孤独を受け入れて変わる「世界」





人は常に一人である。常にかわらない。仕事でへばっていようが体に無理をきたしていようが、他人は他人を助けることはできない。

確かに、仕事など手に触れられるところ、目で見える部分は助けることはできるかもしれない。身体的な負荷を減らしたり、休暇を取ったり、薬物などに頼ることで体調を少しばかり改善することもできるかもしれない

しかし人そのもの、その人の「心」を他人が直接”救う”ことはどうしたって不可能だ。

心は形がないもの。外に出てくることはなく人の内側にある思考、感覚、精神そのものであるからである

目にも見えず、手にも触れられないものを、人はどうすることもできはしない。できるのは自分の内側にある”感じられる”それらだけである。

自分の心を救えるのは自分自身だけである。

心つまり自分のことは自分で救えるようになる必要がある。

そして、そのための第一歩が孤独を受け入れるということなのである。

孤独であることは世間的にはマイナスであると考えられている。

世間が孤独というものをどうとらえているのかはわからない。おそらく多くの解釈があるだろうが、

その解釈の中で孤独を避けるために他人の心に支配されることが選んでしまっている人達がいる。

そしてその渦中で苦しんでいる人も。

そういう人達は孤独を避けるのではなく、孤独を受け入れることに務めた方が価値があるのではないかと思うのだ。

孤独を受け入れることで、自分をコントロールできるようになる。

そうすれば、自分をコントロールしているのは常に自分だけであるということに気づくことができる。

自分以外の存在が自分をコントロールなどすることは元々物理的に不可能である。人の脳は自分の体にしか繋がっていないのだから。

しかし、承認欲求が強い人や、他者に依存的な人は他者に取り入ったり、支配されることで自身の安全を買えると信じていて、あたかも他者に自信をコントロールさせているかのような錯覚に陥っている。

他人を”神格化”している

他者を恨んだりねたんだり、裏切られたと感じたり、好かれることや嫌われることを気にしたり。

他人を近くに感じすぎているのである。

他人とは本来はずっと遠い存在だ。少しも感覚や思考を共有などしていない、完全に独立した存在が他人という存在であるにもかかわらず、まるで「つながっている」と感じている。

だからこそ、他人の目におびえ、その”つながり”が断たれることを非情に恐れている。

そんなもの本当はどこにもないというのに。

そういう自分の心の隙。他人の心を自分の一部だと思い込む心。その奥にある心の弱さ。

他人なしではいられない心。孤独を恐れ他人と一つになりたいというような、寂しさを生めたがる心の弱さ。

他人がいなければ自分を決められない、他人の心に囚われる不自由な精神性。

自分自身ではなく他人や他人が作り出した何かに自分の正当性の担保を求めようとする心の弱さが、他者に支配されるという自身の状態を作り出してしまっているのだ。

自分を”保証”してくれるものなど、外のどこにもない。

誰かに好かれるだとかほめられるとか、○○すれば価値があるとされるものとか、
そういわれているものたちは全て、自分以外の様々な他人達が勝手にそう考え、勝手に決めただけにすぎない。

自分はそれにただ追随しようとし、しかしそれができず置いてきぼりを食らっているのではないかと感じている。
そして自分自身を責めるのである。

「なんて自分はダメなんだ」「ダサい」「かっこわるい」「バカ」

そうやって他人が決めた基準に自分が満たないことを理由に自分を責めるのだ。

しかし繰り返すが、それは他人が勝手に決めたもの。自分と同じ人間という他人が決めたものでしかない。

此の世に本当に価値があるものだとか、優れたものというものは存在しない。全てはそう見ているだけなのである。自分がそう見ようとしているだけである。

人々が個々にそう考え、そういう風に見ようといって、その結果多くの人間たちがそう見ること、考えること、価値観をもつことに賛同した結果にすぎない。

そして自分もそれに賛同し、従おうとしているだけの話なのである。

人は真に何も”もってなどいない”。いかなる優れ手いるとされる人間も、劣っているとされる人間も、

みな等しく”もたざるもの”なのである。

この世は本質的に価値があるものなど存在しないのだから。みなつきつめれば単なる物質とその運動でしかないからである。そんな物理的事象を自分がどのように見ているのかというだけのことなのだから。

全ては石ころ同然なのである。石ころをいくらもっていたところで、何かを持っているとは言えまい。

人が本当に”もっているもの”

そんな”もたざるもの”でも、一つだけ真に持っているものが実はある。

それは自分の内側にある“自分という感覚”だ。今感じている自分という感覚。生きている感覚。これこそが自分が持っているものなのである。

それ以外は何も持っていない。自分自身というものがあるのだとしたら、それだけなのである。

人間の本質は、自身の感覚という原始的な、この世界を感じている観測機という概念だけであり、自身の体さえもその観測するための機能、機体でしかない。自分の体にさえ、本誌的な価値などどこにも存在していないのだ。

だからそんな自身の感覚に従い、それを肯定し続けながらそれに従って生きることこそが、自分らしさなのだ。

みな等しく“もたざるもの”なのである。であるにもかかわらず、他者に支配されようとする人というのは、自身をその中でさらに下等であるとみなし、同じ持たざる者であるはずの他者を神であるかのようにとらえているのだ。

他人に導いてもらおうと思っているのである。他人こそが自分の正解を常に指示してくれるのだと。自分の行動や自分そのもの、思考が正しい、優れている、素晴らしいと真に評価し、自分の人生を保証してくれていると思い込んでいるのである。

しかし残念なことに、他人は神ではない。自分と同じ”もたざるもの”であり、本当は真にすぐれたものも知らないし、評価もできない。自分と同じようにただそう思い込んでこれはいいだとか悪いだとか言っている、いい加減な存在でしかないのである。

他人の評価、他人の目、そういったものたちに真に価値があるものなど何もない。

だからそんな愚かな神を捨てればいいのだ。最初から神でもなんでもない自分と大して変わらない人間という存在なのだから。

他者という神をすて、自分の人生をコントロールするのである。それができれば自分の人生を歩むことができ、幸福に生きることができるようになる。

自分の人生を生きるために慣れが必要

他人という神をすてて他人の意志や思考を気にしなくすると、自分の心にぽっかり穴があいたような感覚をえる。

空虚感という感覚といえば想像しやすいだろうか。

今まで他人の感覚までも自分の感覚であると思い込んでいた人にとってはその深度が深ければ深いほど、強く求めるほど、強い空虚感を生みだす。

それが寂しさという感覚につながっていくことがある。それで孤独を恐れる。

そしてその寂しさは、一人でいるということが「間違ったことである」と思い込ませる原動力になっている

しかしそれは単なる解釈の錯覚でしかない。こう感じるのは、まず単に“暇”なのである。

自らの意思で始めようとすること、したいことがない。

今まで誰かに「されること」ばかりしていたからであり、それで自分をみたしていたからである。

いままで夢中になっていた、ならざるをえなかった「自分にされることをくれる存在」、「他人の都合という存在」を捨ててしまうことで

今まではそれで自分を忙しくしていたのが、とたんに全てなくなってしまうわけだからである。

何も手元に残らない状態になってしまった。夢中になる何かを失った状態であり、それほどに他人の目しか考えてこなかったことを意味している。

そしてこの暇の感覚を寂しさとか、孤独であると解釈しているのである。

この”空虚感”を肯定的に、これこそが通常の感覚だったということを受け入れること。これが、正常な自分で自分をコントロールしている感覚として必要不可欠なことなのだ。

この「空っぽの感覚」は何も間違ってなどいない。受け入れてよいのである。これを受け入れてこそ、静かでゆったりとした心の中で人生を過ごすことができるようになるのだ。

これこそが本来一つの生物として正常な感覚だ。それが本来の自分の全て。

本来の自分とはずっと地味で静かで、単純な存在なのだ。自分という存在が感じている感覚そのものが自分自身であり、それ以上でも以下でもないのである。

他人の感覚を自分の感覚と思い込まず、全て自分の感覚だけで完結できる精神状態。

かつて求めていたものは一種の危険な薬物だったのである。承認欲求という欲求を求めることで多く報酬系物質を脳に解き放つように幼いころから訓練、洗脳してきたからだ。

そんな脳内麻薬でも求めていたのだろう。それに病み付きになっていたのだ。

「空っぽの感覚」を埋めようとする必要はない。埋められるものではない。それが普通の感覚だったのだから。

それに不快感や不安感を感じるのは、否定的に見ているだけなのだから。

孤独を受け入れた精神は自由そのもの

孤独は本当に自由そのものだ。孤独を受け入れることは。孤独という心を受け入れることとは。

引きこもれというのとは違う。孤独とは自身の世界の捉え方、精神の在り方であり、物理的に人と会わないこととは違うからだ。

孤独を受け入れても友人を作ることも、恋人を作ることもできるだろう。

しかし決定的に違うのはそれらの全てに何も依存せず、自分のペースや感覚を保ちながら関わることができる精神性を持っているという点にあるのである。

孤独という空っぽの感覚を積極的に肯定感をもって健やかに、当たり前のこととして受け入れることは、その後の人生を豊かにしてくれる基本的な感覚として役立つ。

私自身、以前はとてつもなく他人の好意をあれだけ求めていたのに、それが本当に嘘のように今は失くなってしまっている。

それを求める目的そのものがなくなり、どうでもいいことになってしまっている。

意識の外にあるというか、まるで車で乗っている時に横目で後ろへと流れていく景色を見ているような感覚で見ている。

好かれるという感覚そのものの価値が下落、いや、むしろ害悪であるという事に心から気づけたからこそ捨てることができたのである。

目や耳には入ってくるが心には響かないものになっていたのだ。

孤独の中に生きようとすればするほど、そういった、自分が縛られていたと思っていたいろんな”しがらみ”がただの自分自身の思い込みであったという事に気づく。

好かれることも嫌われることも、その本質は同じところにある。

他人に依存する心にそれを求める理由が詰まっている。

自分に好意を抱いてくれた人に完全に依存していたし、それにこたえることが大事で、相手が求めることなら自分を犠牲にしてでもみたそうとすることで自分を演出し、そうすることで相手に認められていくことが生きていくことだと思い込んでいた。

それを愛だとすらも。常に私は受け身思考であった。

意思決定は常に他人任せだったし、決して自分から動こうとはしなかったのだ。他人が全てお膳立てしてくれることにすべて頼りきっていたから。

だからその相手が自分に興味をなくしたり、嫌いになってしまう空気を感じただけでも激しく動揺し、めまいがしてしまうくらいだった。せっかく築いた自分の場所という地盤がぐらぐらと音を立てて揺らぎ、崩れそうになるのを感じていた。

それはまさに、死の恐怖に近い感覚だったとすら思う。

嫌われたら自分は死ぬしかない。そんな感覚で生きていた。

他者の都合の上に生きることが人生そのものであった。だからそれができなくることに、自分の人生が終わるほどの恐怖を感じていた。

しかしそれを完全に捨てることができると、そんな恐怖はかき消えてしまったのだ。

そして今度は自分が誰かを好きになったり、誰かを思ったり、何かに夢中になったり考えたりするという事について学ぶ準備ができた。

自分から何かを好きになる。その見返りなんぞ相手に求める発想すらなく、ただ自分の感覚、自らが発している何か、表現、体験を楽しんでいる。

何かを好きでいること。何かを楽しんでいること。素敵だと思う人、事を素直に感じる事。

こんな当たり前のことを、いままで自分はできていなかったということを思い知らされた。全てはそう演じることで、他者の期待を満たすこと、それらは全てその手段にすぎなかった。

全てがフリでしかなく、何かに本気になったことなど一度もなかったのだ。

しかし今は何かに本気になるという経験を毎日楽しんでいる。仕事も趣味もみなそうだ。

そんな体験の連続だ。日々いかにさぼってきたことを感じざるを得ない、そんな日々を今は送っている。

何もすることがない暇な状態の自分を無理やり他人の都合で満たそうとしていただけだったあの頃。

なんて無駄な生き方をしていたのか。

自己実現、自己表現という行為そのものが、自分の目的に向かって突き進むことがこれほどたぎる、心地の良い面白いものだったとはおもいもよらなかった。

自分の感覚を信じるというのは、こういうことだったのだと。自分の素直な欲求を信じ素直に感じようとすることが自分を信じることだったという事に気づいたのだ。

使う感覚が変われば全てが変わる。

世界すらも。感じた方が変われば世界の形も変わるのだ。

人間のいう世界とは全て主観的事実なのだ。だから観測器たる人間の”チャンネル”が変わればいとも簡単に世界は様変わりする

モノクロのチャンネルからカラーチャンネルに変えるかのように、使う感覚を変えるだけの問題だったのだ。そうして古いものをすて、新しいものを見つけつかっていけばよかったのだ。

そして、それが人間というものだと。最近はそう考える。

脱承認欲求メソッド:感覚と思考は全く別次元の一切結びつきがない機能であることを知る

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