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他人の目から解放された、澄み切った光景が広がる世界
他人の目や評価といった、後ろめたさ、重たさがなくて、とても身軽。それを気にしていたころのどんよりとした空気はどこにもなくて、まるで夏の朝の良く晴れた空の下、カラッとしたそよ風が吹く田んぼの小道を独りのんびりと歩いているかのような、そんなすがすがしい感覚すらあります。
そこには、他人が自分のことをおかしいやつだと思っているかもしれないだとか、見下しているのかもしれないだとか、
こんな自分はおかしいのではないかとか、こんなことをしたり言ったりしたらきっとみんなからバカにされるんじゃないか、変な奴だと思われるんじゃないかとか、
そういった他人を気にするという考え方が自体ない気楽な世界観です。何も気にせずとても健やかに気楽に生きることができるんですね。
他人と自分を比べる必要がない、マウントも必要ない世界
マウントという行為は、そのマウント相手が自分と同じ価値観や同じルールのもとに生きていると思い込んでいる前提があって行うものです。皆がすべて同じ価値観の中で生きていると思い込んでいるからこそ、そこには競争が成立しているのだと無意識に思い込んでいるわけです。
競走とは、同じルールが適用されていることがあって初めて成り立つものです。スポーツでも何でも、そこには何かしらのルールが存在し、みなそのルールに従っているからこそ、そこに価値があると思うのです。
野球もサッカーもみなルールに従ってプレイしますよね。同じ目標を目指して、同じ制限の中で競い合います。しかしもしそこで反則をすればブーイングの嵐。なぜならその時点で勝負にならなくなるからです。サッカーで手を使い始めたらゲームになりませんし、野球でバッターが投手の投げたボールをキャッチしてそのまま外野まで走り去り、スクリーンに直接投げ込んでホームラン、なんてことをし始めたら成立しなくなります。
だからルールに従うわけです。ゲームを成立させるため。勝負として成立させるために。でもそれは悪魔でその場かぎりのルール。サッカーではボールを手で触れていいのはキーパーとスローインくらいですが、バスケならだれもが手でボールを触れられます。
さて、これが人生となると、人生には基本的にルールがない。
国によって法律などの違いはありますが、それが生き方のルールを決めるわけでもない。いくらそれで人の行動を縛ることはできても、人の意志や精神はいかなるルールによっても縛ることができません。それは完全に本人次第のものでしかなく、人は外の何かに心を縛られることはないわけです。
実態はルールが人を縛るのではなく、人がルールを使って自らをそれぞれの都合、思い込みで縛っているだけです。
サッカーも野球も自らそのルールの上でプレイすることに、参加者が同意しているというだけのものです。つまり結局は個人の都合次第のものにすぎず、だから時々反則してしまうことが起きたりもするわけですね。
人生には正解がない
例えるなら人生とは、絵のようなものです。絵は何を描けば合格か、などというものはない。ただ描くものを使って自分が描こうと思ったように描くものです。それだけのことですね。個人の自由なのですよ。そこには誰かと共有しているルールも価値もない。自分だけのものしかありません。
それが他人と違っていることが当たり前、他人と自分が同じ価値観で生きていないことがごく当たり前のことだと思っているかどうかなのです。
つまり、自分と他人が違うだなんて少しも思ってない、皆同じ人生を生きていると思いこんでいるからこそ、そこには「人生の勝ち負けのルール」が生まれ、結果上とか下であるという概念が生まれ、人を見下したり拝んだりする価値観が生まれるというわけです。
その思い込みを必要とせずに生きるわけですから、もう他人や社会にせかされて生きることもありませんし、それらを見て焦ることもありません。すべてはただの違いという形に還元され、そこには上も下もない。猫と犬が単に違うのと変わりません。
自分と違う意見を持つ人も、マウントを取ってくる人も、皆それぞれのルールや価値観がただ違うだけです。違うだけで優劣ではない。それを受け入れて入れば自分を上か下かという目線で否定する必要も他人を否定する必要もなくなり、マウントも支配も不要になり、他人に自分の心や精神を依存せずに心地よく人と関われるようにもなります。
どんな人がいても、精神的にそれをを受け入れられるようにもなるわけです。どんなに自分が他人と違っていようと、それは間違いではない。下でも上でもない。誰一人として同じ個体も存在せず、どれだけ大きく違っていようと、ただ違うだけで優劣はない。正否もない。だからそのままのありのままでいいと、自分のことも他人のことも支配しようとせず自由にさせておけるわけです。
自分のやりたいことに集中できる
優劣も正否もないわけですから、他人の言い分はその人の言い分でしかないということになります。つまり自分とは関係がないものになるわけで、他人の目に惑わされることもないし、他人の言い分にも他人の気持ちや都合にも気を使ったり気にしたり、おびえる必要もありません。他人と同じにならなくていいし、他人に好かれても嫌わても、それもそれぞれの個人の都合にすぎず、どうでもよいからです。
ただ純粋に自分が決めた基準で、自分のペースで様々な事に当たることができるわけです。
自分の存在だけで充実感を感じることができる
他人に気に入られるかどうかも考える必要がなく、自分のやることを他人の都合なしに決めることができるから、自分が望むならそれこそなんにでも好きなように挑戦することができて、ただ純粋に自分だけでそれを楽しむことができます。
ようは何かをした結果で充実感が決まるのではなく、単に生きていて、今自分が何かをしているだけで十分に充実感を感じることができるんです。
だから何かを続けることが苦になったりすることもなく、結果に執着もありませんから、本当に気楽に目の前のことに取り組めるんです。
それが誰かにとってくだらないことだろうと、社会の何の役にも立たないことだろうと、それも全く意識にない。自分と他人は違うことが前提ですから、そんな意見が合っても別に驚かない。でもそこに上下はないことを知っているからですね。
だから自分を否定することも全くなく、自然に気持ちよく自分の気持ちだけにこたえ続けることができるんですね。
不思議と、先のことが心配にならない
不安がほとんどない
いろんな現代社会にはあるといわれている「将来の不安」。
何処の高校に行かなきゃ、どこの大学に行かなきゃ、どこの会社に入らなきゃ、そのためには勉強して、塾に通って、とにかくいい成績をとって将来の安定した人生のためにここで頑張らなきゃいけない、と。
そうしないと後悔するぞ、と自分を脅して何かをしているわけです、何かに執着して自分を追い込んで、自分を無理やり動かしているわけですよね。
それは自分と他人の人生は同じだという思い込みもそうですが、その後悔という言葉が指しているのは「それによって周りから仲間外れにされてしまうから」というような思いがその先にあるということもあります。
例えば指定の高校に行けなかったら親に見放されてしまうとか、ある大学にいけず、就職先も選べなくなるから結果周りからの承認を得られず見下されるだとか、いい企業に入って安定した生活をもとめてというのも、自分で何かをして生きていくという考え方をすてて、他人に食わしてもらうために自分を差し出して生きることを選んでいるというような意味に近いので、何れにしても他人の何かをあてにして生きることに執着することが人生、という感じになるからです。
しかし孤独を受け入れていればその発想は違ってきます。他人の都合ではなく、常に自分のしたいことが頭にあります。他人や外の基準も必要ありませんから、誰かよりも優れているだとか、すごい何かに憧れたりすることもなく、その基準に合わせた自分を演じようとする必要もない。自分のやることはすべて自分で決めることができるから他人の意見も他人の価値観も、社会が推奨する価値観も人間像も関係ない。
他人が用意してくれる選択肢が狭くなろう広くなろうが、自分のしたいという欲求自体には関係がないからですね。ただ今自分がしたいこと、しようと思ったことを考えてただ実行するだけ。勉強したいことがあれば自分の意志で勉強するし、学校の勉強も自分の意志でやるから、そんな心配事は頭になく気にもならないわけです。
今選べること、手を動かして携わろうとすることができそうな何かの中から自分が選んで実行する。それをずっと繰り返すだけの話しです。選ぶものが何であってもそれ自体は別に何でもいいのです。他人や外の基準がありませんからね。
なので勉強するにしても趣味に打ち込むにしても、そこには焦りや切迫した感情や先のことに対する不安もなにもなく、楽しんで素直に打ち込めるのです。我慢して仕方なくやることよりもずっと健やかで、誰かにとってでも社会に取ってでもなく自分にとって実りのあるものになっていきます。
我慢し続けることは何れどこかで限界が来ます。若いころはまだいいかもしれません。というのは我慢していれば「周りが自分を守ってくれる」と思えるからです。若ければ若いほど、まだ君は若いからとか、かわいいからと周りが守ってくれる傾向が強い。しかし年を取っていくとその機会はどんどん減っていきます。なぜなら年を取るほど、その「守りたくなる人」からは離れ、逆に「守る側」に行くことになってしまうからです。自分をみてくれる、まもってくれる、叱ってくれるといった人は年をとればとるほどいなくなります。上の立場の人がへって、自分がその立場になっていきます。そのような「幼い自分」として見る目線の人は確実に減るからです。
花の命は短し、若さによる他人軸の生き方の言い訳は、かなり早い段階で通じなくなります。
年齢で表現すればざっと20代までが限界でしょう。
若くなくなると無理できなくなるのは体力の問題もあるかもしれませんが、実際のところは心理的な要因が大きいのではないかと思うんですよね。他人に決めてもらえなくなる。他人に背中を押してもらえなくなる。そんな心因的な理由で体が動かない。動く気がしないという気持ちの問題もあるんじゃないかと思います。
しかし自分で自分のことを決めている人なら、守られる必要も、守る必要も、人に叱られなきゃいけないと思うことなんてこともありません。ただひたすらにずっと、自分のしたいことをするだけの人生なので常に不安に駆られて何かをする人生とは無縁のままでいられるわけです。
年齢なんて関係ない。他人や外の基準をあてにしないのであれば死ぬまでチャレンジすることはできます。60を超えてもスポーツをしようとすればなにかしらできるでしょう。それが誰かから見ればただ歩いているだけにみえることだったとしても、自分が何かのスポーツをやっていると思っていればそれで充分なのですから。
孤独を拒絶するから不幸になることがわかる
他人と自分を比較するのも、マウントを取るのも、他人にすがるのもみな同じ理由だったりします。それは孤独が恐ろしいと思っているから。なので他人に自分の孤独感を埋めてもらおうとして各々のやり方で関わろうとしてしまうんです。それが他人に気に入られることや評価されることだったり、社会的地位を得ることやお金持ちになって成功することといった、外でよいことだと定義されている何かになろうとすることだったり、他人を自分の思い通りにしようとして支配的な関係を築こうとしたり、人によっていろいろです。
孤独を拒絶すると、様々なやり方で他人を使って自分を不幸に、そしておそらく他人をも不幸にするようになるんですね。実際に孤独を受け入れて過去の自分を客観的にみるとよくわかります。
他人に期待してもつらいだけ
しかしそんな他人という存在について理想を抱くと大抵はそれに裏切られてしまいます。一時はかなったとしても、それはそう見えているだけのことで、それが永遠であることを約束したりはしません。どんなにお金持ちになっても、それを好きだと思わない人はいますし、どんなに成功してもそれでもすべての人に好かれるわけじゃないし、認められるわけでもない。一度認めた人すら、時がたてば価値観や興味が変わって、自分のことを見てくれなくなったりすることもあります。
他人はいつも変わり続けているから。決して自分が思い込んでいる形で止まっている存在ではないからです。気も変わりますし、時間がたてば性格や考え方も変わって、興味を持つものものやその在り方も変化します。それに対しての自分の期待や理想は大抵更新されていかないでしょう。むしろそれにこだわるあまり、ずっとそこに縛り付けられてしまいます。
よって期待すればするほどそこに執着し、考え方が凝り固まって身動きが取れず苦しくなり、ますますそんな自身の他人に対する期待に裏切られる機会が増えて不幸になっていくだけなんです。
人間関係もよくなっていく
他人に何も期待せず切り離していれば他人に自分の都合を求めて欲求を満たそうとすることもないですから、他人の動向でイライラしたりする必要もなく、ただ自分の能動的な意志だけで関わることができ、そこには何の期待も後ろめたさもなにもありません。その時の自分の能動的な意志のみで関わったり関わることをやめることを選択することができるようになります。
他人に期待しないと他人の動向を”待つ”必要がなくなるので、人間関係があっさりと、すっきりしたものになり、無駄がなくなってくるんです。
その時に好きなら好きだし、その時に嫌いなら嫌い。好かれたいとか嫌われたくないという発想はないので、それを待って自分の感情を決めようとする必要もない。執着する理由もないので捕らわれることもないし、嫌なことを言われたりされたりすれば嫌だと相手に言える。ことによっては関係を改めることも抵抗なくできるんですね
自分の気持ちで話をすることに抵抗しなくてよくなるんですね。
人間関係を整理できるようになる
結果、自分の身の回りには自分の好きな人間しか常にいなくなります。いえ、より正確には自分が関わろうとする人間がかかわろうとしたときにいるだけで十分になる、といった方がいいでしょうか。
自分が関わりたい人と関わとうとし、仲良くなれば仲良く過ごす。それに自分に嘘をつかずに自然な自分でできます。それ以外の人に対しても付き合っても表面上だけの付き合いをすること、関わること事態を避けるということを自分で選んでできるからです。
自分の目にわざわざ嫌いな人を入れたりしようとしないし、その嫌いな人に何の期待もしていないから、「いつかは変わってくれる、わかってくれる」なんて自分の都合を期待することもない。支配欲もないので、ずっと一緒にいてほしいだなんてことを思う必要もなく、自分と違う他人を自分の思い通りにしたい気持ちもなく、そのままにしておくことができます。ダラダラと関係を続けたり、苦手な人や嫌いな人と関係を続けなくてすむようになります。
もし誰かから嫌われれば嫌われたでそれを受け入れるか、関係を続けたいと思うのなら話し合いをして何らかの誤解があればそれを解いて関係を継続するように努めることもできます。できなければさっと分かれて関わらないことも簡単にできてしまいます。独りになったら独りになったで、趣味や仕事に打ち込むだけです。
すべては「自分で決めて自分でやる」のルーチンの中にある、それだけの話しです。他人と関わるというのもその中のルーチンで発生した行動の一つにすぎません。他人によってそれ自体が変わることはないのです。
結果、人間関係で悩むということ自体がなくなり、立ち止まることなく全部行動に移していけるようになるんですね。
常にイベント事だと思って楽しむことすらできてしまいます。
孤独を受け入れることが人間の安定した幸福
孤独は恐ろしいものでもなく畏怖するものでもありません。自分と他人は違うこと、自分という存在はこの世に一人しかいないこと。それを拒絶するから苦しい。だから受け入れてしまえばそれは自由で、なんの縛りもない世界のことなんです。
孤独を恐れて拒絶するから他人が恋しくなるんです。他人に自分の心の穴を埋めてもらいたいと思うわけです。
孤独はいわば自分自身そのものです。自分だけでいることが孤独なのですから、それはすなわち自分自身そのものなのです。それを拒絶するということは自分を否定することに同じです。苦しいに決まっているのです。
孤独を恐れなければ他人という存在は取るに足らない存在になります。いてもいなくてもあまり変わらなくなり、執着することはなくなっていきます。それをさみしいとかみじめだと思うのは、それだけ自分を否定し、他人に執着しているからというだけなんです。
他人を使って自分を不幸にするために孤独を恐れたり拒絶する必要なんかないわけです。他人と自分を比べて自分を不幸だと思い込む必要なんかない。
自分という存在は自分自身そのものだけで既に成り立っているのですから。
それを受け入れてみてください。そうすると苦しい気持ちがすっと抜けていくと思います。
人の言う幸福なんていうのは、「安心感」のことでしかありません。
お金があれば幸福、恋人や友人がいれば幸福、というのは皆それに執着することで安心感を得られると思い込んでいる人の意見にすぎません。
その執着を手放せば、そんな条件なしに幸福、つまり安心感を感じることができるわけです。
そのようにして孤独を受け入れていくと自分の世界は変わってきます。前向きに受け入れ、自分を他人や社会のしがらみから少しずつ開放していけば、きっと楽になって幸福な世界が見えてきます。
承認欲求のページを最初から遡って、今ラスト一ページまで来ました。
Elepanさんのおっしゃってる感覚、言葉の選び方、私は救われています。私の感覚をここまで代弁して、しかも乗り越えてる人がいるなんて。全ページ読みたいと思うほど、私にとってガッチリ繊細さとその承認欲求の強さが似ているように感じました。今も、本当に苦しんでいます。でも、こちらのブログをキッカケに、静かですがコツコツと変わる準備をしています。
本当にありがとうございます。
Y.mさんのお役にたてれば何よりです。ご自身のペースで無理なさらずにご自身の変わっていきたいと思うように変わっていけることが良いと思います。
突然ですが、私自身が変わるために必要だった根本的なところを一つここでシェアさせてください
それは「今生きている自分という感覚」こそが自分の生きているところである、ということに気づくことでした。それ以外の物は全て”オプション”だった、ということに気づいたことです。
https://note.mu/elepan/n/n48465796bc1e
思い込みって多分、例えば「○○しなきゃダメ」というように、そう思うだけじゃなく、ダメって言う部分に「それをしなきゃ自分は本当にダメになってしまうから絶対やらなきゃ」みたいな脅迫的な感覚を結び付けて管理したりするような、思考と感覚をセットにして自身の記憶に残すことだと思うので、
私の場合はいざその思い込みをやめようとすると「絶対やらなきゃいけないことをやめようとしているのに本当にそれでいいのか?」みたいな自分を脅迫するルール、感覚が邪魔して、怖くて中々一歩前に踏み出せなかったりしました。
でも結局のところ、日々の気づきや経験の中によって、その思い込みのメカニズムについて自分の中で感覚的に腑に落ちてくると、
最終的には、人が幸福とか不幸って読んでいるものの正体はただの「自分の感覚」で、それに名前をつけているだけ、っていうことが感覚的にわかってきて、
自分が何をしているか、何をしていないかなんて関係なくて、今自分がどう感じるか、どう感じようとしているかどうかだけなんだ
っていうことに気づいてからはスっと自分の中の重たいものがなくなって楽に生きられるようになりました。
自分の人生を誰かに楽しませてもらうのではなく、誰かにお膳立てして安全を確保してもらう必要もまったくなくて、
ただ自分が自分の意志で楽しもうとして楽しむ、自分で自分の人生を生きようとする、という考え方に変わっていったのです。
きっとそんな最終的な答えは人によって色んな形があるのではないかと思います。
そしてそれは誰だっていつか見つかると思うんです。
私にも見つけられたので、Y.mさんにもきっと見つかります。価値観や思考、文化などそういった「思考」の領域において、人それぞれの違いがあっても
「人間」というメカニズム、その点においては皆それほど違ってはいないんじゃないかと思います。
だから人間である誰かができたのなら、きっと他の人だってできる、と。
あ、もちろん押し付けている意図はないですよ。ちょっとした“エール”です。Y.mさんの勇気の足しになればと思いました。
Y.mさんの人生の幸福を祈っております。