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孤独が怖いものだと思い込んでいる。その思い込みを捨てよう
孤独に対して感じる寂しいって感情は、孤独な自分を否定しているから生まれる自己否定の感情。
孤独な自分を拒絶するから寂しいのであって、拒絶せずに受け入れてしまえば、怖くもなんともなくなる。
「孤独は良くない」と世の中では言われがちだけど、それは一方的な決めつけで、孤独にはいい面もたくさんある。そのいい面をみようとせず、悪い面ばかりをみようとしているだけなんだ。
むしろ孤独は、生物という存在からしてみればとても自然的なものですらある。
なぜなら自分という存在はこの世で1人だけしかいないわけで、自分を理解できる自分と同じ人間はこの世にいない。
人間は独りで生まれてくるし、独りで死んでいく。誰かと心がつながって生まれてきたわけでもなく、生まれてからつながるわけでもないし、心がつながって死んでいくこともない。
他人ことを理解できずに人は生きて死んでいく。他人が考えていること、他人の価値観、他人が好きな何か、そんな他人の頭の中にあるものを一切しらないまま。
言葉でそれを交わすことはできるかもしれない。でも言葉はただの言葉だ言葉を介して思考を交換しているわけじゃない。言葉を使って自分がそう解釈しているだけで、他人の解釈を知ることができるわけじゃない。
人はひたすらに、ずっと自分独りなんだ。他人と話をしていても。他人と一緒にいても。
誰にも理解されず、誰にも自分の頭の中にあるものを知らずに。そして自分も他人のそれらを全く知ることはない。誰一人のことも知ることもなく、自分のことだけしか知らないまま、人は生きて死んでいく。
そんなこと、人間である以前に生き物なら、みな大して違いはないんだよ。
だから孤独を恐れることなんて、現実を恐れているのとほどんど変わらない。
ごく自然的なことを恐ろしいものだと思い込んでいるだけなんだ。
なぜ寂しいと思うように”なった”のか?
そもそもの話、なぜ寂しいと感じるようになったのだろうか。
人は何をしても、どこまでいっても独りは独り。自分と同じ人間はいないし、誰のことも理解することもない。一生自分という意識以外を知らない。他人という心を全く知らないままだ。
それでも自分はなぜ、孤独を寂しいと思っているのだろう?
一人は寂しい。友達がいないのは寂しい。恋人がいないのは寂しい。家族がいないのは寂しい。
そう感じるようになったのはいつからだろうか?
そう、「いつからなのか」。
最初から、生まれたころから孤独はさみしいと思っていたわけではないはず。
「孤独は寂しいものである」というのは自分が生まれたときからもっている先天的なものなんかではなく、人間の本能なんかでもない。
後天的に身に着けた知識、「思い込み」なんだ。
人間は社会的動物だといわれている。しかしそれは、社会性を持つことができる「能力」、「可用性」をもっている生物であるということであって、社会性を得られなければ生きられない生物である、ということではない。
ではいつどこでそう思い込んだんだろう。
それは過去の自分の人生のどこかだと思う。
例えば両親がテレビかなんかで孤独に生活する老人のニュースをみて「あの年で一人はかわいそうだねぇ」と言っているのを聞いて「そうなんだ」と思ったとか、片親でそんな自分の境遇を嘆いている姿を何度も見てそうだと思い込んだとか。
友達との関係で仲間外れにあったとか、学校で「ぼっち」であると周りからバカにされたことがトラウマになって、「孤独はいけないことなんだ」と思い込むに至ったなど、
他人が言っていたこと、ニュースがいっていたこと、本やWEBサイトで見聞きしたことなど
そんな様々な「外の影響」をいつか、どこかで受けた結果、自分がそう思い込んだという瞬間があった。
そしてその時から孤独はさみしいものなんだ、よくないことなんだと、今もそう思い込み続けているというだけ。
思い込みをすてて、勇気を出して孤独を受け入れてみよう
そしてその思い込みを捨てれば、孤独を寂しいと思うことももうない。
少しずつ受け入れていく。思い込みとは、今まで自分が積み重ねてきた思考の集合体だから、ゆっくり一つずつ孤独を恐れている自分の思い込みに気づいて少しずつ捨てていく。
思い込みは真実でも正解でもない。だから捨てることができる。
他人がいなきゃ自分はだめ。孤独な自分はダメ。そんな思い込みを捨ててしまっていい。
何も悪いことなんかじゃない。誰かに愛されないことがみじめだなんて思わなくていい。
それも全部誰かの借り物だ。誰かがそう言ってた、周りがそう言ってた、社会がそう言ってた。そんな外で言われていることを聞いて、見て、そう思い込んだだけだ。
そんな風に他人の存在を求めて自分を縛り、苦しめるている思い込みと癖を捨てていいんだ。
「もう他人がいなきゃ自分はだめだなんて考えて自分を苦しめる必要なんかないんだ」と気づいていていっていい。
そうやって、自分を”他人の存在という縛り”から自由にしていく。
そうすれば、もうそんな自分にコンプレックスを感じて、寂しいだなんて自己否定しなくてもよくなる。
毎日を何も気負うことなく、気にすることもなく、否定することもなく気持ちよく生きていくことができるようになる。
ただ目の前のことに夢中になれる。健全な努力を行うこともできるようにもなっていく。
人の幸せなんて言うのは、結局のところ今自分が手に届く範囲で行動し、手を動かすことで十分なんだ。
それがわかってしまえば、悩みもなくなる。寂しさなど感じている暇もなくなるんだよ。
返信ありがとうございます。
自分を責めて悲しんで死にたいと思えば、誰か助けてれるだろう、こんなにかわいそうなら許して貰えるだろうと言う感覚がまさに受け身の感覚で、これを【覚悟】を持って、思考パターンを捨てるのは相当な勇気がいると実感しています。
普段の仕事でのストレスに負け、また、恐怖に負け、楽な選択をしていたと思います。苦しいけど、落ち着くという一種の自傷行為だなと感じます。
elephanさんが、自身の徹底した気づきからの納得感と過去の生き方を捨てる覚悟には本当に尊敬します。
先週に家族に4人目の子どもが生まれました。本当にもう既にある幸せを気づき、感じたい。それを感じれずに生きてる自分に悲しくなりました。今の現状こそ、自分の気づきを得れるチャンスだと思い、取り組みます。
本当にありがとうございました。
ありがとうございます。一度受け入れられるとそれが日常になってくるので、何も苦しくも重たくもなくなりますよ^-^
ただ個人的なことを一つだけ付け加えさせていただくと、多分そのおっしゃる「楽な選択」というのは、実際には相当に「ハードな選択」であったのではないかと思います。
というのも、他人に好かれることや他人に自分の都合のいい答えを選んでもらうということについて、自分自身はそこに何一つ手を出すことができないものですから、自分にとって嫌なことでもそれに従い続けないといけなくなってしまうので、見かけとは裏腹に相当に難しく、何より苦しいことなのだと私自身の経験からも思うのです。
自分を変えるというのは確かに「怖い」のでそれが難しい、苦しくつらいものであると思ってしまうのですが、変わろうとしている姿は「楽に健やかに生きられるようになること」なので、自分を情けなく思ったり自分を責めて変わろうとするのではなく、「もうこんな風に考えなくてもいいんだと」自分を他人の都合から解放する形で変わっていくといいんじゃないかと思います。
お子さんのご誕生素敵ですね! ご健闘を祈っています^-^
私の鬱は甘えだったから、入ってブログを読ませて貰いました。
まさに私のことかなと思うくらい承認欲求について説明されていて衝撃的でした。と同時に改めて私も現在進行形と承認欲求お化けだと自覚しました。
私を好きになってくれる人が好きで、自分が人の好き嫌いを判断して人と付き合うという感覚が理解できてない、体験したことがないです。
ちょうど10年くらい鬱々と自分の存在を否定して生きてきて、ここ2年程で職場環境が変わり、自分の生きる価値は他人の評価でしか得れてないと身に染みて感じています。他人に評価されたときのなんとも言えない安心感、それ以外に生きる意味がないと感じていると思います。仕事に追われ、評価がないともう死にたいと思うようになったり、自分はなんて仕事出来ない役立たずだと感じています。ただ、他人から認めてもらえてると判断したら、普通の精神状態になったりします。
ここ何年も瞑想やマインドフルに生きようと気づきをメモ書きしたり色々試していますが中々他人軸から抜けれません。
エレファントさんは気づきのメモ書きはどのような思考で取り組まれていましたか?また、他に取り組まれていたことはありますか?
長々と自分語り申し訳ありませんが、良かったらご教示下さい!
基本的には、ある精神的苦痛を感じたときに、「なぜ自分は今こんなに苦しいのだろう」「なぜこんな風に考えるのだろう」と自己分析をすることでしたね。その繰り返しだったと思います。私の場合は通算5年ほどかかりました。
ただ個人的にはここから重要で、それらのことに気づいて、ようやく「受け身の生き方」を捨てようと自分の中で踏ん切りがついたことが大きいです。
ここでいう受け身の生き方というのは、何かを誰かから受けて感じようとする自分の普段の癖のようなものといいましょうか。親鳥の帰りを待つひな鳥のような感覚というか。他人から与えてもらうことを期待して、焦がれているような感覚ですね。そう感じようとする自分の日常的な癖です。
そのような在り方、感じ方、癖を全部やめて、ただ目の前のことに夢中になるだけの人生を生きよう、と「覚悟」を決めて実行し続けることが大事でした。
覚悟が必要だった理由は、単に自分の認知の歪みに気づいただけでは、そんな自分の癖を変えようという気持ちが動かなかったからです。
頭でもわかっていても気持ちが動かない、という感じです。頭では承認欲求を求めても苦しいだけだと思っているのに、気持ちの方はいまだに他人の承認が欲しくてたまらない。
そうしてしまう理由は単純で、恐怖からでした。なぜなら、今までずっと外に何等かの脅威があると思い込んでいて、それから誰かに守ってもらおう、大丈夫だと保証してもらおうとして他人の言うことを聞いて受け身で生きようとしていたわけで、
その他人の保証を今後一切捨ててしまうわけですから、それを捨てるにはそれ相応の捨てることに対する自らの納得感(いかに承認欲求が無価値で無保証ないい加減なものであるということの自らの気づきを元手として)と、過去の生き方を捨てる覚悟の二つが必要でした。
そうして新しい生き方を実行してみると、今までの受け身の生き方でずっと欲しがっていた「永遠の安心感」というものがごく普通に得られて、「なんだ、これでいいんだ」と心から納得できたことを覚えています。随分今まで面倒なことをして生きてきたな思ったものです。
それからはずっと目の前のことに夢中になり続ける「何かを追い続ける生き方」が自分のデフォルトになりました。
またこの先に「自分で何かを好きになる」というものもありました。他人が自分を好きかどうかとか、それが社会的に評価されるかどうかなんてことは、余計なノイズでしかなかったんだ、とその時強く感じました。何かを好きになるのは本当に自分で自由に好きなように決めることができるものだということを身をもって知りました。
感覚としてはスイッチを切り替えたような感じでした。というのも、本当に覚悟ができて変わることができると、その瞬間にすべての苦痛から解放されたものですから。
今までずっと変わろうとしながらも何度もトライアンドエラーしながらもがき続けていたのは、何度もそのスイッチを切り替えるのにずっと躊躇し続けていただけだったんだなと感じています。
日々の気づきや認知の歪みの修正はその二つのためにやっていたことだったと今は思います。