「生きていたくない」「死にたい」は甘えなんかじゃありません





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自分の気持ちに正直なのは甘えなんかじゃないですよ

生きていたくないと思うのは多分、今生きていることが何らかの原因で「苦痛」で仕方がないではないでしょうか。

学校に行きたくたくない、会社に行きたくない。そんな「したくないけどしなきゃいけない何か」がある。でもそれからは逃げられない、逃げたら終わり、だからやらなきゃいけないと自分を強いている心があって、

でもやっぱりその苦痛からは解放されたくて逃げたくて。その強烈な自己矛盾と自分の「素直な気持ち」から飛躍して、生きていたくない、死にたいと思っているのではないでしょうか?

だったらそれは甘えでもなんでもないんです。それ自体は、自分に正直な気持ちというだけなんですよ。

といっても死にたい、生きていたくないが正直な気持ちというわけではなくて、逃れたい、解放されたいという欲求が本当に欲しい正直な気持ちなんじゃないかと思うのですね。

死ぬこと自体って気持ちいいことだと証明されているわけでもないでしょうし、というかわかりませんよね。死ぬということがどんな感じなのかなんて。だれしも死んだことはないわけですし。死んだことがある人は既にこの世に生きてはいませんから。だから下手したら実はかなり痛かったり苦しかったりするかもしれないですよね。そんな可能性がありそうな死をわざわざ望んでいるわけではないと思うのです。

欲しいのは「死そのもの」ではない。ただただ「楽になりたい」、「安心したい」。ただただその一心ではないでしょうか。

じゃぁ逃げよう!でも…

だったら本当に自分が求めている「楽になること」「安心すること」を求めてそんな苦しいところや何かから、何もかも投げ出して逃げてしまったらいい。自分を解放して楽にしましょう!

…と思っても、やっぱり怖いですよね。気持ち的に。あるいは経済的に理由とかで。それでより飛躍した極端な手段の、「死にたい」といった欲求に結びついているのではないか、とも思うわけですね。自分ではどうしようもなく手詰まりで、それをどうにかできそうにない、とてもそれから自分を解放することができそうにないと。

だったらもう、死んだ方が楽なんじゃないか?って。

それは本当に逃げられないものなのかな?

ところで、その逃れたいものってなんでしょう。それからは本当に逃れることが出来ないものなのかどうか。一度冷静になって考えてみます。

例えば末期の病気からの激痛などの苦痛だとかいったものだと難しいのかもしれませんが、例えば他人の目を恐れてのことだったり、社会の評価だったり、嫌な上司やクラスメイト、自身の親などそんな他人たちにこう見られたくない、あるいは、こんな人間にはなりたくない、みたいなところからくる社会的な要因の恐怖ということもある、とも思います。

その人たちから、社会から「甘えてる」とか「怠けてる」とか言われて自分を否定されるのが怖い、「負け組」だとレッテルを張られるのがこわい。あるいは自分が思うそんな人間になるのが怖い、ということだったりはしないでしょうか。それによって自分を否定されてしまうことで「生きている理由」を失うのが怖い。自分の存在価値を失うのが怖い。

何かから逃げて、結果また戻ってきたときに「君は逃げたんだね。そんな甘ったれはいらない」というようなことを言われてしまうことが恐ろしい。逃げたらもう戻れない、立ち直れない。次はないと先のことを考えると怖くてたまらないからというような精神的苦痛だったりはしないでしょうか。

甘えってなんだろう?

では甘えとはなんでしょうか。甘えとは何から逃げることを指しているのではなく、他人から与えられることを期待して生きる、他人が自分の思い通りになって当然だと思い込んで生きる、他人に自分が何をすべきかを決めてもらおうとして生きる、他人軸の生き方、「他人からこう見られたくない」という気持ちのことです。

自分で決めずに他人に決めてもらおうとすること、他人を人生の動機にしてしまっていることが甘えなのであって、自分で自分の気持ちに素直になっていることは甘えなんかじゃありません。

自分の気持ちに自分が素直に思っていること、「楽になりたい」「安心したい」という自分の「したい」という欲求は、甘えなんかではないのです。


純粋な自分の意思を甘えだなんて言うのはおかしい話です。

「楽になりたい、安心したい」

そんなただの自分が純粋に感じている自然の欲求を甘えだといって否定するということは、自分の意志に嘘をついて他人や社会の都合のために我慢をして苦痛の中不幸に生きろといっているようなものです。

他人に「不幸に生きろ」なんて言う人の言うことを真に受けなくていいのですよ。そんな人のいうことが社会をよくできると思いますか?それに手を貸してしまえば、意図せず自分も社会にそのような「誰かに言われてやりたくないことをやることを是とする風潮」を作り出す要因の一人になるだけです。

不幸になるために生きているわけじゃないはずです。むしろ幸せになるために生きている。楽になりたい、安心したい、そう思っていらっしゃるのならそれが答えですよ。

じゃぁ自分でそう決めていいじゃないですか。自分がそう思っているんですから。他人がいう「不幸の生き方」なんかよりも「自分が求める幸せ、楽な生き方」を選んで生きていいじゃないですか。

逃げるにかぎらず、自分がそうしたいと思うことなのならそうしたらいいだけの話なんですね。法律を破ること以外であれば。周りはそれでいろいろいってくるかもしれませんが、そんな他人の都合なんて関係ない。関係させなくていいんです。

そもそも、自分を不幸にする人に嫌われても別にいいじゃないですか。その他人が自分の人生を保証したり守ってくれたりはしませんし、なにも自分のことを決めつける力もありません。別に彼らは神様でもなんでもない、ただの自分と同じ先のことも何もわからないただの人間なのですから、その他人に保証されようがけなされようが、それで自分は何も変わりはしません。

「あなたのためを思って言ってる」なんてのは嘘なんですよ。全部その他人の都合で言っていることですから。その他人がすっきりする何かのために、あなたを使おうとしているだけに過ぎないのですから。

人間は皆自分のことしか考えてないのですよ。誰かのために生きている人なんてどこにもいない。親だろうが友人だろうが会社の上司だろうがなんだろうが、みな同じです。自分が欲しいもの、すっきりすること、安心すること、気持がいいと思うものものを求めているだけです。

自分も他人も、そこは皆同じなんです。それが自然なんですね。

「逃げちゃ”いけない”」なんて思わなくていい

逃げようとすることに、どこか罪悪感や不安感を感じてはいませんか?

「だってここで自分が辞めたら、ほかの人に迷惑がかかるから」

「嫌われるから。」

「社会的地位を失ってしまう。給料がなくなる。家族に合わせる顔がなくなってしまうよ。」

それで怖くて一歩踏み出せないんじゃないでしょうか。それを想像するだけで胸が痛み、足がすくんでしまって。

他人の都合で自分を縛ってしまってはいませんか?

でもそれは、みんな他人の都合だと思うのですよね。誰かの目、世間体という意識っていうのは全部他人で構成されているものです。それを守るために自分のしたい何かではなく、他人の都合で「やらなきゃいけないこと」として仕方なく我慢してやっていることなんじゃないでしょうか。

誰かに嫌われたくない、好かれていたい、尊敬されていたい。

そんな他人の都合をどうにかするために自分を犠牲にし、制限してしまってはいませんか?

そしてなぜそんなことをわざわざしているのか。それは多分、孤独にならないためなんじゃないかと思います。他人に自分を認めてもらって、愛してもらって自分を孤独にさせないため、他人に自分の人生を幸福してもらうために、保証してもらうため、つまり受け身的な他者との関係が自分の人生の意味、致死的要素であると思っているからなんじゃないかと思うのですよね。

つまり他人の目という条件を使って自分の人生に制限を加えてしまっているわけです。それも他人の目=自分の存在価値 という自分の生死を他人が握っているのだというような思い込みです。それほどの重い条件で自分を縛っているのではないかと思うのですね。

お金の問題は自分の生活に直接影響があることなので違うかもしれないですけど、本当に直ちに影響が出ることなのでしょうか?全く蓄えがなくて、でも精神的につらくてきついというのなら、精神科にいって診断書をもらい、休職手当をもらって療養することもできると思います。

そもそも休みたい、逃げたいというその自分の気持ちに嘘をついても、むしろ却って迷惑をかけたりして、却って余計に悪化するだけだと思うのですよね。つまり、気にすることで達成しようとしている他人に嫌われないことが、気にするが故に自分を精神的苦痛に晒して不安定になり、むしろかえって満たしづらくなるだけなんじゃないかということです。つらい気持ちで、自分に我慢を強いて頑張れば頑張るほど、自分に無理をすることになりますから精神的に消耗しミスや欠勤なども増えますしね。勉強にも集中できなくなりますし、他人の目にびくびくしている人と話をしていても、ただ不信感と緊張感が伝わってきてあまり気持ちよくはないんです。

そもそも、外の都合、他人の都合って、どんなに自分がそれをどうにかしたいと思っていても、できることじゃないんです。

自分がどんなに頑張って、我慢して、何かをどれだけ気にかけて行動してそれで他人の気持ちをどうにかしたい、自分の思い通りにしたいと思っていてもできないんですよ。

他人はそんなこちらの「思い」なんて関係ありませんから。だってそもそも知らないですもの。その「思い」は自分の頭の中にしかありません。人は他人の頭の中をのぞくことが出来る仕組みを持ってません。

だから他人はそんなこと何も知らず他人の都合でこちらにかかわってきますし、他人の都合でこちらを評価したり、他人の都合でこちらを好きになったり嫌いになったりするだけです。他人はこちらの思惑なんか気にせずに、その他人の都合でこちらを使うだけです。

皆それぞれの自分の好みや価値観があり、それぞれ独立したものです。癒着も融合もできず、それぞれが勝手にふるまいます。それに偶然自分のしたい何かや要求する何かと合うこともあれば合わないことがある。

つまり、ただの偶然なのです。人間関係というのは狙って思い通りにできるようなものなんかではなく、ただの偶然の結果の連続にすぎません。

他人の好みや価値観を自分の都合でどうにかする、つまりコントロールなんてできないんです。

「逃げることは恥である」とか、「逃げたら誰かに迷惑をかけるから」とか、「嫌われるから」なんて気にしていてもどうにもなりませんし、それを気にかけ実行したところで必ず他人に好かれ続けたり評価され続けるわけでもありません。そういう態度を嫌う人もいますし、よそよそしい人は信用しない、いわゆる「キョロ充」は嫌いという人もいます。それを自分がどうにかしようとしてもできないのです。

ただ確実なのは、自分の素直な気持ちや欲求にただただ永遠に蓋をしてしまうことだけになってしまうだけになってしまうことだけです。

つまり、他人を気にして我慢したところで、ただずっと耐えることが続いてしまうだけなのですよ。救われないまま、ずっと苦役を続けることになってしまうんです。

だから他人や社会のいう様々な都合に自分の意志に反してまで合わせることをやめていいんですよ。ただの苦役でしかなく何のメリットもないわけですから。

他人の都合を自分に関係させなくていいんです。他人を常に考えて自分の行動を考えても自分が疲れるだけ、むしろその期待に反して余計に悪くなっていくだけでしかないんです。

他人ファーストなんてしなくていいのですよ。自分ファーストでいいんです。それが自然なんですからね。

だから自分が逃げたいと思うのなら逃げていいんです。誰かの許可なんていらない。誰かの都合なんていらないのです。

自分のことは自分だけで決めていいのですよ。他人のことなんて無視して。自分を苦しめる人間と付き合う必要はないんです。付き合う人は選べるんですよ。別に法律で決まっているわけじゃないですから。

自分にとって不快な人や何かからは距離を取って付き合わなくていいのです。逃げていいんですよ

自分の人生なんだから、自分で決めていいのです。親の言うことや上司の言うことや教師の言うことや友達の言うことやインフルエンサーの言うことが世界の真実ではないのですから。世界はただ「在る」だけ。世界は正解も嘘もなくただ「在る」だけです。学校や会社や家族やクラスメイトが世界の全てなんかでもありません。生きられる場所なんてどこでもありますし、食べていく場所、仕事できる場所なんてどこでもあります。

逃げることは悪でもなんでもありません。ただの選択の一つです。背負わなきゃいけないようなこと、絶対やらなきゃいけないものなんてこの世にはない。そんなものは、この世に「在るもの」なんかじゃない、人間が勝手にそう思い込んで作り出したただの虚構です

仕事でも家族でも、もし自分が今それを望むなら、それを自分の肩から降ろしてもいいんです。それをいけないことだと思うのは、ただの思い込みにすぎません。思い込みは捨てられるものなんです。

この世に善悪はありません。何をやっても結局はただの選択、行動です。100歩譲っても法律くらいのものです。でもその法律も、人を真に裁くことはできません。絶対こうでなければならないことだとか、生きてちゃいけない、死ぬべき人間なんて言うのはどこにも存在していなくて、そう思い込む人たちがいるだけの話しでしかないんです。

もっと自分の気持ちに素直になっていいんです。自分の気持ちにやさしく、正直に感じてみて、そんな自分を許してあげてください。他人の都合にそわない、自分の都合全開の自分を自分が許してあげましょう。

生き方は一つじゃないし、正解も間違いもない

自分の今の生き方以外にも、選べる生き方ってたくさんあります。例えば今の仕事や学業をやめて、ほかの生き方を模索してもいいわけです。職場を変えるなり、勤務形態をかえるなり、行く学校を変えるなり、休学するなり、アルバイトするなり、なんでも道はあります。

そのなかに正しいも間違いもなくて、ただその中からその時に自分がそうしたい、そうありたいと思う何かを選ぶだけなんですよ。正解の生き方でないと自分は不幸になるわけじゃない。レールの上の人生じゃないと幸せになれないなんてことはありません。

社会的地位なんて結局ただの”ラベル”にすぎませんし、自分自身でもなんでもない。会社や組織を辞め離れればだれしもただの人です。社員証や学生証と変わりません。実際は何のラベルももたないただの人。それが本来の自分なのであって、例えばどこかに所属していたり何かしているから自分は優れた存在である、普通である、なんていうのは単なる思い込みにすぎません。立場やステータスにすがって自分をまともであるとかすごい人間だと思い込むのは、ただの自己愛ですし、自分でもありませんし、他人が作ったただの神輿。その神輿に自分がたまたま乗っているだけで、乗っている人自体は別にあなたでなくても誰でもいいのです。

その思い込みを捨てて純粋なただの人間である自分でいいことを自分で許してしまえば、もうそんなものはどうでもよくなるのです。

幸せっていうのは安心感や幸福感といった自分の感覚の問題でしかありませんから。他人の都合でも社会の都合でもない、ただの自分の気持ちや感覚の問題でしかありません。幸せに正解も間違いもない。自分の感覚の問題にはそんなものとは関係がありません。

そもそも誰も「正解の人生」なんて知らないのですよ。そんなものを誰かがおし知っていたら誰も自分の人生で悩んでないはずですよね。既にそれを知っている人からみんな正しい人生が何かを知ることが出来ていて、間違いのない人生を生きられているはずです。でも実際は悩んでいる人や不満を抱えて生きている人なんてたくさんいるわけで。

人それぞれの価値観が根本からそれぞれ違う以上、その中に正解や間違いという何かの形すら何もわからないわけですから、そんなもの知りようがないのですよ。お金はたくさんあるけれど不自由な人生か、お金はなくて貧乏だけど自由な人生。そのどちらが正解かなんて争ってもどちらが正解かを真に決めることはできません。個人の価値観や人生の形でその捉え方はいくらでも変わりますから、検証のしようがないからです。

それに誰もこれから先に何が起こるかなんてわかりません。正解を知っているというのなら、次の瞬間に何が起こるか知っているはずですよね。それがわからない、知らないというのなら何をもって正解だといっていたのかという話になります。でも実際。この世に未来予知なんてことをしながら常に先におこることをすべて理解して生きている人はいないでしょう。自分の身の回りのことだけではなくて、地球の裏側でおこること、はたまた、宇宙のどこかで起きている物理現象がどんな風にこれから動くのか、それを理解して生きている人間なんてのはいません。

コロナパンデミックだってまさかここまで続くとは思いもしなかったでしょう。いつ何時何分に終わるかも誰もわからない。おおざっぱな予測や予想はしても、やはりピタリと一寸違わずあてることが出来ている人なんていうのはいません。ましてや、それによって人々の生活、一人一人の生活がどのように変化するのかを知っていた人なんてどこにもいなかったわけです。

だから〇〇しとけば安泰、完璧、なんてのはただの思い込み。そんなただの思い込みにすぎないことを自分に対してならともかく、他人の人生の成功や幸せをそうだとして決め付けることはできませんし、人それぞれその形も求めるものも違うのなら、他人のそんな意見なんて自分の人生における幸せとは何も関係がない、ということになるわけです。

だから、この世に正しい生き方、間違っている生き方をしている人なんてどこにもないのです。完璧で間違いのない素晴らしい人生を生きている人もいない。ただそれぞれがそれぞれの人生観や価値観をもって、選択して生きているだけです。

だから生き方自体はなんでもいいわけですよ。何をしようが、ただの選択でしかないんですから。正解でも間違いでもない。先のことが保証されていないこと、自分の人生はどうなってどう続いて、どこまで続くのかなんてことがわからないということは常に変わらないのですから何を選んでも変わりません。

つまり人がすることに意味なんてないのですよ。間違っていること、正しいことなんて言うのがないのですから。知らないのですから。結婚していたってしていなくたって、離婚したってどうだって、中卒だって、高卒だって、大卒だって、ニートだってなんだって、それ自体には何の意味ないこと。ただの選択でしかないのです。

だったらもう自分で選びたいものを選べばいいんですよ。今したいことを選べば。選ばせられたり、強制される必要なんかどこにもないわけですからね。

まとめ:あらゆる状況において「逃げていい」と自分を許可しよう

「逃げたい」

だから、もし自分がそう思うのなら、それは間違いなく、それは「自分がしたいこと」です。

他人の都合を自分から切り離していいのだと自分に許可をするんです。他人の都合を捨てて、他人の都合なしで自分で決めることを自分に許すんですね

自分の都合全開で、その場からバックレましょう。とはいえ会社やバイト先だったら、余裕があるなら退職手続きはした方がいいでしょうが。

とにもかくにも、自分で何かを選択して生きるということが一番いいです。明らかに自分がやりたくないと思っていることをやっても結局苦しいだけですし、続けられないでしょう。

自分でやると決めてやることが一番納得感がありますし、この納得感さえあれば、それがなんであれ行動も自然に苦痛なくできます。やらされていると思ってやると苦しいですが、自分でやると決めてやることというのは不思議と精神的苦痛がないのです。

というのも、全部自分で決めているという認知になるので、自分のコントロール下に自分を置けるから安心できるのですよ。つまり、自分で何かを決めて生きるだけで人は幸せになれるわけです。

他人にさせられている、感じさせられているという不安定な思い込み、コントロールできない思い込みがないからです。

むしろ人目を気にしない、勝手な自分を許している方が行動力は上がりますし、いろんなことをやってみたくなります。暇を持て余せばいろんなことにチャレンジをしたくなって他人時にせずに社会や他人と関わることもできるようになりますから、かつて怖いと思っていた会社や学校も怖くなくなるかもしれません。

そうなったらもう、かつての他人の目の恐怖なんてどうでもよくなっていて、自分で生きてきたくなってくるんじゃないかと思います。そうなったらもう、そんなことで悩んで苦しむ必要はなくなっているでしょう。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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