「生きていたくない」「死にたい」は甘えなんかじゃありません




自分の気持ちに正直なのは甘えなんかじゃないですよ

生きていたくない、死にたいっていう気持ちって、世間的にはよくないってことにされてる感じがありますよね。ネガティブというか、負の感情というか、そんな風に考えるな!もっと前向きに考えろ!っていうか、そんな言葉が返ってきそうな気がします。

そんな風に考えてしまう自分に罪の意識を感じてしまって、余計につらい思いをしてしまったり。

でもそれって悪いことなんでしょうか。自分が苦しい、嫌だ、生きていたくない、死にたいって思う事って。

私は悪いことだとは全然思わないんですよね。だってそれって自分の素直な気持ちじゃないですか。それを無理やり否定しても、余計苦しくなるだけですもん。それで余計に鬱になって余計に死にたくなって、本当に死んでしまったらそれこそって話じゃないですか。

それを甘えだって言って他人から「そう思うな」みたいなこと言われる筋合いはないし、それは自分の自由なんですから、自分が感じたり思ったりすることは何も悪いことではないし甘えでもないと思うんですよ。

実際に死ねる人は少ない

それに死にたい死にたいって思っていても、大半の人は実際に死ぬってことを選択はできないんじゃないかと思います。

だって死ぬのって普通に怖いじゃないですか。

私も住んでいたマンション7階の部屋からふと飛び降りたくなる時が何度もあって、ベランダまで行くことは何度もありました。でも下を見るたびにその高さに足がすくんでしまってとてもじゃないけどできなかったんですよね。

かといって首を吊るのだって苦しいだろうなと思ってできませんでしたし、大量の睡眠薬をのんだりっていうのも「いや待てよもし死ねなかったら?」「失敗して後遺症とか残るんじゃ…」って思ってしまって怖くて全然自殺なんかできなかったんですよ。

もちろん、人によってはそんな恐怖すら超えてしてしまって、てこともあるんだろうなとは思います。ある日ふとそういう気持ちになってその勢いで、という感じだという話も聞きますしね。

でもそういう人はいるってだけで多いってわけでもない。自分がそうでないなら自分には関係のない話です。

死にたくても怖くて死ねない。生きていたくなんかないけどつらくてしょうがないけど死ねない。そんな自分であるということは。

それでもつらいのは確かですし、死にたいという”気持ちは確か”。死んで楽になりたいという気持ちは確か。理想の現実の板挟みとでも言いましょうかそんな矛盾と葛藤と閉塞感でとんでもなく苦しい日々を過ごしている方は多いんじゃないかと思います。

どうにかしたくてたまらないはずなのにどうにかできない。生きていたくないのに、生きていくことから逃げたくてたまらないのに逃げられない…そんな風に私は日々を過ごしていた時期があったんですが、ふとその時思ったんですよね。

死にたいって解放されたいってことなのかな?と

死にたい = 苦痛から解放されたい

生きていたくない、死にたくないっていうのは多分、より正確にその気持ちを表現すると苦痛からの解放なんじゃないかと思うのですよね。死はその手段でしかなくて、楽になれること、解放されることを感じられて、もうその苦痛を味わうことのない状態になれればいいんだ、という感じを欲しているんじゃないかと思います。

では何から解放されたいのかといえば、学校に行きたくたくない、会社に行きたくないとか、そんな「したくないと思ってるけどしなきゃいけない何か」からなんじゃないかと思います。

でもそれから逃げたら”終わり”だ、と感じているからそれが苦しくてたまらないんじゃないかと。学校をやめたら将来路頭に迷うとか、親が許してくれないとか、会社を辞めたら明日からどうやって生きていけばいいのかとか、落ちこぼれになって周りから笑われたり見下されたり、友人からも距離を取られたり白い目で見られるかもしれない、恋人もできなくなって結婚もできなくなったらどうしよう、そうなったら生きている価値がないとか。先のことを想うとここで逃げたら一生不幸になるんじゃないかと思って、それで不安になって逃げるにも逃げられないんですよね。

でもやっぱり嫌なものは嫌だし、苦しいものは苦しいってことは変わらない。自分の素直な気持ちとここで逃げたら終わりなんだという恐怖、周りの目を意識した義務の意識のはざまの中、その強烈な自己矛盾の摩擦が極限まで高まって生きていたくない、死にたいという思いに駆られる。

という感じに思考が無限ループしてしまっているんだと思うんですよね。

「いやいやでも逃げればいいじゃん」「それで死んだら元も子もない、だったらやめればいいじゃん」っていうアドバイスもあると思うんですがそれは、理屈だけで考えればその通りではあるんだと思います。例えば学校をやめたって通信制の学校にかよって大学いけばいいとか、会社辞めたら失業手当もらって職業訓練にかよえばいいとか。でもそういった救済措置や他の手段がたくさんあるのはわかっていても、それでもできないんですよ。

だって怖いから。めちゃくちゃ怖くてたまらないから。

やめたら嫌われるかもしれないし、馬鹿にされるかもしれない。助けを求めても拒絶されるかもしれない。自分にそんな資格もないかもしれない。もっと努力できればいいのになんで自分は何にもできない、なんてくずなんだ、ダメなんだ」と。

こんな状態でこの先やっていけるんだろうか…」

とにかく先のことが最悪のことしか考えられなくて、めちゃくちゃ不安でたまらないから動けない

私は自身の認知のゆがみからくる神経痛、パニック障害、うつ病で死にかけていたのでたとえ時的な措置で人生をつなげることができたとしても、根本的に自分自身が無能で、このままでは生きていける気がせず次に続かないのでそれにひどく絶望してたんですよね。

そんな状態でどんなアドバイスをもらってもただひたすらに虚無で、どんなに簡単そうなことでもできなさそうに感じ、そんな自分に激しい嫌悪感と自己否定感を感じていました。

そんなどうしようもない無気力感をもっていると、どんなアドバイスも押し付けにしか感じられないんじゃないかと思うんですよね。

理屈と気持ちや感情は別なんですよね。いくら理屈ではどうともいえても、怖いものは怖いというか。高いところなんて別に怖くないといわれても怖いもんは怖いですもん。もしその恐怖を克服するって話なら、それは長い訓練と時間をかけて行うもので、人にちょっと言われたくらいで買われるものではありません。

結局自分の気持ちを理屈でどうにかするっていうのは無理なんですよね。特に恐怖という感情は。気持ち的にできないことをやれといわれてもできないもんはできない。ただ自分が追い詰められて余計つらくなるだけなんですからね。

まずは自分の気持ちに素直になるところからはじめてみる

なのでいきなり何かをできるようになるとか、現状を打開するために具体的な行動するっていうのはとてもハードルが高いので、まずは最も身近なものである自分の気持ちに向き合って少しずつ自分を解放していくことから始めていくのがいいのかなと個人的には思っています。

これなら一人でできますし、誰にも会わなくていいですしだれからとやかく言われることも強制されることもない。自分のペース、自分のやり方で、自分の人生の範囲でできる上、思うだけならタダってやつでお金もかからないのでハードルも低いと思います。

病は気からというのは本当で、実際私はそうでした。これをほぼほぼ引きこもりのような状態から脱出するまでにやっていったことで、今は健康に生きてます。会社にも問題なく通ってますし、電車や会社でパニック発作がでたりうつ病の症状が出ることもなくなりました。

「やらなきゃいけない」をやめる

具体的に何をしたのかというと、一言でいうなら「やらなきゃいけない」をやめました。

やらなきゃいけない”こと”、というよりは「やらなきゃいけない」と考えたり、感じたり、そう何かをとらえたり見ようとしたりすることをやめるということで、一種の認知行動療法というやつですね。

いやいや、「やらなきゃいけない」って考えなきゃだめでしょ?じゃないと勉強も仕事もできないじゃないか、って思う方もいるかもしれないですが、意外とそうでもないんです。むしろやらなきゃいけないって”重く”とらえるから余計に動けなくなってできなかったり集中できなくて余計に悪化したりつらくなっていたりします。

だからその重く何かをとらえるっていうことをやめていくことで、気軽に物事に取り組めるようになったり、重く受け止めたりすることもやめていけば気軽に接したり動けるようになっていきます。

こうして、まずは自分の見ている世界、自分が見ようとしている世界を少しずつ変えていくことから始めていくと、少しずつ元気も出てきますし、楽にもなっていきます。

人の認知と実際の世界って全然別なんですよ。

でも仕事は責任があるし、やっぱりちゃんとやらなきゃちゃんとできないからダメじゃん、と思う方もいると思います。

でも今の私から思うことは、「全然そんなことなかった」なんですよ。

というのは、人が世界をどうとらえても、世界は別に何も変わらないからなんですよね。

例えば私は手から火が出せる!と思って手のひらを掲げても火はでてこないですよね。

自分のイメージしたものが現実化するってことは基本的にはないんです。

上記は極端な例ではありますが、より現実的な「やらなきゃいけない」と思って取り組むことも同じことなんですよ。例えば仕事をやらなきゃいけないと思って取り組んでも、やらなくていいと思って取り組んでも、それ自体は現実に何も影響を及ぼしません。手を実際に動かして完成まで続けるって行動自体がすべてであって、頭の中で考えてること自体は関係がない。

うまくやろうとしてもうまくできないように、逆にへたくそにやろうとしてもへたくそにもなかなかできないように、人間の認知、ある想定した結果に対する期待と、現実で実際に起こる結果というのはいつもずれてるんですよね。例えば絵をうまくかこうとしても自分が現状かけないならかけないですし、歩くことをへたくそにやろうとしても、例えば赤ちゃんのようにおぼつかない足取りの歩き方をするのは難しいと思います。

となると、自分が変えられるのはどう結果を出すのかということではなく、「どうとらえて、どうやろうとするのか」という態度やあり方の問題だけということになってくるので、どう取り組んでも結果をコントロールできないのなら、最も自分が楽で気持ちよくできるあり方で臨むのが最適解である、という風に考えることができるんです。

つまり自分に何かを無理やり強制するという認知、あり方、やり方が自分に合わないのなら、思いきり力を抜き、他人からの義務もなにもかも捨てて無責任にただボケーッとやる、というやり方でもいいわけです。

こういうと、「そんなことしたら怒られるだろ」と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、これは全部自分の頭の中で起きてることであって現実の世界には少しも出てくるものではないので、誰にもばれたりしません。あからさまに顔や態度に足していれば相手もおこってくることもあるかもしれませんが、そもそも他人は他人のことそんなに見てないし、気にしてもいないんですよね。よほどあからさまな態度でなければ勘づくこともそもそもありません。

これは逆に、いくら自分が真面目に何かに取り組んでる、頑張ってると思ってやっていても、他人にはそれがわからないのと同じですね。自分の意気込みやつもりがなんであろうと、自分の頭の中から外の世界の存在たちには何も関係がないのです。

だったら私は楽で自分にとって最も気持ちがいいやり方で何かをやってみたり生きてみたりすることをおすすめしたいです。

学校に行かなくたっていい、勉強なんてしなくていい、友達なんてできなくていい、仕事なんてやめていい、まじめに仕事なんてしなくていい…

こうやって自分の認知を変えていくことで物事に対する執着を捨てていくと、悲観的、脅迫的な感情がなくなっていって行動も変わってきます。

これ突き詰めると人と群れる理由がなくなっていくんですよ。というのは、あらゆる「やらなきゃいけない」っていうのを捨てていくと、他人に対するあらゆる義務感を捨てていくってことになるんで、それに従って人と自分が積極的な目的を持つときいがいで群れる理由もなくなっていくからです。人目を気にしたり、嫌われたくないと思って仲いいふりをしたり、とりあえずどこかのグループに所属しておこうみたいな恐れからくるものがなくなっていくからですね。

そうやって一人でも平気になってくるとわかってくるんですが、一人でも結構人生は幸せだったりするんですよね。他人に対する執着がなくなっていくと他人との関係性自体に執着がなくなって友達がいなきゃいけない、と思わなくなります。いたらいたで遊ぶし楽しいこともあるけどいなかったらいなかったで別のことをやるだけですし、もし嫌われてもやることはいくらでも作れますから、他人に依存しなくなって相手の目もきにならなくなります。

仕事ももし怒られても「まぁこの人と別に仲良くなりたいわけでないしな」と考えるとどうでもよくなりますし、それで仕事をクビになったとしても「まぁ仕事なんて腐るほどあるしなぁ」と気楽に構えられるようになっていきます。

他人に執着してた時は「この人に嫌われたら終わりだ」みたいな感じで、嫌われたらどこにも行く当てがない、誰も自分を愛してくれない、どうしようもなくなって終わりだと思ってたんですけど、別にその人は神様でもなんでもないですし、一人でも大丈夫だと自立してしまえば他人がだれでもなんでもどうでもよくなってきます。

また私の場合は「私は他人に自分の唯一の親の代わりでも求めてたんだな」という風に気づくようにもなっていきました。

私の親はいわゆる毒親だったんですけど、突き詰めるとこの息苦しさの根本は親子関係からきている認知のゆがみに過ぎなかったんですよね。最終的には親との関係性を物理的にも精神的にも切るという形で私は決着をつけて自分を解放できました。

そんな感じで認知行動療法を実践していく中でいろんな自分の認知のゆがみが解消されていくと、生きていくことが楽になり、死にたい、生きていたくない、という気持ちがなくなっていったんですよ。

自分を解放できていくんじゃないかと思います。自分一人でもできますし、誰かに馬鹿にされたりすることもありませんから、自分のペースで取り組んでいくこともできますので、もしお困りの方、気軽に少しづつ改善していってみてはいかがでしょうか?



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

1件のコメント

初コメ失礼します。高校生です。先日あなたのブログと出会い、まだ数件ではありますが拝見させていただきました。すると、あなたのご自分に対する考え方捉え方というのが、一語一句私と同じなんです。アドラーの心理学の本、今日買いに行こうと思っています。これまでずっとなんで自分はこうなんだろう?とか、自分なんて生まれてこないない方が良かったんじゃないか?などと思って生きてきましたが、結局自分で何かするしかないですよね。私の高校は勉強面ですごくハードで、テストも多いため先生方に絶望されたくなくてこなしてきましたが、これからは自分のやり方で好きな勉強をしていこうと思います。あなたのブログに出会えて良かったです。

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