「生きていたくない」「死にたい」は甘えじゃない!




Twitterで気づきのつぶやきやってます→

2021年06月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
上記年月よりも古い記事は順次修正予定記事になります。

正体は「逃げたい。」そしてそれは決して甘えじゃないよ!

というのは、生きていたくないというのは、今生きていることが何らかの原因で「苦痛」で仕方がなく、その苦痛から「逃れたい」という自分だけの純粋な欲求から来ているものだから。

自分に正直な気持ちだから。だから逃げればいい。逃げちゃえばいい。自分の人生なんだから、自分で決めていいのだから。

でもきっと多分、それができないんじゃないだろうか。だから苦しいのではないだろうか。

「逃げていい。誰かに賛成してもらわなくても、嫌われても、批判されても、自分でそう決めていい。」

そう頭ではわかってる。でも気持ちが動かない。

気持ちはまるでそこに縛り付けられているかのようで、自分にそう動くことを拒絶させようとしてしまう。

「やっぱりだめだ、逃げられない…」そう思いなおしてしまって、また苦しみ続けてしまう。

それは仕事に対する責任感だったり、家族や友人、恋人といった人間関係の問題だったり。

自分を縛り付けてくるような何かに対する「気にしてしまう」気持ちがそうさせてしまう。まるで磁石にひっぱられてるかのように…

でもそれは本当に逃げることができないようなことなんかじゃない。逃げちゃいけないことなんかでもない。

「逃げてはいけないと、自分がそう思い込んで自分をせき止めてしまっていることが自分を苦しめて、逃げることを選択できずにさせている原因なんだ。

「逃げちゃ”いけない”」なんて思わなくていい

逃げようとすることに、どこか罪悪感や不安感を感じているのではいないだろうか?

「だってここで自分が辞めたら、ほかの人に迷惑がかかるから」

「嫌われるから。」

「社会的地位を失う。給料がなくなる。家族に合わせる顔がないから。」

それで怖くて一歩踏み出せないんじゃないか。それを想像するだけで胸が痛み、足がすくんでしまう。

結果、現状のまま我慢してしまっているのではないだろうか?

他人の都合で自分を縛ってしまっている

自分の素直な気持ちである、「逃げたい」という欲求とは裏腹に、外から与えられた「逃げることは恥である」とか、「逃げたら誰かに迷惑をかける」とか、「嫌われる」といった、他人や社会の都合を自分の都合としてしまっているがゆえに、逃げるという行動が実行できないのではないだろうか?

他人や社会の都合という自分では永遠に解決することができない問題を前になにもできず、結果そのまま耐えることを選んでしまっているのではないだろうか?

だとすればそれが「認知の歪み」なんだ。自分の都合を他人の都合に合わせなきゃいけないと考えて他人ファーストで生きてしまっているその生き方

自分の「したい」に蓋をして、他人の都合で自分を殺しながら生きているその生き方なんだ。

その「逃げてはいけない」という他人軸の思い込みを捨てていい。

そんな生き方をしなくてもいい。そんな生き方じゃなくたって、もっと簡単に、今よりもずっと楽に幸せを感じられる生き方なんて、ほかにもいくらでもあるんだから。

生き方は一つじゃないし、正解も間違いもない

生き方は一つじゃない。正しい生き方も間違っている生き方もなくて、すべてはただ選べる生き方の中から選んでいるというだけのことでしかない。

正解の生き方でないと自分は不幸になる、というのは思い込み。だって誰も「正解の人生なんて知らないから。

この世に正しい生き方、間違っている生き方をしている人なんていないのだ。

生き方自体はなんでもいいんだ。ただの選択でしかないんだから。何かをしていること自体に別に意味だってない。例えば結婚していたってしていなくたって、離婚したってどうだって、それ自体には何の意味ないこと。人生で経済的に成功しようとしまいと、それ自体に意味があるわけじゃない。

全ては自分がどういう自分の在り方をしていて、自分の欲求に対してどうあろうとしているのかというだけ。

「したい」と思って生きるか「されたい」と思って生きるか。

大雑把に言えばこの二つしかない。そしてそれを同時に選ぼうとしてもできない。

自分が何かをしたいと思っていても、誰かにされたいと”待ち”続けていたら、それは永遠にできない。

されたいことしかないのだったらそれはしょうがない。

でも今自分が「逃げたい」と思っているのだったら。

「そうしたい」と思っているのであれば。

だったらもうその「逃げてはいけない」という思い込みはいらないんだ

我慢し続けたら、ずっと我慢し続けるだけ

それでも「いつかはきっと報われる」と、他人から「されるため」に義務を果たし我慢し続けたとしても、その先にあるのはひたすら我慢だけだ。

なぜなら今まで自分が構築してきた生き方や人間関係の形を継続するだけだから。我慢してきた自分を通じてなりたっている、自分を犠牲にすることの上に成り立つ人間関係を構築、維持し続けることを続けるだけのことでしかないから

確かにその時々では、その我慢が「報われた」と思える時があるかもしれない。褒められたり、認められたりして、それで「やっと報われた、これで何も心配ない」と安心できたときに

でもそれは一瞬のことで、その次の瞬間からはまた別の我慢が続く。

褒められたり認められても、それで永遠に安心できる、大丈夫だと思える何かは手に入らない。結局その褒めた何かもその人の感想に過ぎないもので、自分の何かを絶対的に保障するような効力はない。自分のことを誰かが優秀だと評価したとしても、それでどこでも自分が優秀である、ということを保証しない。

結局は褒めてくれた人も、自分と同じ不完全な人間でしかないから。

だからその労役は実際には全く報われることはなく、ただ労役だけが永遠に続いてしまう。

そうして生きている大半の時間が我慢で占められてしまうというわけ。

それがこの先もずっと続くのだ。そうしつける限り。むしろ、今後は今よりももっと我慢し、苦痛を感じ続ける時間の方が伸びてしまうかもしれない。

年を取るほど、承認欲求は満たされづらくなる。

なぜなら、人は年を取ればとるほど、「報われた」と思えることが減るから。誰かに認められた、褒められるというのは、たいていの場合自分よりも目上の人が行うものだから。

人は年を取ればとるほど、自分よりも上の人、自分をほめてくれる他人が減っていくもの。自分をかわいがってくれる人というのは年とともに少なくなる。

承認欲求は年を取ればとるほど、満たしにくくなっていくものだ。

そして同時に、義務や責任といったものはどんどん増え続け、かつ重いものになり続けていく。

平社員から昇進していけば責任範囲は当然増え、重くなる。家族ができればその家族に対する責任も生まれていく。

そういうものを自分に嘘をついて我慢して背負い続けるのは、相当につらいものになる。

我慢で到底背負えるものではない。いつかどこかで背負いきれなくなる。

だから結果として、我慢、苦痛を感じることの方がより多く、かつより強烈なものになっていってしいまう。それを続けていたら、どこかで壊れてしまったり、耐えきったとしても晩年には何も残らない空虚感と、満たされない苦痛だけが残る人になってしまうかもしれない。

でもそんな苦しい苦役は簡単に放り出せる。自分次第で、自分の素直な気持ちを受け入れ、新しい人間関係の構築の仕方、「自分がしたい」という気持ちをベースとした生き方に変えてしまえば、過去の人生も人間関係もすべてどうでもいいものになってしまう。

新しい人間関係の構築の仕方でまた新しくかかわっていくことができる。そこには「苦役」なんてものはない。全く同じ仕事をしていても家族を作っても、それが苦役になることはなく、すべて自分のしたいことを通じてかかわった「やりたいこと」になるからだ。

あらゆる状況において「逃げていい」と自分を許可しよう

「逃げたい」

もし自分がそう思うのなら、それは間違いなく、それは「自分がしたいこと」だ。

それは決して「甘え」なんかではない。

甘えとは何から逃げることを指しているのではなく、他人の都合で生きて義務を果たし、他人から与えられることを期待して生きることなんだから。

自分のことを自分で決めているなら、それは甘えではない。

甘えとは自分のことを他人に決めてもらおうとする幼さであり、大人に自分のことを変わりにやってもらおうとする子供のような精神性を指す。

他人の都合で生きることが甘え。他人の都合のために我慢して代わりに与えられようと生きることが甘えなんだ。

だからどんな状況においても、自分が「逃げたい」と思ったのなら、それは甘えではない。だからそのまま素直に逃げてしまえばいい。

逃げるにかぎらず、自分がそうしたいと思うのなら、そうしたらいいだけの話なのだ。

周りがそれでいろいろいってくるかもしれないが、そんな他人の都合など関係ない。

他人はあなたをその他人の都合に合わせたがっているだけだ。他人の目的、価値観といった、その他人がすっきりする何かのために、あなたを使おうとしているだけに過ぎない。

全部その他人自身のためなのであって、決して自分のためなんかではない。別に自分の人生の責任を取ろうとしてくれてるだとか、保証しようとしてくれてるなんてことは断じてない。

人間は皆自分のことしか考えてない。自分も他人も、それはいつだって変わらないことだ。

自分の人生のことは自分にしか決めることができない。何が楽しいのか、何が好きなのか、何がしたいのか。そして何が嫌で、何が嫌いなのか。

それを他人は決めてくれないし、決められもしない。それと同じことなんだ。

だからそんな自分の「したい」「したくない」という欲求こそが自分の唯一なのであって、それ以外のものなどないし、必要でもない。

他人から逃げていい。

他人から好かれなければならないという義務から逃げていい。

他人に気に入られなきゃいけないという義務から逃げていい。

他人や社会の役に立たないといけないという義務から逃げていい。

他人や社会から認めれらなければいけないという義務から逃げていい。

「他人の都合から逃げてはいけない」という他人軸の思考からくる思い込み。他人に気を使わなければならない、無視をしてはいけないという、「他人という存在から、他人の気持ちから逃げてはいけない」という思い込み。

それを捨てること。それから逃げていいということだ。

他人の都合のあらゆるものから逃げていいのだと。いやな他人から、嫌いな他人から。言い分から。自分が好きだと思っていないどうでもいい他人から、他人の都合から逃げていいのだ。

自分の「したい」を経験しよう

自分の欲求に素直になって行動するということ。それが「逃げる」であっても全く構わない。

それが“今”自分の「したいこと」には変わりないのだから。

他人の都合に合わせて我慢し続けてきた人生を生きてきた人が自分の人生を生きるために必要なのは、自分の「したい」という欲求、感覚で生きるということを経験することだ。

何せきっと、今までずっと他人の都合や社会の都合、常識や普通といった概念に自分を合わせて、自分の欲求を押し殺して生きるということしかやることができない辛い人生だっただろうから、

自分の人生を生きるという経験値がとても少ない状態なんだ。

だからまずは、今自分がもっている「自分のしたいこと」、

つまり、「逃げたい」というその欲求を思い切って実行して、経験するのである。

そのままとにかく「自分のしたい」という気持ち、感覚だけを使って生きてみる。

そうすればわかってくる。自分で生きるということがどういうことなのか。

そして何より、それで案外全然大丈夫じゃないか、ということにも気付ける。

自分で何かをしたい、という気持ちほど、自分を気持ちよく、動きたくてたまらなくなる原動力はない。誰かに聞かれるまでもなく、生きるために、やりたいことのために行動することも気持ちよくできるようになる。

生きていたくないなんて、そんな苦しいことを思う必要もなくなるはずだ。



もし参考になったらシェアお願いします!

自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)