孤独を受け入れて変わる「世界」




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2021年06月25日~:
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他人の目から解放された、澄み切った光景が広がる世界

他人の目や評価といった、後ろめたさ、重たさがなくて、とても身軽。それを気にしていたころのどんよりとした空気はどこにもなくて、まるで夏の朝の良く晴れた空の下、カラッとしたそよ風が吹く田んぼの小道を独りのんびりと歩いているかのような、そんなすがすがしい感覚すらある。

そこには、他人が自分のことをおかしいやつだと思っているかもしれないだとか、見下しているのかもしれないだとか、

こんな自分はおかしいのではないかとか、こんなことをしたり言ったりしたらきっとみんなからバカにされるんじゃないか、変な奴だと思われるんじゃないかとか、

そういった他人を気にするという考え方が自体ないので、何も気にせずとても健やかに気楽に生きることができる。

自分のやりたいことに集中できる

他人の目に惑わされることもないし、他人の言い分にも他人の気持ちや都合にも気を使ったり気にしたり、おびえる必要もない。他人に好かれても嫌わてもどうでもよく、それを気にするという意識にすらない。

ただ純粋に自分が決めた基準で、自分のペースで、自分の気持ちに素直になって様々な事に当たることができる。

自分の存在だけで充実感を感じることができる

他人に気に入られるかどうかも考える必要がなく、自分のやることを他人の都合なしに決めることができるから、自分が望むならそれこそなんにでも好きなように挑戦することができて、ただ純粋に自分だけでそれを楽しむことができる。

それが誰かにとってくだらないことだろうと、社会の何の役にも立たないことだろうと、それも全く意識にない。だから自分を否定することも全くなく、自然に気持ちよく自分の気持ちだけにこたえてできる。

それがとても気持ちがいい。それが一番気持ちがいいことを知っている。他人の評価を求めて何かをするよりも、自分の意識、自分の欲求だけで単に何かをすること自体が格段に気持ちよくいことを知っているから、そちらを選ぶ。

結果、何も気にせず、精力的に楽しく目の前のことに夢中になって取り組むことができる。

不思議と、先のことが心配にならない

不安がほとんどない

いろんな現代社会にはあるといわれている「将来の不安」。

何処の高校に行かなきゃ、どこの大学に行かなきゃ、どこの会社に入らなきゃ、そのためには勉強して、塾に通って、とにかくいい成績をとって将来の安定した人生のためにここで頑張らなきゃいけない、と。

それは、今ここで〇〇しないと後悔するぞ、といって、社会的な都合に自分が沿っていないと絶対後悔するという思いのもとに発生しているもの。

でも孤独を受け入れている人にとってはそんなことはどうでもいいこと。自分のやることは自分で決めるから関係ない。他人が用意してくれる選択肢が狭くなろうがどうだろうが、自分は今できることを自分で選んでただ実行するだけ。勉強したいことがあれば自分で勉強するし、学校の勉強も自分の意志でやるから気にもならない。

誰かにせかされて何かをしても苦しいだけで続かないう上に苦しい、自分で決めてやれば充実感を得られていくらでも続けられてしかも楽しいということを知っているから、特に焦りもなく、自分で決めた方向に向かい続けることができる。

孤独は恐れているから怖い。孤独を拒絶するから不幸になることを知っている

孤独が恐ろしいと思っているから、他人に自分の孤独感を埋めてもらおうとして関わろうとする。そのために他人に好かれようとしたり、嫌われないようにしようとする。そしてその他人が自分の思った通りに孤独感を埋めてくれなかったりすると不満を感じてしまったりする。

嫌なことを言ってきたり、暴力をふるわれても、相手と別れることが怖くてできなくなってしまったりする。

そうやって孤独を恐れる心を持っていると、自分を苦しめてしまうだけだということが分かっている。

孤独を恐れ、拒絶することが不幸の始まりだということを知っている。

他人という存在について、理想を抱くこと自体をあきらめている。その理想がかなわないことを知っていて、かなったとしても、それは永遠のものではないことも知っている。

他人はいつも変わり続けているから、自分の望んだ何かに言っときはなったとしても、それを保ち続けることはできない。

他人に期待すればするほど、現実の他人とずれていくことを知っている。期待すればするほど苦しくなり、不幸になることを知っているんだ。

孤独を受け入れていたほうが人間関係は良好になる

他人にイライラしたりする必要もなく、てきぱきと自分の意志で関わったり、関わることをやめることを選択することができるから人間関係に無駄がなくなる。

好きなら好きだし、嫌いなら嫌い。それも、今の気持ちに素直になって判断しているだけなので好きになってもその瞬間においてだけ。そこに執着はないからそれに捕らわれることもないし、嫌なことを言われたりされたりすれば嫌だと相手に言える。ことによっては関係を改めることも抵抗なくできる。

いつも自分の気持ちに素直になって人とかかわることができる。

結果、自分の身の回りには自分の好きな人間しか常にいなくなる。自分がそういう人とだけは仲良くかかわり、それ以外の人は表面上だけの付き合いか、関わること事態を避けるということを自分で選んでできるから。

自分の目にわざわざ嫌いな人を入れたりしようとしないし、その嫌いな人に何の期待もしていないから、「いつかは変わってくれる、わかってくれる」なんて嫌いな人に自分の都合を期待することもない。ダラダラと関係を続けることがない。

そして自分にも嘘をついて行動はしないから、もし誰かから嫌われれば嫌われたでそれを受け入れるか、関係を続けたいと思うのなら話し合いをして何らかの誤解があればそれを解いて関係を継続するように努めることもできる。できなければさっと分かれて関わらないことも特にストレスなくできる。

独りになったら一人になったで、趣味や仕事に打ち込むだけ。

結果、人間関係で悩むということ自体がなくなり、常にイベント毎だと思って楽しむことができる。

孤独を拒絶することが不幸。孤独を受け入れることが幸福

それを知っていること。それが孤独を受け入れた世界。

孤独は自由で、なんの縛りもない世界のことなんだ。

孤独を恐れて拒絶するから他人が恋しくなるだけ。自分を独りにしないためにかかわろうとするから、常に他人がいてくれないとダメだと思って、自分を苦しめ、他人の奴隷になってしまう。

孤独を恐れなければ他人という存在は取るに足らない存在になる。

常に一人であるわけでもなく、しかし孤独感を埋めるために他人とかかわるということもない。

自分がしたいことをするために他人とかかわる。愛されるためだとか、好かれためだとか、そんな自分の孤独感を埋めるためではなく。

趣味で遊ぶため、結婚して自分の家庭を作るため、仕事をして社会に貢献するため、

そんな、自分が実現したい何かのために他人とかかわる必要があればかかわる、といった形になる。

だから人とかかわっていたとしても、心の状態は常に自分独り完結していて、自由な状態なのは変わらない。

人と関わっていても自分の心が孤独なのは変わらないということだ。それも、とてもすがすがしい幸福感を感じながら、明るい自分のままでいながら。

人は自分が幸福だと、不思議と他人や社会、世の中に自分ができることを探して貢献したくなるもの。

それを知っている。そしてそれが幸福な人生であるということを知っているのが、孤独を受けいれた人間の世界なんだ。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

2 件のコメント

  • 承認欲求のページを最初から遡って、今ラスト一ページまで来ました。
    Elepanさんのおっしゃってる感覚、言葉の選び方、私は救われています。私の感覚をここまで代弁して、しかも乗り越えてる人がいるなんて。全ページ読みたいと思うほど、私にとってガッチリ繊細さとその承認欲求の強さが似ているように感じました。今も、本当に苦しんでいます。でも、こちらのブログをキッカケに、静かですがコツコツと変わる準備をしています。
    本当にありがとうございます。

    • Y.mさんのお役にたてれば何よりです。ご自身のペースで無理なさらずにご自身の変わっていきたいと思うように変わっていけることが良いと思います。

      突然ですが、私自身が変わるために必要だった根本的なところを一つここでシェアさせてください

      それは「今生きている自分という感覚」こそが自分の生きているところである、ということに気づくことでした。それ以外の物は全て”オプション”だった、ということに気づいたことです。

      https://note.mu/elepan/n/n48465796bc1e

      思い込みって多分、例えば「○○しなきゃダメ」というように、そう思うだけじゃなく、ダメって言う部分に「それをしなきゃ自分は本当にダメになってしまうから絶対やらなきゃ」みたいな脅迫的な感覚を結び付けて管理したりするような、思考と感覚をセットにして自身の記憶に残すことだと思うので、

      私の場合はいざその思い込みをやめようとすると「絶対やらなきゃいけないことをやめようとしているのに本当にそれでいいのか?」みたいな自分を脅迫するルール、感覚が邪魔して、怖くて中々一歩前に踏み出せなかったりしました。

      でも結局のところ、日々の気づきや経験の中によって、その思い込みのメカニズムについて自分の中で感覚的に腑に落ちてくると、

      最終的には、人が幸福とか不幸って読んでいるものの正体はただの「自分の感覚」で、それに名前をつけているだけ、っていうことが感覚的にわかってきて、

      自分が何をしているか、何をしていないかなんて関係なくて、今自分がどう感じるか、どう感じようとしているかどうかだけなんだ

      っていうことに気づいてからはスっと自分の中の重たいものがなくなって楽に生きられるようになりました。

      自分の人生を誰かに楽しませてもらうのではなく、誰かにお膳立てして安全を確保してもらう必要もまったくなくて、

      ただ自分が自分の意志で楽しもうとして楽しむ、自分で自分の人生を生きようとする、という考え方に変わっていったのです。

      きっとそんな最終的な答えは人によって色んな形があるのではないかと思います。

      そしてそれは誰だっていつか見つかると思うんです。

      私にも見つけられたので、Y.mさんにもきっと見つかります。価値観や思考、文化などそういった「思考」の領域において、人それぞれの違いがあっても

      「人間」というメカニズム、その点においては皆それほど違ってはいないんじゃないかと思います。

      だから人間である誰かができたのなら、きっと他の人だってできる、と。

      あ、もちろん押し付けている意図はないですよ。ちょっとした“エール”です。Y.mさんの勇気の足しになればと思いました。

      Y.mさんの人生の幸福を祈っております。

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