「自分は人と違うな」
そう思ったことはありませんか?みんなと違う、周りと違う。まるでそれが特別な自分であるかのような気持でとらえる人もいますし、自分は間違っているのではないか、居心地が悪いような、自分がおかしな人間なのではないかと、そんな嫌な気分になってしまうということもあるんじゃないかと思います。
でもこれ、実はなにもおかしくもなければ、何ら特別なことでもないんです。
人と違うことは実のところ、ごく自然のことだったりするんですよね。
なぜかといえばそれは明らか。自分と全く違う人なんてこの世のどこも最初からいないからなんです。
目次
この世に自分と同じ存在はどこにもいない
もし仮にそんな人がいるとしたら、自分と”全く同じ”人生を歩んでいる人ということになります。
生まれた場所も生きてきた場所も全部全く同じ、考え方や価値観、もののとらえ方、好きなもの嫌いなもの、それがどう好きでいつどう好きになったのか、嫌いなものももしかり、ほかのものもしかり。
そんなこれまでの人生の積み重ねが、全く同じでもない限り、自分と同じ人なんて言う存在はどこにもいません。
なんなら、今立っている位置すら、全く同じでなければならない。これまで自分がいたすべての場所で全く同じところにいる自分以外の誰かという存在でなければなりません。
それが”自分と同じ”人です。でもそんな人いるわけがないですよね。存在できるわけがそもそもないから。
自分と完全に重なって同じ行動や言動、思考をそっくりそのままコピーでもしたかのような人間がいるだなんて、物理的に存在しえないし、いたとしても気づくこともできないでしょう。
違うところなんてすぐ見つけられるし、むしろたくさんある
まぁそんな極論でなくとも、人と人が違うというのは、ちょっと考えれば、観察すればすぐにわかることです。
人は環境によって自身の性格や価値観を作ります。その上で目的を作ります。環境というのは自分自身の感覚や精神、肉体から、家庭環境や学校、風習、友人関係など多岐にわたりますね。
そんな様々な環境によって作られる人間という存在が、一体どうやったら誰かと同じになれるんでしょうか。みんなのその環境がバラバラで、みんなそれぞれが、全く別の環境で、自分との環境なんてものからほど遠いものに囲まれて生きているのに。
そもそも見てくれからしてみな違いますよね。双子ですらよく見ると違うところがあるんですから。
それでも同じだなんて言うのは、本当にただの思い込みなんですよ。目の前のたくさんの違いという現実に目をつむって自分と同じ人間がどこかにいるはずだ、いなきゃおかしいと思っているようなものです。
そんな現実を拒絶するかのように「人と違うお前はおかしい」だなんて人がいたら、その人は自分に嘘をついて生きているだけなんです。ただの村社会気質な心理からくるものでしかないのです。
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他人と”同じでなきゃいけない”なんて義務も法則もどこにもない。
日本の社会は、その村社会的に同調圧力によって、人それぞれが違うことが悪であるというようなことを教えている側面があります。そう教えられ大人になった人たちがやがて子供をもてば、当然子供にも同じように教えるので、そうした負の連鎖が続いています。
それも恐怖からくる思い込みによってです。人と違うことは異常で、あってはならない、もし違う人間だったらきっと人様に迷惑をかける。そうなったら村八分だ、仲間外れにされてしまうだろう、だからおとなしく周りと同じことをしていろ、という義務感の教えですから。
この思い込みを知らず知らずのうちに積み重ねていってしまって、自分を押さえつけるような生きづらさが作られていくんです。ずっと他人に合わせて生きて大人になって、「自分って何がしたい人間なんだろう」と、例えば筆者の私のように社会に出てから悩み、うつ病を患ってしまうこともあるかもしれないのです。
だからそんな義務の考え方、他人を怖がる欲求を育てる考え方なんてもういらないのです。ただ重荷を背負わせて、不幸の種まきをしているだけにすぎません
自分が他人と違うなんていうのはただの事実で、おかしなことでも間違っていることでも何でもないんですから。
外にある何かに自分を合わせようとしなくていい。
「人と違うことがダメ」、なんて思わなくていい。
「そんなの普通じゃない」だなんて思わなくていいんです。
普通や常識といった、世の中で言われているいろんな「こうあるべき」という在り方。
そんなのはもういらないんです。
誰かや何かと一緒じゃないきゃいけない、自分じゃない誰かじゃないといけないなどというような、自然に逆らうようなことなんて、しなくていいんですよ。
自分は自分でいていい。今の自分自身でいいのです。単純な、今存在する自分で全く問題ないんですよ。
今こうして生きている自分でいいことを自分で許していい
自分がどんなに少数派でも多数派でも、たった一人だったとしても全然構いません。他人はそんな自分にいろいろ言ってくるかもしれませんが、それを真面目に聞いたり、合わせたり屈したりする必要なんかないわけです。
もちろんただ他人に意地をはっているだけだったら、それは自まず分に素直になることが先ではあるかもしれませんが、気楽に健やかな自分でいることがただできていれば、安心感を感じて自分自身でいられるのならそれでいいのです。
今こうして生きていることに、
今こうして1日を生きていることに
今こうして、自分があるように、ただ自分自身で生きていることに、罪の意識を持つ必要なんかありません。
「自分だけ」は悪いことなんかじゃないんです
自分だけが思っていること、考えていること、感じていることが、本当は自然であり、自分らしさであり、気持ちの良いことなんですね。
自分はこう思っている、こう考えている、こう感じている、これが大切だ、と思うこと。
そんな風に、独りで自分で何かを思う事、感じることです。
何も悪いことなんかじゃないんですよ。むしろ善悪なんてものを、「人は自分とは違う」というただの自然の法則に無理やり捻じ曲げるかのように持ち出すこと自体がおかしなことだったのです。ただの村社会的価値観の押し付けで、ただの洗脳でしかないんです。
自分が幸せなら幸せ。他の人を関係させる必要はないのですよ。
人と違う人に”見える”人が面白い人。
そもそも同じものを他人に求めるということは、つまらないことをあえてしようとしているようなものです。
それは、面白さとは「何かとの違い」にあるからです。他人のことを面白いと思うのは、自分とは違う魅力を持っていたりすることを自分が見つけたときだと思うのです。お笑い芸人さんが面白かったり、奇抜なことをしているYoutuberさんを面白く感じるのは、彼ら彼女らが自分と、あるいは周りとは違うことをやっているからではないでしょうか。
石ころが大して面白くないのは、石ころが皆同じように見えるからだとおみます。実際にはみな違う形をしているのですが、ざっくばらんに、遠目に見る限りは皆同じに見えます。さらに動いたりすることもないから興味を惹かれることもほとんどありません。
「同じで動かないもの」というのは人からすると興味の対象ですらないわけです。
だから人と同じになろうとすることはつまらなくて当たり前のことなんですよ。ましてや同じ他人が現れることを期待して、ただ待っているだけだったら、なおさらつまらなくなります。欲求不満がたまっていって、生きづらさがたまっていってしまいます。
実際、他人と同じになることはおもしろいでしょうか?他人と同じになって得られるのは「ホッとする」安心感だけじゃないでしょうか。
その安心感は何の不安に対する安心感でしょうか?自分と他人が違うことに対する不安感ではないでしょうか?
普段自分と違う他人や何かを面白いと思っているのに、その面白い何かに自分はなってはいけない、というのは、なんだかおかしいと思うんです。
自分だってそんな人になっていいんですよ。その方が人生は楽しく生きられます。
安心して人と違う生き方をしていいい
もう人違うことなんて意識すらしなくてもいいんです。
それが自然の姿、理だといってもいい。まるで空気が当たり前に存在していることと同じように、ごく自然なことなのですから、もう意識する必要も何でもないのです。
だから今の自分に単純に安心して、楽しみたいように、やりたいように、感じたいように生きていいんですよ。
それがどんな形でもかまいません。どんなやりたいことでもなんでもいい。
自分の人生という自然現象は、世界も間違いも最初からないのですから。
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