自分に素直になるって言われても、どうすれば自分に素直になれるのかわからない。
「素直な自分って何?勝手な自分でいいってこと?」
「そんな自分は許されるの?周りから嫌われない?周りから白い目で見られて恥ずかしい思いをするんじゃない?」
自分に素直になるって人によってはすごく難しいことかもしれないんですよね。人によっては他人の目を気にするあまりにそれが怖くてできなくなってしまっているということがあるんじゃないかと思います。
でもそれは、裏を返せば他人を恐れることをやめれば素直な自分になることができる、ということでもあるんじゃないかと思います。もしこの世に誰も人がいなかったら、自然な姿でいられるんじゃないでしょうか。
そちらの方がずっと楽かもしれませんよね。他人を気にしている今よりも。だったら、他人を気にしたり恐れるのをやめるために、自分と他人は違うことを受け入れてみるというのはどうでしょうか?
目次
誰かと違っていても大丈夫と自分を許すこと
人と自分が違っていること自体は別に悪いことでも何でもありません。ただの事実でしかなく、それ以上の意味もなにもありません。
違っている=頭がおかしい、存在しちゃいけない、なんてことはないんです。もしそう思い込んでいるなら、その思い込みは捨ててしまっていいもの。
それは他人に自分と同じものを求めなくてはならないという、日本特有の村社会的な思い込みでしかないんです。他人の目を気にしなきゃいけないという義務の意識自体が不要な産物です。自分が「誰かと同じでいたい」と積極的に前向きに思うのならまだしも、「同じじゃなきゃいけない」と消極的に考えていることであれば、それは自分の気持ちや意志に反して全部他人の都合を巻き込んだものであるので、全部やめていいのです。
元々自然の世界ではすべては違っていることの方が当たり前なんです。
同じ名前の動物でもその足取りや住んでいるところ、しぐさまで全く同じものはいない。結局は皆個体差があり、どれも違っているところがあるがあるいうことの方がずっと自然。
その辺の石ころだって全く同じ形のものはない。あるとしても、それを探し出すのは途方もない時間と労力がかかるくらいに大変。
同じものよりも違うものの方がずっと早く見つかる。それが現実なんですよ。
そんな中で自分を自分以外の何かと同じであることを望むのは、自分の前向きな「やりたい」という意思でやるならどこまでも突き詰められるので面白いかもしれませんが、「やらなきゃいけない」という意思でやるならどこまでいっても報われないので相当な苦行にしかならないわけです。
だから人と違う自分を間違っていると思わなくていいんです。それはただの苦行です。その先にもまたその先にも、他人と違う自分という苦行が待っているだけ。
だから違っている自分でいいんだと、ただ周りと違う自分を素直に認めてあげればいいんです。それだけで、もうその苦行の中に自分の身を置く必要はなくなり、一歩素直な自分に近づけます。
誰かに間違っている、おかしいといわれても大丈夫
自分のやっていること、考えていることが、誰かにとっては受け入れられないとか、普通じゃないとか、常識的でないとか、論理的でないとかいろんな理由で否定されることもあります。
でもそれは自分が完全に間違っていて、改めるべきである、という意味は全く持っていない。
人との考え方の違いというのは、それ自体が絶対的な政界でも間違いでもないのです。人の何かに対する解釈は固定ではなく、人それぞれの人生観に依存しています。
ですから、もし自分の考え方と他人の考え方の中で不一致や一致が起こったとしても、それは相性の問題でしかありません。それ自体に絶対的な政界や間違いなんてものはない。
だからもし「お前は〇〇な理由で根本的に間違っているのだからそれを認めろ、考え方を改めろ、反省しろ」と誰かがいってきたとしても、その要求に対してつっぱねたりすることもできるのです。
突っぱねた結果、その人とは縁が切れたり、あるいは所属するコミュニティから追い出されることもあるでしょう。でもその人やそのコミュニティとは自分の価値観や考え方における相性が合わなかっただけです。その場合は付き合いを断てばいいし、望むなら自分の考えを改めるだけのこと。あらためなきゃいけない、なんてことはどこにもありません。
ただ自分が望んだようにすればいいだけなんです。その方が自分がやっていることも考えていることも、所属するコミュニティに対しても何もかも煩わしい嘘は自分の中に亡くなり、また一歩自分に素直になれると思います。
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