部屋で独りにいるときにふと感じる空虚感といいますか、どこか何か欠落しているというか、致命的に何かが不足しているというか、まるで胸の中心に穴でも開いているかのような感覚って感じたことはないでしょうか。
私はありました。なんならしょっちゅうでしたね。独り暮らしで独り動画を眺めていたりゲームをやっていたりする時、ふと「孤独だ…」と気づいてつらくなることが何度もありました。夜中にふと目が覚めて眠れずにいると、無機質な冷蔵庫の音だけがジーンと聞こえてきて、虚無感が胸のあたりから体全体に染み渡るように広がっていくかのような感覚がしてきて。すごく寂しくて苦しくていてもたってもいられなくなるような感覚でしたね。そのたびに寂しさを間際らそうとSNSをのぞいたりエゴサーチして気が付いたらただSNS眺めてただけ動画見てただけで朝開けてた、一日終わってた、なんて日もよくありました。
そうしていると一時的には回復するんですけど”発作”がまたやってくるんですよね。1時間後、いや30分後、下手すりゃ5分後くらいなんてことも。すぐにまた苦しくなる。むなしくなってくる。またSNSのぞいて…その繰り返し。その時の自身の精神的なコンディションによって頻度が変わっていたような気がしますね。当時は人生いろいろ詰んでました。
さて今の私なんですけれども、そんな感覚はもう感じなくなりました。というのはその感覚の正体について徹底的に突き詰めた結果心の穴というものが自身の単なる歪んだ思い込みであることに気づき、その思い込みを捨てて別の認知に変えることができたからなんです。
目次
孤独な自分の時に感じる「空虚さ」の正体
結論から言うとこの感覚は「自己否定による不安感、恐怖感」でした。
自分が一人であることを理由にして自分をだめだ、みじめだと思い込もうとする自身の認知が初めに必ずあるんですよね。先にその感覚があるわけではなくて、そう自分が無意識にイメージしてからくる。恋人や家族、友だちのいる顔も知らない誰かさんを時にぼんやりと時に瞬間的にイメージして、それに対して「自分は何の価値もない人間だ」って感じでした。
なぜ「自分は一人=自己否定」につながっていた?
そんな自分の思考の癖、「なぜ他人とわざわざ比較してまで一人であることにネガティブに考えようとしているのか?」についてなぜなんだろうと考えました。だってそんなことしても単に苦しいだけ、つらいだけのことじゃないですか。
ゴキブリなんて絶対触りたくないって思っていたら絶対触ろうとはしないのと同じで、何の得にもならないことは人間はやらないんですよ。
つまり何か目的があってやってることなんです。その正体について自分の無意識をひたすら分析していくと、やがて見えてきたのは幼少期の頃より身に着けてきた自身の思い込みでした。
幼少期の頃の歪んだ思い込みから作られたもの
親やクラスメイトから一方的に価値観や考え方を無理やり押し付けられ続けてきてできた思い込みでした。
当時、「他人に自分を合わせたり寄せたりするのは当たり前」の考え方が私にとっては普通でした。親からは常にコントロールされて育ち、従わなければ家を追い出す、飯を抜くなど、命の危険を脅かすようなことを言われながら育ち、周りからはとろいとかぼけっとしてるからと暴力を振るわれたり「気持ち悪い」「お前見てるとイライラするわ」と悪口や陰口をいわれたりして、周りから嘲笑われてました。口下手で受け身、何も言い返すこともできない私はそれにただただ屈服することしかできず、ひたすら自分を殺しつづけてきましたね。
でも当時の私にとってはそれが普通でした。
だから私はは自分はおかしくて劣等で欠陥品なんだと思い込み、常に誰かの言う何かに寄せなければいけないんだ、と思い込んで必死で他人になろうとしてました。
他人のようになれたら自分も普通になれるんだって思ってたんですよね。
そうやって常に他人ありきで考えて生きなければいけないと思い込んできた経験から一人であることを悪と思い込むようになりました。一人ということは誰のようにもなることができていないわけで、つまり100%間違った自分になってしまいますからね。だから私は常に他人と自分を照らし合わせて、他人の価値観に合わせて、他人と同期することで安心し続けるという人間になっていきました。感情まで同期しようとするレベルでしたね。他人が笑ってるから笑うみたいな。やばかったなぁホント。
そしてそれが他人に必要とされること、誰かにとって価値ある何かになることが良いことなんだという思い込みにつながっていきました。そうすれば他人はずっと自分を見てくれるし、私もずっと他人と一緒にいて同期することができるから。それに今度は自分が正しい側に回ることもできるんじゃないか、みたいな風にも思うようになっていたと思います。
ただそうやって積み上げてきた思い込みたちはある致命的な欠陥があった。他人に対する強烈な依存心ですね。
何をするにも他人を必要としているわけですからね。他人の存在、自分を見てくれる他人がいることが、自信の人生を生きる権利であり証明。他人次第で簡単に崩れてしまう泥の城を作り上げていたわけです。
そしてそんなハリボテの城を作ることになぜそこまで躍起になったかといえば、それは他人から攻撃されることが怖かったからなんですよ。
全ては身を守るためだったんです。いじめを受け続けてきた人生の中で私は常に他人に対して「自分をいじめるかどうか」という視点でしか他人を見ておらず、その判断の中でしか付き合っていませんでした。
抑止力が欲しかった。他人から攻撃されないために、守ってもらうために。それに対する執着心だったんです。
その執着心が孤独になること、すなわち自分自身でいることをめちゃくちゃ怖がる自分に仕立て上げていたのでした。
他人から攻撃されないために、見放されて死なないために孤独を全力で否定してきたこと。そのような他人にも自分自身にもおびえる人生観にあった。
「誰にも認知されていない無価値な人間なんだ、このままでは死んでしまうんだ」という状態の時に感じていた感覚が「心の穴」。要約すれば自己否定だったわけでした。
心の穴を埋める=他者に依存する
そんな心の穴を埋めようとするということはその時の私にとっては他人の気にいられる誰かになること、他人と同じ自分になること、他人に愛され、認められることといった、他人の傀儡になることでした。
しかしいくらそうすることでその穴を埋めようともなかなか埋められないんですよね。いくら他人の好きな誰かをふるまったつもりでも特に何も感じてもらえなかったり、無視されたり、愛想つかされたり、何なら馬鹿にされたり、裏切られたり。埋まるどころかさらに広がったり、やっとのことで認められて埋めたと思っても一日ともたずすぐに開いてしまい、SNSだったり何度も何度もあらゆる形で他人を使って埋めないといけませんでした。他人がいつも自分を認め愛してくれているかどうか不安で不安でしょうがなかったからですね。
結果心の穴を埋めようとすれば埋めようとするほど「もっと、もっと」と求めてその依存度は強度を増していき、しまいには褒められるためだけに生きている承認欲求のお化け状態へと自分を追いやるほどになってました。それでひどいうつ病を患うことになるくらいにはズブズブになってましたね。
心の穴には成り立ちがある
そんな自身の「心の穴」の正体に気づいた私は、その心の穴が一体どのようにして作られて行ったのかということについて自己分析を始めました。心の穴という感覚を感じるのが自身の認知の歪み、思い込みによるものなら、その心の穴という感覚を感じようとするにいたった何かも、また思い込みの産物であると思ったからです。
実際それは的中していて、それが前述の自信の過去の人生の積み重ねの記憶達だったわけです。それが唯一の人生の在り方、正解ではなかったということに気づいていきました。
この世に普通なんてなかったことに気づきました。人は自身の主観で世界を見ているだけであり、客観的な世界など知らないのだと。これまで自分が見てきた、感じてきた他人に合わせる世界というのはこの世のあり様そのものなのではなくルールでもなく、自身の思い込みというフィルターごしに作り上げてきた主観の世界にすぎず、虚構にすぎなかったわけです。
その虚構達が自分の中で虚構であったと気づいていくこと、受け入れていくこと。それが心の穴のメカニズムに迫る行為であり、その問題を根幹から解消するための一歩一歩になっていきました。
孤独を受け入れることで心の穴は自分自身に変わった
これまでずっと否定してきた孤独、他人とは違い他人に何も見られていない自分自身に向き合い、孤独に対する様々な自身の過去の思い込みたちと対峙しながら、それらを捨てていきました。他人は神様でも何でもなく自分と同じ無知な人間であったということ、親もただの人間であり、親も自身の主観だけしか知らない。正解なんか知らず、正解を知っていると思い込んで私に押し付けていただけだったということ。
いじめられたのは自分が弱かったからではなくいじめを行う人間がまず弱い人間だったからだということ、社会で言われている常識や普通という概念は存在するようでしなかったということ、人生はどうにでもなるし、そもそも何も自分の人生を保証するようなことはできないということ、人生で成功しようが失敗しようがそれですべての問題が解決するわけでもすべて手詰まりになるということもなく、何をしようが人生は続くところまでただ続き、最終的に死ぬという個とは変わらないのだということ…直接的には関係なさそうな思い込みたちでも、根幹では「他人に対する恐怖の思い込み」で皆つながっていたものばかりでした
多くの思い込みに対峙しながらそれを解釈しなおし、孤独を肯定し、実生活においても孤独を受け入れる取り組みをしていったことで最終的に心の穴という感覚はなくなっていきました。
孤独を恐れ承認欲求を渇望する感覚でしかなかった、そんな私の心の穴。それが今はただ自分自身だけで自分は成り立っているごく自然的な日常の感覚になり、自分自身という自信に変わったんです。
心の中は埋めなくていい。向き合って受け入れていいもの
以上、そんな自身の経験から言えることでしかありませんが、「心の穴」とは単なる自身の認知やものの見方の一つなんじゃないかと私は思います。埋めようと他人の都合に必死に合わせる必要も他人の言い分や社会の言い分を無理やり聞いて埋めようとしなくてもいい。埋めようとしなくても、向き合って受け入れてしまっていい。孤独は悪ではないし、自分自身は全然悪なんかじゃ当然ありません。
全ては自分の好きに決められます。その心の穴をどうとらえるかも、どうするかも。そんな中で私は受け入れることをお勧めします。受け入れてしまえばもうこの問題で悩む必要もないですし。
他人を引き合いに出した何かで悩むことを捨てると自分のやることしか目の前に残らないんですよね。結果、自分の好きなことも簡単に「作れますし」いいことの方が多いです。
好きなことって見つけるんじゃなくて作るものなんですよね。こういうことに気づけたのも本当に大きなプラスでした。
ちょっと脱線しちゃいましたけど、毎日とても快適ですよ!おすすめです。
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