話題になっている先日のメンタリストDaiGoさんの発言で「自分にとって必要もない命は軽い。だからホームレスの命はどうでもいい。正直、邪魔だし、プラスにならない」というふうにおっしゃっていましたね。
ただ「個人の感想」だともおっしゃっていたと思いますが、多分自分が自分の気持ちに対して勝手にそう思っているだけのことで、ほかの人の考えや価値観を否定するつもりはないよ、一切関係ないことですよ、と多分言いたかったのではないか、と私は個人的に解釈しています。
ただその“遺恨”はのこってしまったようで、SNSでは多くの人からの批判があって大騒ぎでしたね。それを見て私はこんな記事も書いてみたのですが。
と、それは置いておいて、ホームレスの命をどうするか、生活困窮者をどう扱うべきか、なんてことを話題にしていた方をその中でちらほら見かけました。切り捨てるべきかどうか、みたいな話題です。
そんなわけで、私もそれについて書いてみようと思いました。
目次
生きづらくなるだけ
私個人の思いとしては、ホームレスの人の命を切り捨てる、生活保護を廃止することを仮に政策にしてしまうと、生きづらい社会が加速していくだけなのではないかと思います。
「ホームレスなんだから働いてないんでしょ?別に彼らがいても自分の得になんかならないし、むしろすねかじりなんだから負担でしょ?その人たちの飯を食わせるために俺働いていないんだけど?」
と個人的な不満をもとに彼らを本気で切り捨てることを大真面目に今の社会で実行するのは乱暴な政策な気がします。私は経済学や犯罪学などには無知に等しい人間なので稚拙な想像しかできませんが、もし大貧困や紛争地来などの他人のことを考える余裕がない国や集落などであればともかく、立法機関が効果的に機能し「治安」という仕組みが保たれ、そのおかげでほぼ滞りなく資本主義という仕組みが動いている日本のような社会でこれをやると、大抵は悪影響であることが大きいのではないか、と思います。
1.ますます失敗が許されない社会になる
成功している人たちはいいかもしれませんが、病気などで休まざるを得ないことになっていったん「社会のレール」から降りてしまうと、その保護が受けられないわけですから経済的に生きていくことが非常に難しくなります。
となると、ますます失敗の許されない社会が加速するのではないかと思います。一度でもそのレールを踏み出したら次はない。そんな風に言われたらみな意地でもそこにしがみつこうとするでしょう。しがみつきたくなくても生きていくためには仕方がないと、自分に無理やり鞭をうって。
そんな狭苦しい社会、可能性の可の字もないような社会になってしまうのではないでしょうか。
それが気に入らないのなら社会を出て他の生き方をすればいいじゃないか、という風にも考えられるかもしれませんが、現実的に考えてそれを実行できる人ってそれほど多くいらっしゃるのでしょうか。現代人はほとんどが資本主義社会に生きている上に、資本主義社会で生きる教育のみを曲がりなりにも受けいてきているわけで、ほかの生き方、例えば田舎で自給自足の生活をするなどといった、ほかの生活体系を知らないのです。そもそも土地の所有権などもありますし、それができる場所自体が大いに限られている気もします。
そもそも、平均的な日本人がそのような「ガッツ」を有しているかというと、私の個人的な印象では疑問を抱きます。
となると、そこに社会から何の援助も得られないような社会が到来してしまうと、一度切り捨てられた人は二度と社会復帰できない、つまり実質生きていく術の全てを失うということになってしまい、結果その人は自殺するか犯罪を犯すか、あるいはたとえ労働環境の最悪な会社でも体を壊すまでひたすら自分を酷使し続けるか、はたまたホームレスとなるかといった極端な選択を強いられる状況に追い込まれてしまうのではないか、と思います。
休むことも失敗することも許されない社会です。そんな社会って、もう奴隷の国と変わりないですよね。
人間社会を弱肉強食だとする=人間が社会を作った目的を否定している
というか、「弱いやつは死んで強いやつは生きる弱肉強食こそがこの世の真理だ」というのは人間が社会を作った目的の「弱肉強食の世界に対する対抗、解決手段」を否定しているようなもので、そもそも社会だの資本主義だのなんていらないというか、それを根本から否定していると思うんですよね。
確かに自然界では弱肉強食って側面はあると思うのです。野兎は力でライオンにはかなわないですし。人間だって一人じゃライオンには勝てないじゃないですか。
それを解決するために人は誰かと協力し、社会を、文化を、ものを作った。
自然界のある側面に対する、人間が生み出した解決策の形なんです。独りじゃなくて二人なら勝てるかもしれない。もっとたくさんいればもっと大きなことができるかもしれない。そうやってできていったっものなんじゃないでしょうか。
実際、今の世の中はそういった野生生物の脅威からほぼ無縁の世界でしょう。特に日本は。そこそこんお都会に住めばほとんどその危険はありません。でもそれは、最初から自然に存在した”プロテクション”ではなくて、これまで人間が作ってきたものの集大成です。
ごく単純な事実、今の自分の暮らしは最初から当たり前にあるものではないんです。
それを否定するようなことを言うのなら、社会を否定しているようなものです。
人間が作ったすべてのプロテクションなしで生きられますか?そのお金だって、そんなプロテクションの一部ですよ。なければただの紙切れにすぎません。手にしているスキルだって、今自分が生きている社会に依存しているものにすぎない。もし社会がなければそのスキルは自然界ですぐにやくにたつのでしょうか?パソコンという人間が作ったものを扱えるスキル自体が、一体自然界でどう生きるというのでしょうか。
皆生活保護以前に皆何かしら社会というプロテクションに守られてますよ
野生動物に対して対応できる知識や技能が今の自分にありますか?病気になったら自分で治療できますか?皆誰とも協力せずにバラバラに隠居して、文明社会もいりませんか?資本主義社会もくそもないという話になると思うのですけどね。
ホームレスの人たちだってもし社会が最初からなければ狩猟や農作などを一人行う自給自足の生活ができたかもしれないですし。そういう意味でむしろそっちの方がいい、というのならまだ理解できるのですが…
2.ますます生きづらい社会になる
そもそもますます失敗が許されない社会になる、というところが、既に生きづらい社会を作ることとイコールかもしれないですが。
日本はもともと、その村社会的気質からくる同調圧力や、何らかの外に定義されている価値があるとされているもの(常識、普通、大企業信仰、正社員信仰、結婚信仰、成功信仰など)にすがってしまっている部分があります。それにすがれない人、適合しない人を「負け組」だ「社会不適合者」だと見下したり、まるで存在してはいけない悪であるとしているかのようなカルト的な傾向もあります。その側面によって劣等感や自己否定感を感じ、生きづらさを感じている人はいるんじゃないかと思います。
そこにさらに、「経済的弱者は切り捨てましょう」というような政策を用いれば、ますますこのカルト体質は強烈なものになり、ますますそれにしがみつくことが人生の全てだ、というような生きづらい社会が到来するのではないか、とも思います。
となるとそのカルト的に信仰されているところにより資本が集まることになり、結果資本主義の悪い部分である貧富の差が開く要因になったり、経済的格差が開いていく要因にもなるかもしれないですし、それを受けて様々なコンプレックスの種も増えていく可能性があります。一度落ちこぼれた人がもしその後で精神的に立ち直り、社会に復帰しようとしたとしても「でももう何年も働いてなかったんだよね?」と、働いていなかったというだけで人を見下し、ろくに話も聞かずに頭ごなしに「こんな怠け者には雇用の機会を与えるな」、といったナチス・ドイツよろしく優生思想がはびこってしまう可能性もあります。
まぁこれは既にもうある気がしますが…これがさらにエスカレートした社会になるんじゃないでしょうか。
子供はより敷かれたレールの上を生きざる得ない生活を余儀なくされ、毒親問題は解消されるどころか「必ずこのレールの上の人生を生きろ」と子供に強要する形が多くなるでしょうから加速していく一方になるでしょうし、そこから精神をこじらせてしまってSNSなどで問題となっている誹謗中傷などの問題をさらに加速せていく要因にもなるのではないでしょうか。
それに対する国民の反応の強烈さやヒステリーも同じように加速していき、結果ますます人の目や評価が怖いものになり「人に嫌われたら死ぬしかないない」と思い込む人が続出、自殺率も今よりも上がっていくんじゃないでしょうか。
ちなみにお隣の韓国がそれに近い状況らしいのですよね。韓国って日本をさらに強烈にしたような白黒思考と大企業信仰の国らしく、大企業以外の企業の給料では本当に暮らしていけないような給料の社会で、だから皆大企業に行くために子供のころからずっと過酷な受験戦争に耐え、わずかに用意された新卒テーブルの取り合いのために、そのほとんどの時間を費やすのだとか。人々の自殺理由も、そういった格差社会からの要因だったり、友だちに嫌われたことや侮辱されたといった、人間関係に起因する自殺が多いらしいのです。
ひょっとしたら経済というのは、まさに一人一人の思い込みが要因となって形を作っているのかもしれませんね。
みんなが大企業を信仰すれば大企業の商品ばかりを買い、中小企業や個人の商品には価値を見出せず、結果大企業ばかりに金があつまり、中小企業は育たず、大企業の仕事を下請けで受ける中小企業ばかりになってしまい、新しい価値も生まれず結果貧富の差は拡大し、それは繰り返せば繰り返すほどエスカレートしていく。
資本主義の終わりに突き進むっていうのは、こういうことだったりするんじゃないでしょうか。
外部リンク:韓国の自殺率はなぜOECD加盟国でトップになったのかhttps://diamond.jp/articles/-/223300?page=3
3.失敗した人間がシンジゲートを作って犯罪が増える
失敗した人が生きていくために犯罪に手を染めざるを得なくなってしまえば、当然治安も悪くなっていきますよね。その数が多くなるということは、そのような境遇の人々が増えるということでもあるかと思います。
そういった頻拍した境遇にあった同じ人同士が結託してヤ〇ザをはじめとした組織の強化につながったり、半グレなどの犯罪集団も増えてくるのではないか、とも思います。
弱者を笑うものは弱者に泣く
結局弱者を切り捨てるという政策を資本主義国、立法機関が機能している国でやっても、結果的には経済的な失敗が1度も許されないという社会通念や価値観を促進するだけにすぎず、それは様々な不幸と生きづらさを生み出すだけなんじゃないか、ということです。
私は生活保護をはじめとするセーフティネットが合った方が、人は安心して何かに挑戦したりすることができる社会の助けになるんじゃないかと思っています。
社会絵生きる上での心理的安全性を確保できるものでもあると思うのですよね。
もちろん、生活保護を不正に受給したりする人は取り締まるべきですが。
また、切り捨てるよりも新しく働く生活に復帰する支援をした方が、労働力を回復させることもできますし、またそこに何らかの支援をするということは、それを達成するための雇用や仕事も生まれるので、全部悪いことだらけということでもないと思います。
仕事にどこか”階級”みたいな意識がついているのもよくないですよね。ブルーカラーや風俗の人を見下したりとか。みんな社会に貢献する「仕事」という点では同じですよ。
むしろそんな風に弱者を見下しすことを助長するような価値観が蔓延すると、どこかで自分がその弱者になった時に精神的にも立ち直れなくなってしまう人が増えるのではないかとも思います。
明日は我が身。誰しもがどんなタイミングでいつどんな状態になるかなんてことは、誰にもわかりません。
そうなったとき、その人が今までに背負ってきた、他人を見下すことでなりたっていた歪んだプライドが打ち砕かれて地のドン底に落ちてしまったとき、そのプライドがあるばかりに素直に誰かに助けを求めることができなくなってしまうと、もうその人生は地獄以外の何物でもないでしょう。
そもそも弱者というか、そもそも人を見下してもいいことなんてないと思うのですよね。自分の心が病んでいくだけですから。
だったらむしろ世の中がもっと平和に、生きやすくなることを考えていたほうが、社会だけでなく心身共に健康になっていいのではないかな、と個人的には思いました。
日本社会っていろんな「こうあるべき」っていう価値観によって逆に自分たちの首を絞めている側面もあると思うんですよね。年齢や性別で差別したり、そういった価値観がまるで法律で決まっていることのように真理だと本気で思い込んでいるし、そのおかげ画一的な価値観に収束してしまって、いろんな可能性が生かされずに無為になっているような気がします。それで一度レールを外れたら復帰しづらい社会も作られているんじゃないかと思いますね。
能力や人格などの合理的な面よりも、「そういうテイ」を重視しますし、少子化で労働力も減っている昨今、
こういう考え方は変えていくことも大事なんじゃないかと思いました。
ということで、この記事で言いたかったことを端的に申しますと、他人にしたことって後で自分に返ってきますよ、ということでした。良くも悪くも、ですね。
ただ他にも必要なことはあるんじゃないか、とも思います。「支援」というのが単にお金と最低限の衣食住だけを提供するだけで本当に充分かどうかは疑問です。というのも、ホームレスになる事情というのは金銭的な事情はもちろんそうなのでしょうが、精神的なその人の問題もまたあるのではないか、とも思うのです。
働くことが怖いとか、人が怖いとか、そういった「認知の歪み」が原因になっている可能性はあります。なのでその歪みを正して健康的な精神を得る支援もまた何らかの形で必要になってくるのではないかとも思いますね。(もう既にあるのかもしれませんが
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