからずっと一人で、自分以外の心をなに一つ知らないままその生涯を終えていく。

だからどんな人であろうと、他人の心をどうにかしたり、助けるようなことは全くできない

他人の心は関知すらできず、知りえもしない。

触れられるものではないからだ

仕事など手に触れられるところ、目で見える部分は助けることはできるかもしれない。身体的な負荷を減らすように仕事の采配を変えたり、休暇を取らせたり、薬物などに頼ることで体調を少しばかり改善することもできるかもしれない

しかしその人の「心」を他人や外のなにかが直接”救う”ことはどうしたって不可能だ。

そこを助けられるのは、それを唯一知っていて、感じ、使うことができる自分自身以外にいない。

それを知って世界は一変する。

特に、他人に理解されていることが当然のように勘違いしていた

他人に「されている」から自分は「こうなんだ」と思い込み続けてきた私にとっては、

まるで見違える別世界に生きているかのような感覚になった。

全部自分が「している」ことだった

他人に「されている」という思い込みを捨てると、

今までのされていると思っていたことは、全て自分の意思で「していること」だったことに気づいた

全て自分一人でやっていることだった。実際に他人から「されている」ことなどなく、

自分が他人に「されている」かのようにみていただけ

そのように他人を”使っていただけ”にすぎなかったことに気づいた

「されている」ことで自分を正当化しようとしていただけだった

「自分は否応なしに他人にさせられている」、とみることによって、今の自分はしょうがなくこうなっている、しょうがなく不幸なのであるというように、

他人を自分の正当化、言い訳に使っていただけだった。

嫌われたのはあいつがおかしいから。あいつが悪いから。自分があいつに好かれなかったのは、あいつが変なやつで常識を知らないから。

自分は普通なんだから。あいつが間違っているから、自分は正しい、と。

そうやって人に嫌われる現実から目を背けていた。

人に嫌われることを非現実的な、あってはならないことだとずっと思いこんでいた。

それによって、孤独になることを拒否していたのだった。

孤独を悪者だと思い込んでいた。

だからこそ、それを畏怖し、目を背け続けていた。

他人から嫌われたり見放されたりしたとき、“自分が”悪者だとした孤独に陥りそうな自分に言い訳をするために、他人を自身の正当化の道具として使ったのだった。

しかし孤独とは、悪者でもなんでもなかった。人としての基本的な状態であることに気づいたのだった。

人はその生物的な仕組み上、誰の心も知らず、感じ取ることすらないまま死んでいく、生涯孤独の生物なのだから。

だから仮にその他人に嫌われようが、好かれようが何も関係がないことに気づいた。

これに気づいて、私は「されている」という正当化、言い訳をする必要性の一切を必要としなくなった。

それを経て、そのかつての考え方が自分の苦しみを作り出していたことにも気づいた。

孤独とはかつてない「安息の状態」だった

かつては孤独を悪だととらえていた私。

それ故に孤独を恐れ、他人に嫌われることを恐れ、他人に好かれなければと必死に自分に鞭をたたく日々を送っていた。

しかし、そんな他人への依存心をすて、自分の世界から「他人の心の存在」を消していき、かつ、自分が他人の心を作り出していたことが自分の苦痛の根源であったことに気づいていくと、

どんどん安心感が芽生え始めた。

それも自然にである。

何もしていなくても、一人で安心感を感じられるようになったのだ。

それは、かつて私が承認欲求を満たすことができたときだけに感じられた、満たされた、安心した、快感にあふれた感覚たちだったのだった。

皮肉にも承認欲求を求めるがゆえに、それらの感覚を一旦手放していたのである。

そして承認欲求を得たときだけ、その手放していた感覚たちを感じようとしていただけだったのだ。

他人の目を気にしている時は、自分を台無しにしてしまっていることに気づいた。

目の前のことを捨てていた。

目の前の仕事。今しがた取り掛かっていた趣味、勉強。

そういうものを放り出して、周りの他人がどう自分のことをとらえているかばかりに意識が言っていたことに気づいた。

そうしている間は完全に手が止まってしまっていて、何も進まず時間だけが過ぎていくだけだった。

目の前の現実を捨ててしまっていた。そのせいで現実がうまくいなくなっていた。

他人の目という妄想に生きようとしていた。

目の前のことにすべてが詰まっているのに、それを見ようとしない。本気になろうとしない。取り組もうとしない。

ずっと現実を拒否していた。他人の目に逃げていた。

それは、現実をつまらないものだと、自分の心のどこかでそう決めつけて退避していたから。

現実に本気で取り組めないのは、単に目の前のことを信じていないだけ

他人が作り出すものや他人の都合を信じているだけ

妄想を信じているだけ

現実よりも妄想のほうが楽しくて安全で満たされている世界だと信じている。

自分という現実よりも、他人という妄想のほうが楽しいと思い込んでいる。

そうやって自分を台無しにする。現実を台無しにしてしまう。

そんな生き方をしてきたことに気づいて、それを捨てた。

現実だけをみて、現実に本気で取り組んでみた。

そうすると、面白いものが次から次へとみつかるようになった。

何かを発見することほど面白いものはないと知った。

絵を描いたり、英語を学んだり、いろんな現実の何かに取り組んでいく中で、数々の発見があった。

自分の見ている景色の仕組み、英語という言語の構造や表現方法、自分でやってみたり本で読んで学んだりしながら、いろんなものを発見していった。

その中にある数々の発見が、最高の刺激であり、面白さだった。

そしてその発見とは、現実の世界に対してのみできることであった。

現実の世界で取り組んだ何かに対して、「こうしてみたらどうなるか」「これも試してみよう」「こう考えてみたが、実際どうだろう」と何度もトライアンドエラーしながら積み上げていくこと

それは他人の妄想の世界に生きようとしていたあの頃には決して見ることのできなかった世界だった。

「世間が自分をどう思うか」も必要なくなった

他人や世間が思う自分という存在に、自分の欲しかったものはなかった。

豊かさが欲しかった

自分がずっとほしかったのは生きがいとか楽しさとか、そういった人生に対する豊かさだった。

そんな豊かさが目の前の現実につまっていることを知ってからは、他人の目、世間の評価など、すでにどうでもよくなっていた。

自分の人生を豊かにするどころか不幸にしかしていなかった他人の目に縋る理由は、現実を見るという自身の決断によって消し飛んでしまった。

世間では「孤独は恐ろしいもので、避けなければならないもの」として皆畏怖しているのが現状であると思う。

友達のいない生活なんて耐えられない。恋人がいないなんておかしい。

老後どうするとか、孤独死したらどうするか、家族がいない生涯は寂しいとか。

そういう声をよく聞く。目にする。

だからあえて孤独を受け入れる人はおそらく、彼らから見れば「変人」なのだろう。

しかし孤独を受け入れた人からすればそれらはすべて「取るに足らないこと」になる。

かつての私なら、そんな世間という多数派にこびへつらい、孤独を恐れる側に身を寄せていたに違いない。

変人はごめんだと、大多数側の他人にしっぽを振って、自分を殺していたに違いない。

自分をコントロールできるようになった

今までの私は、ずっと他人から「される」ことで生きてきた。

だから自分をコントロールできなかった。自分の在り方や行動のすべてを他人の都合にまかせていたからである。

他人からされることばかりを欲し、されることに価値があると思い込み、

自分がすることには何ら自信を感じることができなかった。

しかし、孤独を受け入れる中で「自分のする」という感覚に目覚めていくと、

もう他人からの「される」が必要のないことであることもわかっていった。

他人の都合で生きるのは苦痛だけだった

他人から鞭をたたかれることを懇願し、義務の意識を作って己を苦しませ、その義務から自分を解くために承認欲求を求め、それが得られたとき、その義務の意識を自分からといて楽になるという、

とんでもない自作自演、それもドM思考、奴隷思考に陥っていた自分。

しかしそれも孤独を受け入れることで全て必要なくなった。他人から鞭をたたかれなくとも、自分がすることをやってよかったことに気づいた。

自分の素直な「したい」、「する」だけでよかったことに気づいた。

自分が感じたいように感じる。したいようにする。

今在る感覚すら、自分が自分の意思で感じようとして感じている。

自分でそれを選べることに気づいた。

それに素直になることが、自分の人生の課題のすべてであることに気づいた。

誰かが自分をみていなくても、結果が実らなくても、そんなのは全部他人の都合で自分が決めたことでも何でもない。

自分がしたいと思ったこと。自分がすると決めたこと。基準。

そんなすべてを自分で決めて、自分で好きなように学んで感じて楽しんでよいことに気づいた。

そこにはかつて感じたこともない自由があった。

「他人教」信者だった自分に気づいた

もちろんそんな宗教はない。公的には。

しかし私が陥っていたあの価値観、思考回路の実態は「他人ありきで自分を使う」というものであった。

他人が嫌うことはしない。他人に好かれることをする。他人に褒められることをする。

どのような行動にもまず最初に他人の都合を念頭に置いていた。

それはもう、宗教以外の何物でもない。

私は他人を”神格化”していたのだ。

私は他人の狂信者だった。

そんな風に自分を客観視できるようになったのも、孤独を受け入れ、他人が自分の神ではなくなったからだ。

孤独の受け入れは、他人教から脱信することだった。他人の言い分にも他人の作ったものの上にも生きる必要のない、自分だけが自分を決める、そんな宗教観。

ただひたすら、自分の感覚と自分の決めた目標を掲げて生きるようになった。

孤独を受け入れた精神は自由そのもの

孤独は自由そのものだった。

安定的で恒常的な安息感を感じながら、自分の決めたことに素直に従事できるこの精神性。

これが私の求めたいた自由でもあった

このブログの目指す自由とは、まさにこれのこと。

自分の都合、自分の恣意性に素直になった、すべてが他人の都合から解放された世界観、宗教観をもったもの

自由とは孤独を受け入れた精神だったのだった。

その自由を行使すること。

自己実現、自己表現という行為そのものが、自分の目的に向かって突き進むことがこれほどたぎる、心地の良い面白いものだったとはおもいもよらなかった。

自分の感覚を信じるというのは、こういうことだったのだと。自分の素直な欲求を信じ素直に感じようとすることが自分を信じることだったという事に気づいた。

世界の見方を変われば全てが変わる。

自分を変えるということは、世界を変えるということに等しかった。

人間のいう世界とは全て主観的事実でしかない。だから観測器たる人間の”チャンネル”が変わればいとも簡単に世界は変わる。

モノクロのチャンネルからカラーチャンネルに変えるかのように、使う感覚を変えるだけの問題だった。

そうして古いものをすて、新しいものを見つけつかっていけばよかった。

人間は変わることができる。悩みを必要としない世界を、人は作ることができることを、この身をもって知ることができた。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

2 件のコメント

  • 承認欲求のページを最初から遡って、今ラスト一ページまで来ました。
    Elepanさんのおっしゃってる感覚、言葉の選び方、私は救われています。私の感覚をここまで代弁して、しかも乗り越えてる人がいるなんて。全ページ読みたいと思うほど、私にとってガッチリ繊細さとその承認欲求の強さが似ているように感じました。今も、本当に苦しんでいます。でも、こちらのブログをキッカケに、静かですがコツコツと変わる準備をしています。
    本当にありがとうございます。

    • Y.mさんのお役にたてれば何よりです。ご自身のペースで無理なさらずにご自身の変わっていきたいと思うように変わっていけることが良いと思います。

      突然ですが、私自身が変わるために必要だった根本的なところを一つここでシェアさせてください

      それは「今生きている自分という感覚」こそが自分の生きているところである、ということに気づくことでした。それ以外の物は全て”オプション”だった、ということに気づいたことです。

      https://note.mu/elepan/n/n48465796bc1e

      思い込みって多分、例えば「○○しなきゃダメ」というように、そう思うだけじゃなく、ダメって言う部分に「それをしなきゃ自分は本当にダメになってしまうから絶対やらなきゃ」みたいな脅迫的な感覚を結び付けて管理したりするような、思考と感覚をセットにして自身の記憶に残すことだと思うので、

      私の場合はいざその思い込みをやめようとすると「絶対やらなきゃいけないことをやめようとしているのに本当にそれでいいのか?」みたいな自分を脅迫するルール、感覚が邪魔して、怖くて中々一歩前に踏み出せなかったりしました。

      でも結局のところ、日々の気づきや経験の中によって、その思い込みのメカニズムについて自分の中で感覚的に腑に落ちてくると、

      最終的には、人が幸福とか不幸って読んでいるものの正体はただの「自分の感覚」で、それに名前をつけているだけ、っていうことが感覚的にわかってきて、

      自分が何をしているか、何をしていないかなんて関係なくて、今自分がどう感じるか、どう感じようとしているかどうかだけなんだ

      っていうことに気づいてからはスっと自分の中の重たいものがなくなって楽に生きられるようになりました。

      自分の人生を誰かに楽しませてもらうのではなく、誰かにお膳立てして安全を確保してもらう必要もまったくなくて、

      ただ自分が自分の意志で楽しもうとして楽しむ、自分で自分の人生を生きようとする、という考え方に変わっていったのです。

      きっとそんな最終的な答えは人によって色んな形があるのではないかと思います。

      そしてそれは誰だっていつか見つかると思うんです。

      私にも見つけられたので、Y.mさんにもきっと見つかります。価値観や思考、文化などそういった「思考」の領域において、人それぞれの違いがあっても

      「人間」というメカニズム、その点においては皆それほど違ってはいないんじゃないかと思います。

      だから人間である誰かができたのなら、きっと他の人だってできる、と。

      あ、もちろん押し付けている意図はないですよ。ちょっとした“エール”です。Y.mさんの勇気の足しになればと思いました。

      Y.mさんの人生の幸福を祈っております。

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